第17話 元軍人の男(2)
「それでは――」
ノアとマシューは店主の次の言葉を待った。
「感情の購入と売却、どちらがいいかはノーサンさんに選んでいただきましょう。先程の話を聞く限り、ラウラさんは足を失ったことによりその状態になったと思われます。ですので売却の場合は喪失に対する『悲痛』を、購入される場合は戦争を生き残ったことへの『喜び』を選択してはいかがでしょう」
ふむ、とノーサンは腕を組んだ。
「なるほど……。お金は持っているからどちらでも構わないが、どうしようか」
感情を与える方と、取り除く方。今まで一番近くでラウラのことを見てきた。戦争が始まる前、ラウラは本当に活発な性格だった。初めて知り合ったときもその明るさに惹かれてもっと話したいと思ったのだ。それが今となっては正反対な性格になってしまった。あの意味のない戦争さえなければ。
ラウラのことを考えると、『悲痛』を取り除いた方が彼女のためになると考えた。両足を失ったことによって体育教師の職にも戻れない。それが一番悔しいだろう。だからせめてそれを取り除くことができれば。
「じゃあ……。ラウラの『悲痛』を、買ってくれないか」
「了解しました」
店主はいつも通り表情を変えずに答えた。
「それでは、今から始めてもよろしいですか」
ノーサンは一瞬驚いた表情をしたが、
「頼む」
と覚悟を決めて言った。
店主は料金を計算し、封筒に入れて手渡す。
「『悲痛』はマイナスの感情なのでそれほどのお金にはなりませんが、15万リル入っています」
「十分だ。金額は特に気にしない」
その言葉を聞くと、店主はボトルやヒトガタなどを取り出して準備を始めた。後ろを振り返りノアを見る。
「ノアさんも見ていてください」
「え……? う、うん」
そろそろ自分は2階に上がった方がいいかと思っていたので、突然のことに呆気にとられるが、ノアは店主に言われた通り、近くで見ていることにした。
「ではノーサンさん、こちらにラウラさんの名前をフルネームで、縦書きで書いてください」
「縦書き? ……分かった」
ノーサンは言われた通り、ラウラ・ベルガーとヒトガタに書き込む。そして液体が入っているボトルをノーサンに渡した。
「ここからはノーサンさんにやってもらうしかありません。まあ、ラウラさんにここに来ていただければ済むのですが……。それは難しいでしょうしね」
「俺は何をすればいい?」
「ラウラさんが気づかないうちにこのボトルをかけてください。そうしたら額にこのヒトガタを貼り付けて。ノーサンさんの体を伝って私が術をかけます」
「な、なるほど……」
ノーサンも見たことのない魔法に戸惑っている様子だった。ボトルの他に名前と感情の書かれたヒトガタと、店主が作ったのだろうか、紫に編み込まれた組紐のようなものに、石がついている。
「今晩術をかけましょう。その時はこの石も身につけておいてくださいね」
「分かった。ありがとう」
そうしてノーサンは感謝の言葉を述べて帰って行った。
「本当にすごいな、店主は……」
ノアが感慨深く呟く。
「いずれはノアさんにこのお店を引き継いでもらいますからね。マシューさんにもお手伝いとしてサポートしてもらいます」
「俺が店主になるの⁉」
「兄ちゃんすごい!」
同じようなことが到底できるとは思わないノアは、絶対無理だと思った。しかし店主はきちんと教えると言ってきかない。
「どうしてそこまで俺に継いでほしいんですか?」
店主は少し考えて答えた。
「わかりません」
「は?」
相変わらずこの人は変わっている。
「そう思われても結構です。ただ……なぜだか分からないのですが、このお店は残していかなければならないような気がして」
店主は目を伏せる。心が読めることを忘れて、しまった、とノアは後悔したのだが、全く気にしていない様子だった。
「今日の夜も術に付き合ってくださいね」
「……分かった」
*
夜中の0時。マシューはもう寝てしまったが、ノアは重い瞼を擦りながら店主の様子を見ていた。何もない
「ラウラさんはもう寝ましたか?」
『ああ。ぐっすりだ』
「では、それをかけてください』
店主の指示通りイーサンはボトルの中身をラウラにかけたようだ。『水なのになんで濡れないんだ?』という声が聞こえる。不思議なことに、イーサンの声はノアの耳にもしっかり聞こえてきた。
「それでは今日渡したヒトガタを、僕がいいというまでラウラさんの額につけていてください」
つけたぞ、とイーサンが言うと、店主は目を閉じ、手を組んだ。ノアが見たことのない手の組み方だ。学校の教科書にも載っていない。同時に呪文を唱えている。
しばらくすると手を解き、目を開けて言った。
「終わりましたよ。ヒトガタは外してもらって大丈夫です」
『もう終わったのか? ……本当に、足を失ったことの悲痛はなくなるんだろうな』
「術が効くまで少し時間はかかりますが、大丈夫です。よろしければ完了した時間にお知らせしましょうか?」
『……いや、大丈夫だ。ありがとう』
店主が2本指ですっと空を切ると、イーサンの声はもう聞こえなくなってしまった。
「今のが感情を抜き取る魔法?」
ノアはすっかり眠気が覚めていた。
「はい。魔法……というか、以前話したかもしれませんが、僕の使っている術はこの世界の魔法とは質が違うので、そうは言い切れません。……あ」
そこまで言うと、店主は思い出したように呟いた。
「どちらにせよあの石を返してもらわなきゃですね。桔梗、頼んだ」
「かしこまりました」
店主が指を鳴らすとどこからともなく少女が現れる。
「日付も越えていましたし、術が発動するのは明日でしょうか」
「そうだな。明日になったらイーサンさんに知らせに行って、石も受け取ってきてほしい」
「了解です」
桔梗はあっという間に姿を消してしまった。
「桔梗さんって、何者なの? 使い魔?」
「ではありません。聞いたことがないかもしれませんが、僕の式神です」
しきがみ……。ノアは馴染みのない言葉を繰り返した。本当に、店主とルーナシアの魔法を使う人たちは別物なのだと、改めて実感する。そして、店主は自分とノアの相性がいいと言っていた。難しいとは分かっていても、店主のような術を使えるようになってみたい。ノアは初めて興味が湧いた。
「ねえ、それはいつ教えてくれるの?」
「少しずつ、です。今度ノートを見せましょうか」
「いいの⁉」
浮き立つような気持ちになって、その晩、ノアはいつまでも目が冴えていた。
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