第18話 元軍人の男(3)

 台所に美味しそうな匂いが充満している。少し低いキッチンの前にはラウラがいた。

「イーサン、あたしがやるからいいのよ」

「いや、手伝うよ。これはテーブルに持って行っていい?」

「……ええ、お願い」

 柔らかな笑顔を浮かべながらラウラは言った。

 昔と比べたら別人のようにおしとやかになった。おしとやか、は決して悪いことではないが、イーサンはあの頃のラウラが恋しくなる。周りの目は気にせず、自分が正しいと思ったことは最後までやり通す。正義感も高く、お年寄りから子どもまで、困っている人は見過ごせない主義だった。

 いつも元気で明るい彼女。イーサンは一緒にいるだけで幸せだった。戦争があった中、今もこうして2人とも生きていられることに、神様には感謝の気持ちでいっぱいだ。

 俺は欲深いのかもしれない。イーサンは自分を罪深い人間だとも思ったが、これ以上ラウラの元気のない姿を見るのは辛いのだ。戦争が終わってから10年経った今でも、彼女に落ちる影は消えない。

「美味しいよ。ラウラの作ったご飯が一番おいしい」

「……ありがとう」

 ラウラはまた静かに笑う。以前よりは大分容態も安定し、こうして笑いかけてくれる回数も増えた。だが昔のようなラウラはどこか遠いところにいる。

 店主は魔法がかかるまでは少し時間がかかるといった。早く効いてくれるといいが。

(あ……)

 手首にしていた石のブレスレットが視界に入る。あの店までは遠いが今度休みが取れた時に返しに行かなければ。イーサンはそう思いながら、ラウラの作った料理を口に運んだ。


 次の日の夕方。

 今日もラウラはイーサンのために食事の用意をしてくれている。戦争が起きる前、レグラスにいた頃は、2人で当番の日を決めて家事をこなしていた。でも今はこうしてほとんどラウラが家事をやっている。自分がやるからいいと言ってもきかない。あたしにはもうこれくらいしかできないから、と何でもやろうとする。イーサンの目にはそんなラウラの姿が、痛々しく映った。

 仕事から帰り自室に戻ると、そこにはどこから入ったのか、肩までの黒髪の少女が立っていた。見たことのない服装だ。

「! 誰だお前は!」

 イーサンは身構える。しかしそんな彼の態度に怖気る様子はいっさいなく、少女は口を開いた。

「驚かせてしまい申し訳ありません。私は桔梗と申します。主様の命により、術が完了しましたことをお知らせに参りました」

「主……? 術……? ああ、あの店主のか。いいと言ったのに。わざわざすまないな」

 イーサンは安心すると礼を言った。

「今日私がここへ来た理由はもう一つあります」

 それを、と桔梗はイーサンの手首を指さした。その仕草で察したイーサンは、桔梗に石のついた組紐を手渡す。

「ちょうど今度返しに行こうと思っていた。助かる」

「無事に回収できて何よりです。それでは、失礼いたします」

 用事が済んだかと思うと桔梗はすっと姿を消した。

(今の少女は何者だ……? あの男の使いか何かだろうか。それにしても人間の姿の者を使い魔にするとは聞いたことがないな)

 しかしそもそも魔法で人の感情を売買するということ自体、他に聞かないため、店主ならなんでもありだな、とイーサンは考えを落ち着かせた。これで店に行く手間も省けた。ありがたい。

 イーサンははっとして、ラウラに魔法の効果が出ているかどうかを確認しに1階へ降りた。

「イーサン。ちょうどご飯ができたよ」

 ラウラはいつもの見慣れた暗い笑顔を見せる。

「あ、ああ。ありがとう。今日もおいしそうだ」

 2人で食卓を囲みご飯を食べる。

「そうだラウラ、この後散歩に行かないか。もうずっと外に出ていないだろう。俺が押して歩くから」

「……ありがとう。あたしが歩けなくて一人じゃ外に行けないと思っているのね。でも、もう足を失ったことは気にしていないから。ただ家の中にいるほうが好きなだけ」

 そう言ってラウラはイーサンの提案を蹴った。

「そうか……。じゃあ、ちょっと近くに買い物に行ってくる。何か欲しいものはあるか?」

「大丈夫よ。いってらっしゃい」

 ラウラが今話した通り、両足の喪失に対する『悲痛』は店主に買われたらしい。桔梗の報告からも無事に完了していることが分かった。しかし彼女の態度は何も変わらない。影はそのまま残っている。彼女が変わってしまった理由は、何か別にあるのか?

 イーサンはその後もラウラにいろんなことを提案した。バスケなら車椅子でも楽しめるから一緒にやろう、と言っても、「別にいいよ」と返される。それどころか、

「もしかして、まだ教師の仕事に未練があると思ってる? 大丈夫よ。もう吹っ切れた」

と優しく笑われる始末だ。

 一体何が原因なんだ。イーサンは頭を抱えた。その時、脳裏に店主の言葉が思い浮かぶ。

『購入される場合は戦争を生き残ったことの『喜び』を選択してはいかがでしょう』

 喜び。もしかしたら、ラウラに足りないのはこの喜びではないか。人の感情を勝手にとったり与えたりすることは決していいことではない。しかし戦争によって全てを奪われたラウラが、少しでも元気になってくれればと思う。人生はまだまだ続いていく。今後の人生をあのまま送るなど残酷だ。もう一度あの店へ行こうとイーサンは決意した。



     *



 ドアを開けると店主がすぐに気づいた。

「いらっしゃいませ、イーサンさん」

 再びの来店に特に驚いていないようだ。コウは一度吠えるがイーサンに近づき頭を撫でられる。スイは毛づくろいをしていた。

「術は確かに成功したと思うのですが。本日は、どういったご用件でしょう」

 イーサンはラウラに特に変化が見られなかったことを話した。

「そうですか。ではラウラさんが今のようになった大きな理由は、両足を失ったことではなかったのですね」

「ああ。だから今度は前にあなたが言っていた、生き残ったことへの『喜び』を買いたい。それをラウラに与えてほしい」

 店主は、ふむ、と片耳の黒いピアスをいじりながら考える。

「分かりました。それでは準備と会計に移りますがよろしいですか?」

「頼む」

 イーサンは迷いのない目で頷いた。今度こそラウラに何か変化があればいいが。

 戦争の前のように、くだらないことで笑い合って、一緒に出掛けて、ただ普通の日常を送りたい。「普通」がどんなに難しいことか身をもって味わった。再びヒトガタにラウラの名前を書きながら、これでまた普通の生活が戻ってくれることを願う。

 魔法はあっという間に終わってしまった。

「……では料金もいただきましたし、これで終了です。使いの者はどうしますか?」

「そうだな……。今回は頼んでもいいか?」

「了解です。では、また桔梗を向かわせますね」

 店主に見送られイーサンは店を後にした。


 イーサンは戦争で、仲間と、父親を失った。あの時は自分も死んでしまいたいと思った。けれど父親と妹と、そしてラウラがいたからこうして生きてこられた。悪夢に悩まされ苦しんで、当時の記憶がフラッシュバックしても、周りにいる大切な人たちが助けてくれた。そのおかげで今は心が安らかになっている。生き抜いて、生きていられて嬉しい。大切な人たちと過ごせるから。

 傷は一生消えない。薄くなって目立たないだけだ。それでも自分は傷を抱えて生きていける。きっと、ラウラはまだその正体不明の傷が癒えていないのだ。それを喜びで隠せたのなら、少しは見えなくなるだろうか。


 それから再び桔梗が報告に来た。お礼を言うとまたすぐに消えてしまう。真面目で従順な使いだとイーサンは高く評価した。

 今度こそ、とラウラの姿を見に行く。しかし結果は同じだった。

 薄い笑顔をはりつけて、にこりと笑う。怒ることもしない。泣くこともしない。ただ

「ラウラ」

 イーサンは思わず尋ねる。

「何がそんなにつらいんだ。教えてくれ」

 これも自分の支えが足りなかったせいなのだ。きっとそうだ。

 ラウラは口を結んだ。

「何も。あたしはずっとあたしのまま変わらないよ」

 にこやかな笑みの表情を崩さず、決して本心を見せようとしないラウラに、イーサンは苛立ちさえ覚えた。

「そうか。……俺には何も話せないってことか」

「何もないから話さないだけよ」

 目の前の彼女に一瞬既視感を覚える。どこかで見たようなこの感じ。

 そうだ。あの店主だ。

 あの男も、話している最中、まったくといっていい程感情を見せなかった。感情がぶれないというより、最初からそれがないような。

 イーサンはこれ以上問い詰めても無駄だと、諦めて自室へ戻る。後ろから視線が刺さったがそれを無視して階段を上った。

 次の日、イーサンはラウラと顔を合わせるのが少し気まずくて、俯き気味に小さく「おはよう」と言ったが、何もなかったかのように笑顔で、「おはよう」と返された。もう何度も見た感情のない笑顔。イーサンはその後いつも通り仕事へ向かった。


 しかし、まだしていない「提案」はあったため何度か挑戦してみた。食事、ショッピング、旅行。当然のようにことごとく却下される。外食ならデリバリーを頼めばいいと言われ、旅行も別に行きたいところがないと言われる。

 やはりだめか、とイーサンは引き下がろうとしたが、1つだけまだ言っていないことがあった。

「じゃあ、海はどうだ? 泳げなくても一緒に眺めよう」

 ラウラは海という単語を聞いた瞬間目を大きくさせた。そして短い沈黙が流れた後、

「連れて行って」

と言った。

 

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