第19話 元軍人の男(4)
夏はまだ先だ。けれど今日は暖かくて澄んだ青い空をしている。ここの海は鮮やかで宝石のように青い。白い雲も対照的で美しかった。
「綺麗だね」
「ああ」
それきり会話は途切れてしまう。波の音だけが聞こえて、2人はただそれを眺めていた。時間がゆっくりと流れる中、会話を切り出したのはラウラの方だった。
「連れてきてくれてありがとう」
イーサンを見上げてラウラは言った。
「大したことはしていない。……他に行きたいところはないのか。したいこととか、何でもいい。俺は、一緒にいろんなことをして、色んな所に行きたい。……いや、冗談だ。毎日普通に、楽しく暮らせればそれでいい」
ラウラは黙ってイーサンの言葉を聞いていた。「したいこと」と小さく呟く。
「あたしにそんな資格、あるのかな」
イーサンは海を眺めていたが、それを聞いた瞬間ラウラの顔に視線を移した。
彼女は笑っていた。
「あんなひどい戦争を生き残れたこと、幸運だと思う。あたしは嬉しい。今こうして、イーサンと海を眺めることができて」
ラウラは特に表情を変えないまま、「でもね」と話を続ける。
「あの子は、あの子たちは死んだ。海を見れないまま。あたしはこうして生きてるのに。生きてることが、嬉しいと思うから、悔しい。まだこれからの若いあの子たちの時間は止まっているのに、自分だけって」
イーサンはそこで初めて、自分が残酷なことをしたことに気が付いた。よかれと思ってしたことが、彼女の傷を深くえぐっていたのだ。
彼女に――ラウラに、涙を流させている。
「イーサン、聞いてくれる? ずっと言えなかったこと」
頷くと、ラウラは再び遠くを眺めた。
*
イーサンが戦争に行ってから、レグラスは暫くは平和だったの。爆撃も特になくて、学校もいつも通りだった。でも1か月が過ぎた頃、アンソリスの攻撃が始まった。レグラスもすぐに戦争なんてすぐに止めればよかったのにね。あんな酷いことをするから、とうとうこちらにも被害が広がった。軍の基地だけじゃなくて民間施設まで。
この地域もそのうち攻撃される。あたしは絶対に子どもたちを守ろうと誓った。他の先生たちとも、絶対に子どもたちを死なせないって、結束してた。
学校が休校になる前日だった。校舎に爆弾が落ちた。
『痛い、痛い!』
あちこちから声が聞こえるの。瓦礫に埋もれる生徒を見つけて、あたしは早く救助に向かおうとした。自分の上にも瓦礫が落ちていたからそれをどける。待っててねって、立ち上がろうとした。
でも立てなかった。足が潰れて原型をとどめていないことに、その時気づいた。それから急に激痛が走って、あまりにも痛くて涙が出てきた。子どもたちの前なのにみっともないよね。あたしはそのまま救急車で運ばれた。
後から聞いた話なんだけど、亡くなったのは生徒が44名、教師が8名だったそう。生徒を守って亡くなった先生。負傷している生徒を必死に看病した先生。それなのにあたしは、ずっと寝たきりで過ごしていた。
担当してくれた医者に向かってあたしは言った。
『殺してください』
『……なぜ? あなたは助かります』
『殺してください。親御さんたちに合わせる顔がない』
あたしは腕で泣き顔を隠した。その間医者は何も言葉を発さない。
看護師の人が入ってきて、医者と一緒にあたしの足について説明してくれた。このまま足を切断すれば命は助かる。だから手術をしましょう、と。
あたしのために尽力してくれているこの人たちに申し訳なくて、殺してくださいとはもう言えなかった。そのまま手術を受けることにした。
避難所には、亡くなったあたしのクラスのエミリー、アーロンの親御さんがいた。この2人の他にも亡くなった生徒はもっといた。あたしの足を見ると一瞬憐れむような目をしたけれど、すぐに表情が変わる。
『グレースちゃんのお母さんから、娘が亡くなったと聞きました。テオくんも。うちの、うちのエミリーは無事なんですよね……?』
『アーロンもまだ行方が分からないんです。先生、何か知りませんか⁉』
エミリーのお母様とアーロンのお父様は、まだ自分の子どもが亡くなったことを知らないようだった。あたしはなんて言えばいいか分からず、ただ黙っていた。
『エミリーさんとアーロンくんは……』
それ以上口にするとまた涙が溢れてきそうで話せなかった。すると、エミリーのお母様が、
『まさか、生きてますよね?』
と鋭い声で言った。
あたしの肩を強く掴んで揺さぶる。
『死んだなんて言いませんよね、先生? 生きてるんですよね? 先生はこうして生きてるのに、子どもたちが、エミリーが死んだなんて言わないですよね⁉」
『ゴメスさん、落ち着いて』
『落ち着いてなんていられるわけないでしょう⁉ あなたは自分の子どもが心配じゃないの⁉』
『心配に決まってます、でも先生もこの通り、大怪我をしているわけで……』
アーロンのお父様が止めに入るまで、あたしはただされるがままだった。騒ぎを聞きつけた同僚の先生が戻ってくる。エミリーとアーロンが亡くなったことを伝えた。2人で『申し訳ありませんでした』と深く、深く頭を下げる。
アーロンのお父様はただ茫然と立ち尽くし、エミリーのお母様はあたしの頬を叩いた。
『許さない。絶対に許さないから』
あんたが死ねばよかったのに。
一生忘れられない言葉が、あたしの胸に刻まれた。
マーフィー先生はあたしをそっと抱きしめてくれた。
『ベルガー先生は何も悪くない。悪いのは、この戦争よ……」
もう涙すら出ないあたしの代わりに泣いてくれるみたいだった。それを抱き返す力も、ない。
その晩は爆撃が比較的落ち着いていたので外に出た。明かりがない深い夜。星が海みたいにきらきらしていて綺麗だった。亡くなったアーロンの話を思い出す。
『先生、ぼく今度家族でお出かけするんだ。どこに行くと思う?』
『え~、どこだろう。動物園とか?』
『ブッブ~、違います! 正解はね、海だよ! ぼく海にはまだ行ったことがないから楽しみなんだ!』
『そうなんだ! それは楽しみね! 今度感想教えてね』
あのお父様もきっと、息子と一緒に海に行きたかっただろう。家族みんなで揃って。でももうできないのだ。この先ずっと家族が揃うことがないから。
あたしは何も守れない。守れなかった。
今日のお父様との会話を思い出す。
『もっと早く休校にはできなかったのですか』
『返す言葉もございません……』
マーフィー先生と何度も謝罪した。あたしと彼女は休校を早めてはどうかと会議で提言した側だが、そんなもの、言い訳にはならない。
『ベルガー先生、外は冷えるわよ。それに危険だわ。またいつ攻撃されるか分からない』
マーフィー先生はあたしの車椅子を押し、中へと連れて行ってくれた。
『あのお母様の言う通り、あたしが代わりに死ねばよかった』
『……そんなこと言わないで。お願いだから』
震えた声で彼女は言う。後から分かったことだけれど、マーフィー先生はこの戦争で母を亡くしていた。
足を失ったことの悲しみも、生き残ったことの喜びも、子どもたちが亡くなってしまった、死なせてしまった苦痛と比べれば本当に些細なもの。あの時会議でもっと強く言っていれば。あたしが怪我をしなければ、子どもたちの手当てができていれば、もしかしたら助かっていた命もあったかもしれない。でも時間はもう戻らないんだ。
こうしていま生きているのが、不思議でたまらない。
*
ラウラはそこまで話すと、イーサンの顔を見上げた。
「ずっと自分の中に閉じ込めていて、ごめんなさい。どうしても話すことが、できなくて」
静かに涙が頬を伝う。そんな彼女をイーサンは優しく抱きしめた。
「謝るな、もう……。辛かった、辛かったな。俺も自分のことで精一杯だった。ちゃんと話を聞けなくてごめん」
イーサンは謝るなと言ったが、ラウラはそれを無視して何度も呪文のように唱えた。
「生徒のことは俺も残念に思う。ご両親のことを考えると……、本当に。でも、それでも俺はラウラが生きてくれていて嬉しい。そういう風に思ってしまう俺は最低だろうか?」
「! 最低なんかじゃ、ない……。あたしも、イーサンが生きて帰ってきてくれて、嬉しい」
そう口にすると、ラウラははっとした。
「そう、嬉しい……。なんだ、口にすればこんなにも、簡単なことだったんだ」
嬉しいと思っていいんだ。ラウラは涙を溜めながら目を細める。それを見たイーサンは胸がいっぱいになった。あの頃の彼女が戻ってきた。また、この笑顔を見られた。傷を必死に隠すような痛々しい笑顔じゃない。
10年。戦争が終わってから、今年でもう10年が経つ。長い間、ラウラは自分のしたことに苦しんできた。イーサンもいまだに悪夢を見る日がある。人を殺した。大事な生徒を死なせてしまった。それぞれ自分の枷に捕らわれていたが、罪を必死に贖罪しようとしながら、いま、そこから抜け出そうとしている。
イーサンは勝手にラウラの感情を売買したことを謝罪した。
「そう……。怒るどころか、まずそんなお店があること自体信じられないんだけど」
「本当にあるんだよ。俺も最初は信じられなかった」
呆れるようにイーサンのことを見るラウラ。申し訳なさそうに目を逸らす夫が、少し可愛らしく見えてきた。
「いいよ。あたしがどうこう言える立場じゃないし。それより、ずっと気を遣わせていてごめんなさい。こんなあたしなのに、傍にいてくれてありがとう」
その言葉を聞くと、イーサンはぎゅっと口を結んだ。
「いや、こちらこそ……」
満足そうにラウラは微笑むと、そうだ、とコロコロ表情を変える。
「ねえ、あたしもそのお店に行ってみたい。店主さんも色々考えてくれていたんだよね。お礼が言いたいの」
いいでしょう? とイーサンの目を見て言う。『感情の雫』に辿り着くには、自分の願いを強く唱えなければならない。しかし、イーサンの願いはもう叶った。だからもう一度あそこに行ける保障はないのだが、ラウラのお願いは断りにくかった。
「分かった……。行ってみよう」
「本当? ありがとう」
「とりあえず今日はそろそろ帰ろうか」
ラウラの車椅子を引いて、もと来た道を行く。
「あと、我儘ばかりだけれど、あの子たちのお墓参りに行きたいの」
「そうだな。今度国に帰ろう」
休日の予定は当分埋まりそうだ。
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