第20話 元軍人の男(5)
男性と車椅子に座る女性は、例のあの店があるこの街を訪れていた。
「この森の奥にあるの?」
「ああ、それなんだが……」
なんと説明しようか迷っていたところ、イーサンにとっては救世主とも言えるような人物が現れた。
「あれ~? イーサンさんだ。どうしたんですか?」
「イーサンさん? こんにちは!」
ノアの後ろにはマシューも荷物を背負って立っていた。
「ああ2人とも。学校帰りか?」
「あら、かわいいね。ノーサン知り合いなの?」
今日はノアの通う中学院はいつもより早く終わり、帰りにマシューを迎えに行ったらしい。簡単に自己紹介を済ませる。ラウラはそれを聞くと、「仲のいい兄弟だね。しっかりしたお兄ちゃん」とほほ笑んだ。
「そうでしょ~」
「マシューやめろ、そういうことは口に出さないものだ」
ノアは照れくさそうに弟を叱る。2人の様子を見てラウラは嬉しそうだった。
ところで、とイーサンは話を切り出す。
「そういうことなら」
ノアは言うと、自分の手をイーサンに差し出した。マシューの手はラウラが握るよう指示する。イーサンはその意図が分からなかったが、兎に角ノアの言う通りに小さな手を握った。
「じゃあ、俺がいいって言うまで手を離さないでくださいね」
そして、森の入口へ足を踏み入れると、
「!」
イーサンは目の前の光景が信じられなかった。浮遊感が体を襲ったかと思うと、いつの間にかあの店が現れる。ラウラも辺りをきょろきょろ見回していた。
「すごい!」
と目を輝かせている。
「ノアってすごい魔法使いなんだね!」
「へへっ。いや、本当にすごいのはうちの店主だよ」
行こう、と4人は店の中へと向かった。
「なんだかいつもより気配が多いと思ったら。いらっしゃいませ、今日はどうしたんですか」
やれやれ、といった様子で店主は出迎えた。
「ただいま~。なんかイーサンさんたちが森の前にいたから連れてきちゃった」
「は、はじめまして、妻のラウラといいます。この度はお世話になりました」
「ニャーン」
スイも出迎えにやってきた。コウはというと、イーサンがお気に入りなのか、その足元でお腹を出している。持ち前の警戒心はいったいどこへいったのか。
「……それで、お礼が言いたくて来たということですか」
「はい。色々とご迷惑をおかけして……」
「ご迷惑などとんでもない。お客様に接客をしたまでです」
店主はコーヒーと自分の分のカフェオレを用意してテーブルへ持ってきた。ラウラは座ったままぐるりと店内を見回している。
「それにしても、すごいですね。こんな魔法を使う人なんてレグラスでは聞いたことがないです」
ボトルには様々な感情が書かれたラベルが貼ってある。『嫌悪』、『驚き』、『信頼』、『悲しみ』……。棚一面にずらりと並んでいる。
「この中にはあたしの感情もあるんですか?」
「はい。ラウラさんからは、足を失ったことへの『悲痛』を頂いています。また、生き残ったことへの『喜び』もイーサンさんが購入されました。特定のものに関する感情も取り扱っています」
「『悲痛』と『喜び』……。そうなのね」
ラウラは目を伏せる。それを見てイーサンはすまない、と謝った。
「いいの。あたしを思ってやったことなんだよね。店主さんもありがとう」
「お礼を言われるようなことでは」
それからラウラはレグラスにいた時のことを話した。戦争が始まる前の生活、戦時中のこと、ルーナシアに来るまでのことを話した。店主は20代半ばに見えたので、戦争のことを全く知らないことに2人は驚いていた。
「なんだ、知らなかったのか」
「はい。僕がこの世界に来たのはその戦争が終わったあとだったそうで」
「この世界? どういうことだ?」
イーサンとラウラはお互い顔を見合わせた。店主は、ここまできたら話しましょう、とカフェオレを口にする。
「マシュー、静かにしてるんだぞ」
「分かった」
店の奥ではノアとマシューが聞こえないように静かな声で話している。店の様子が気になって降りてきたはいいものの、出るタイミングを見失ったらしい。「この世界」と意味不明なことを言っている店主の話に耳を傾ける。そういえば俺たちは店主のことを何も知らないな、とノアは思った。それにしても日本がこの世界にはないということは、自分の母も別の世界から来たということだろうか? ノアは頭が混乱してきた。
「僕がこっちの世界へ来たのは9年前のことでした。意識を失っていて、目を開けたらこの森の中にいたんです」
「こっちの世界とは……、その前はどこにいたんだ?」
「思い出そうにも、全く分からないんです。どこに住んでいたのか、自分の、そして家族の名前も何も」
ラウラは悲しそうに顔を歪ませた。
「途方に暮れていると、この店の前の店主が僕を見つけて、ここに住まわせてくれました。その人の名前はたしか……
「自分の名前は忘れているのに、その人のことは覚えてるんだ」
そう聞くと、店主は「はい」と言って、口元をほんの少し、本当に少しだけ緩ませた。
「マ……マシュー、笑った! あの店主が今笑ったぞ!」
ノアは大声で静かにマシューに教える。
「ええ~、僕も見たい!」
マシューも大きな声で、けれど静かに言った。
自分の家族、名前、住所など、自分に関する記憶はほとんど朧気なのに、渚という人物だけは覚えている。その事実に、きっと大切な人だったのだろうとラウラは感じた。最初店に入った時は、冷静であまり人を寄せ付けない孤高な人なのかと、そういう印象を受けてしまったが、きっとそんなことはないのだろう。イーサンも同じく、店主に対する印象がほんの少しだけ変わっていった。
「でも、僕が覚えているのはそれだけです。この森で倒れていたこと、前代の店主の名前、そして僕が扱うこの術……。もしかしたら凪沙さんが教えてくれたのかもしれませんが、大半は彼が残したのであろうノートを見て行っています」
この前言っていたノートとは先代店主のものだったのか。ノアは今日初めて知る情報量が多すぎて、早くも整理が追い付いていない状態だった。
「そうだったのか……。早く記憶が戻ることを願うよ。こんなことしか言えなくてすまないが」
「あたしも、あたしもよ」
「ありがとうございます」
店主は軽く頭を下げた。すると、何かに気づいたのかラウラに尋ねる。
「ラウラさんは先程、手術を受けたとおっしゃっていましたね」
「うん、そうよ」
「失礼ですが、その医者は僕のような系統の顔をしていましたか?」
「系統……? ううん、あたしたちと同じレグラス人よ」
「そうでしたか。すみません、変な質問をして」
それを聞くと店主は些か声色を暗くした。「あ、でも」とラウラは話を続ける。
「避難所の人たちを診察していた人は、日本人だったよ。あたしの手術をしてくれた医者の助手か何かだって」
「その人の名前は知っていますか」
店主は身を乗り出した。イーサンとラウラは動揺しながらも、
「多分だけど……カンナギ、だった気がする」
カンナギ。
その名前に、ノアも聞き返した。
「ノアさんたちもいたんですか」
「あ、やべ」
店主は手招きしてノアとマシューを呼ぶ。
「丁度いいです、2人も一緒に聞いてください」
「盗み聞きしてごめんなさい……」
「別にいいのに、ねえ?」
ラウラはイーサンに言うと、イーサンも「そうだな」と返した。
レグラスとアンソリスが戦争をしていた頃、御巫はレグラスにいたらしい。そうすると、戦争が終わってからルーナシアに渡ってきたということになる。
「この世界に来て以降の記憶が戻らないのは、御巫の手術を受けてからなのです。だから記憶を取り戻すために、その男を探しています」
「そうだったのか……」
イーサンは納得したように呟く。探しているのは俺だけどな、とノアは心の中で思った。もしかしたら店主に筒抜けかもしれないが、声に出すよりはまだ幾分かましだろう。
「でも、良い情報が聞けてよかったです。教えていただきありがとうございます」
「そんな。大した事はしてないよ」
そろそろ帰りましょうか、とラウラが言うと、イーサンは立ち上がってラウラの後ろにまわった。
「色々と世話になった。あなたのこれからを願っているよ」
「ありがとうございました。もしまた何かあればいつでも来てください」
ラウラも「ありがとうございました」と一礼すると、店を出ていった。2人はこの後、きっとすぐ森を出れることに驚くことになるだろう。
店主は外に出て後ろ姿を見送った後、木の陰に何者かが隠れていることに気づいた。
「誰だ」
以前ノアに術をかけたように、その者の動きを止める。しかしそれは直ぐに動きを再開し逃げようとする。
店主は指を鳴らした。
「桔梗」
「はい」
桔梗は何も聞かずそれの後を追った。
「店主さん、どうしたの?」
「……なんでもないですよ」
戻るのが遅い店主を心配したのか、ノアが店の中から出てくる。
「ねえ、その凪沙さんってどんな人だった?」
「分かりません。名前しか覚えていないので」
でも、と店主が続ける。
「こんな僕が覚えているなら、きっと優しい人だったんでしょう」
ノアはそれ以上は何も言えず黙ってしまう。店に戻るとマシューはコップを片付けようとしていたので、危ないからと止めに入った。
「今回のお二人はとても珍しいケースでした」
「どうして?」
洗い物をしながらノアは尋ねる。店主は「ああ、ありがとうございます」とお礼を言ってから、
「なぜだか、ここに来るお客様は不幸になることが多いです。皆自分で望んでここに来た。望んで、感情を買ったり売ったりする。自分が置かれている状況が少しでも楽になるように。……それなのに、必ずと言っていいほど不幸に見舞われます」
店主はスイの頭を撫でる。
「だから、あの時……、スイが零してくれてよかった」
「!」
「あの音は、そういう音だったんだね」
マシューが呟いた。
「ノアさん、実はあの時、術に使う特殊な水をスイがぶつけて零してしまったんです。だからマシューさんは完全に術にかからなかった。スイに感謝してくださいね」
そうだったのか、とノアはスイに向かって言った。本当に、今日は初めて知ることが多すぎる。マシューが少しずつ色以外にも好奇心が芽生えてきているのは、この目の前の小さな猫のおかげだったのだ。
「ありがとう、ありがとうスイ」
「ニャーン」
ノアが抱っこしようとすると、するりと腕をすり抜けてコウの方に行ってしまった。
(やだ)
とスイに否定され悲しくなる。そんな自由な猫が、ノアは好きなのだが。
*
ある休日、イーサンとラウラは母国のレグラスに来ていた。首都の広場にはあの戦争で亡くなった人たちの慰霊碑が立っている。イーサンの仲間のお墓参りを済ませたあと、片道2時間かけて今度はあの生徒たちが眠るお墓にやってきた。
花を飾り、ラウラは手を合わせる。イーサンも一緒にした。
(ごめんね……。あの時守れなくて本当にごめんなさい。どうか天国で安らかに)
ラウラが目を開け後ろを振り返ると、ある夫婦もやってきていた。
「あ……」
「あなたは」
亡くなったエミリーの両親である。ラウラは言葉が出ず、黙って頭を下げた。するとエミリーの母は静かに、
「顔を上げてください」
と言った。
きっとまた怒られるだろうと思っていたラウラは意表を突かれる。イーサンは3人の様子を見守っていた。
「あの時は、本当にすみませんでした。先生も大怪我をされていて、何も悪くないのにもかかわらず……。気が動転していて許されないことを言ってしまいました」
「私からもお詫びを申し上げます」
エミリーの父も、妻と同じように頭を下げる。
「そんな、謝らないでください。何もできず、本当にごめんなさい。教師失格です」
「いえ、実はあの後、エミリーと仲が良かった子から聞いたんです。先生は足を失いながらも、両腕で地面を這い、必死に生徒たちの元に向かおうとしていたと」
イーサンはラウラを見る。彼女は唇を震わせて話を聞いていた。
「先生、うちの子を守ろうとしてくれて、ありがとうございました。あなたは立派な教師です。どうか胸を張って生きてください」
エミリーの母は静かに涙を流しながら、笑っていた。
生徒たち全員のお墓参りを済ませた後、ラウラはイーサンに言った。
「ねえ、イーサン。イーサンがよければでいいの。また……ここに住んで、学校で働きたい」
「……そう言うと思ったよ」
「! ふふ、本当、あたしのことよく分かってるのね。もう前みたいに体育の教師はできなくても、あの空間で子どもたちを見守ることができれば、それでいいの」
「俺もまた新しい仕事を探すよ。今度こそ、普通に楽しく生きていこう」
ラウラの車椅子を引きながら、イーサンは歩いていく。
戦争が終わってから、あの時から2人の時間は凍ったまま動かなかった。10年という月日が流れた今、その氷は溶けようとしている。
「イーサン、ありがとう」
太陽に照らされてラウラは笑った。
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