第14話 赤い屋根の兄弟(5)

 兄に起こされて目が覚める。壁をつたって1階へ降り、テーブルの上を手探りで探ると皿が手に当たる感触がした。今日も朝ご飯を用意してくれたのだろう。マシューは座って兄の帰りを待った。

 いまだ好奇心は消えていない、気がする。今日の空はどんな色をしているのだろうと気になったから。

 いつになったらなくなるのだろう。マシューは、自分で頼んだこととはいえ、喪失感に怯えていた。ただ座っていると余計に思考が回って不安になる。ノアが帰ってくるまで、部屋の植物に水をやったり、ベッドを整えたり、とにかく動くようにした。こんなに兄の帰りを遅く感じるのは初めてだった。

「ただいま! お前また起きてたのか。いっつも二度寝していいって言ってるのに」

「兄ちゃんが頑張ってるのにそんなことできないよ」

 二人で朝食を食べ、一緒に魔法の勉強をした。マシューはノアと違って小学院も途中までしか通っていない。だからこうして時々一緒に勉強の時間をとっている。

「やっぱり魔法を使うにはイメージが大事だ。難しいかもしれないけど、火っていうのは……」

 目が見えない弟のために、自分の持ちうる語彙で説明を続ける。そんなノアの声を、言葉を、マシューは一言一句聞き漏らさぬように聞いていた。

 時間は今日も刻々と過ぎていく。僕の感情もいずれ僕のからだを通り過ぎる。空の色が変わっていく。兄の迷惑になるならば、お荷物になるならば、感情ひとつをなくしたってきっと問題ないと思っていた。けれど実際は違かったのだ。こんなにも愛おしく、失い難く思うなんて。

 マシューは瞼を閉じる。

「……はー、疲れたな。そろそろ休憩しようか。そうだ、今日仕事先の人にクッキーを貰ったんだ。一緒に食べよう」

 袋を開ける音と、「そうだ、また一緒にあれを読むか?」 というノアの声が聞こえた。

 本当に一瞬だった。何かが自分の体をすり抜ける感覚。一体何が起こったのだろう? マシューは心の中で首を傾げた。

「用意できたぞ。じゃあ今日はここからだ。すごいぞマシュー! これで全部の色をコンプリートでき……」

「兄ちゃん」

「ん?」

「僕、他の本がいい」


「……え?」

 弟は今何と言ったのだろう? 思考が固まったノアは、もう一度聞き返す。

「これ、読まないの?」

「? うん。飽きちゃった、というか、興味ない」

 自分はなぜ今までその本に執着心を抱いていたのか分からなかった。色の名前が書いてある本。たったそれだけの本を、どうして毎日のように読んでもらっていたのだろう。目が見えないのに、色の名前だけ聞かされても仕方がない。

「他の本って言ったけど……、なんかもう、本自体、読んでもらわなくてもいいかな」

「なんで、?」

「兄ちゃんにも迷惑かかっちゃうし……。魔法の勉強も一緒にやらなくていいよ。僕、別に魔法が使えなくてもいいもん。目が見えないんだからきっと一生兄ちゃんみたいにはなれない」

「あの店主だな」

 ノアは拳を握って呟いた。

「あいつに何かされたんだな! お前から言ったのか? それとも無理やりやられたのか⁉」

 肩を揺さぶられ、あの日のような怒号が耳を突き刺した。

 正直、マシューはなぜノアがここまで怒るのか分からなかった。自分の感情がなくなっても、売ったのだからお金が入ったのだし、これで兄を苛立たせる心配もなくなる。自分にとってもノアにとっても、これはいい手段だと思っていた。

「落ち着いて、兄ちゃん」

 マシューはそっと兄の腕に手を置いた。

「あの人には、僕から頼んだんだ……。勝手に取られたなんてことはないよ。あ、そうだ!」

 この際だからと、マシューは自分の部屋にノアを連れて行った。

「これ、はい」

 隠していた封筒を渡す。その中身は想像がついていたが、ノアはおそるおそる取り出した。

「こんなに……」

 見たことのない札束に戸惑う。これがマシューの感情の値段だとは。

「全部で30万リルだって! すごいよね。これだけあれば兄ちゃんもしばらく楽にできるよ!」

「返しに行くぞ」

 マシューは、「え、」と笑顔を張り付けたまま小さく声を出した。出していた札束をすぐしまい、明日またお店に行くとノアが言い出す。

「どういうこと? だって僕、もう売っちゃったんだよ? いいじゃんお金だって貰えたんだし!」

「全然良くないだろ! なんでこんなことするんだ! こんな、こんな30万なんて……。お前の感情と比べたら、安いものだろ……」

 兄の言葉を聞いて、マシューは疑問に思った。

 感情。僕の売った感情は、何だったっけ? それに、兄ちゃんはどうして悲しんでいるんだろう? 確かに売ったことはしっかり覚えているはずなのに、肝心の感情の名前は頭から抜けているようだった。

「お金を返して、マシューの感情も取り戻す。……大方、好奇心を売ったんだろう。色も魔法も、何もかも興味がなくなって」

 ノアは俯いて両手を固く握った。自分のせいだ、と思う。あの日、自分がマシューにひどいことを言ったから、なんにも相談せずこのようなことをしたのだろう。後悔してもしきれなかった。

「でも兄ちゃん、行っても取り戻すことはできないかもだよ。それに、僕は別にがなくたって困らないし」

「俺が困る。行ってみないと分からないだろ」

 兄は行くと言って頑なに変えようとしないので、マシューの方が折れることになった。



     *



 小雨が降る午後、二人はもう一度あの森へと来ていた。入口へと足を踏み入れ歩き出すと、

「!」

 視界がぼやけて一瞬の浮遊感を感じる。すると、目の前には『感情の雫』が姿を現していた。

「これは……」

 きっとあの店主の魔法だろう。魔法の腕だけはかなり優秀なあの男に、ノアは苛立ちを覚える。

 マシューがぎゅっとノアの手を握った。

「大丈夫だ。行こう」

 ドアを開けると、コウがまた出迎えてくれた。

(また会えた!)

とコウの感情が頭に流れ込んでくる。この店の店主は一瞬で嫌いになったが、動物たちは好きだ。スイは眠いのか、テーブルの下で丸くなって目を瞑っている。

「いらっしゃいませ。……どうしたのですか、突然」

 ノアは店主を睨みつける。自分たちが来ることを分かっているはずなのに、その言いぐさに腹が立った。

「単刀直入に言う。マシューの『好奇心』を、返してもらえないか」

 お金も持ってきたから、と封筒を突き出した。

「できません」

 きっぱりと言い放つ店主に、余計に苛立ちが募る。

「ちゃんとお金も返すって言ってるんだ、できるだろ!」

「兄ちゃんやめて、店主さんは何も悪くないよ」

「そうですよ、僕は何も悪いことはしていない。むしろマシューさんの願いを叶えたんですから、感謝してほしいくらいです」

 はあ、と溜息をつきながら面倒くさそうに言った。

「……! そうだとしても、まだ9歳の相手と簡単に契約できるのかよ……」

 ノアは怒りを抑え込んで話そうとしたが、限界だったようだ。店主に一歩一歩近づいていく。しかし、ある一歩を境にそこから足が動かなくなってしまった。いや、足どころじゃない。体全体が言うことを聞かなくなっている。

「なんだよ、これ……!」

「兄ちゃん?」

「あまり暴力沙汰は好きではないので、これまでにしましょう」

 店主がノアに手をかざすと、体の緊張が一気に抜けてその場に崩れ落ちる。

「兄ちゃん、大丈夫? どうしたの?」

「いや、何でもない……。大丈夫だ」

 マシューに支えられながらノアは立ち上がった。店主は何食わぬ顔で、ただ、立っている。明らかに勝てない相手を目の前にし、自分を落ち着かせることに全力を注いだ。

「さっき言ったこと。どうしても、できないんですか」

 ぶっきらぼうに聞くノアに、店主ももう一度簡潔に「できません」と答える。

「この店のルールなんです。一度売った感情は再び買うことはできませんし、同様に返却も不可です。――まあ、マシューさんの『好奇心』をどうしても取り戻したいというなら、交換という形でできますが」

「交換? どういうことだ?」

 ノアが再び尋ねる。

「例えばの話になりますが、『喜び』という感情を『好奇心』の代わりに差し出せば、『好奇心』は再びマシューさんに戻ってくるというわけです。勿論、本人のものですよ。ノアさんがマシューさんに代わってということはできません」

 こちらの心を読むように、店主は最後に付け足した。結局のところ、マシューの感情は、ひとかけらは必ず失う。元のマシューには戻らないということだ。


 改めて自分の不甲斐なさに悲しくなる。ノアは、取り返しのつかないことをしたと弟にもう一度謝った。

「どうして兄ちゃんが謝るの?」

 マシューは不思議そうな顔をした。

「これは、僕が自分で決めたことだよ。売った後は、悲しいとか、怖いとかも思ったけど……。でも、これで兄ちゃんの役に立てるなら、少しでも迷惑を減らせるならって思ったんだ。だから、謝らないで」

「違う。そう決めさせたのは、俺だから……」

「ううん。兄ちゃんは何も悪くないって」

 ノアは一筋の涙を流す。自分がしっかりしなくてはならないと、何時でもそう思っていたのに、いつの間にかこんなに弟に気を遣わせていた。どんなに辛くても、苦しくても、心の中にマシューがいたから頑張れた。どうして自分が、と自分の運命を憎むことは何度もあったけれど、弟の目さえ見えればと何度も思ったけれど。マシューはマシューのままで良かったのに。変わらない現実に嗚咽が止まらなかった。

 そんな兄弟の様子を黙って見ていた店主が口を開く。

「お二人は、お金に困っているのですよね?」

 あまりの空気を読まない発言に、ノアの涙は急速に引っ込んだ。

「だっ、だったらなんだよ!」

「僕からひとつ提案がありまして」

「提案……?」

「はい。この前マシューさんに伝え忘れていた、いい考えのことです」

 その言葉を聞いて、マシューは「あ!」と思い出す。

「そうだ、そういえば言ってた」

「はい。その内容なのですが――」

 店主は無機質な声で告げる。

「ノアさん、マシューさん。ここに住みませんか。ノアさんには僕の手伝いをしてもらいたいのです」

「「……えっ?」」

「ニャーン」

 息の合った二人の声に、スイも鳴き声を上げた。


 


 

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