第13話 赤い屋根の兄弟(4)

 まだコーヒーが熱かったのか、一口飲むと店主はすぐに置いてしまった。

「ようけん?」

「はい。ただこの店が見たくて来たわけではないでしょう。この前はあの少年がなぜここにたどり着けたのか疑問ですが……。今回はあなたの願いを受け取ったのです」

 僕の、願い。

 マシューは俯いて話し始めた。

「僕は……、兄ちゃんに、迷惑かけたくないんだ。僕の目が見えないせいで、兄ちゃんに苦労ばっかりかけて。もし目が見えてたら、いっぱい、いっぱいお手伝いするのに」

「そうですね」

 何の感情もこもっていない、ただの相打ちだ。それでもマシューは続けた。

「家を整理してたら、兄ちゃんが本を見つけてね。母さんが持ってた本。色んな色の名前が書いてあるんだよ! 僕は見えなくても、自分で想像できたらいいなと思って、兄ちゃんにずっと読んでもらってるんだ」

 けれど、自分の知りたいという欲求ゆえに兄を傷つけてしまたこと、兄はとっくに限界だったということ。それらを全て店主に打ち明けた。

「でも、きっとこれからも僕は兄ちゃんの顔を見れない。色を見れない。兄ちゃんの、みんなのお荷物になって生きていくんだ……」

 ニャーンとスイの鳴き声が聞こえた。

「だからせめて、迷惑にならないようにしたいんだ」

 マシューは凛とした声で言い放つ。

「お願いします。僕の『好奇心』を買ってください」



     *



 兄に怒られた時から、ずっと考えていた。

『こっちは必死に働いて、毎日毎日必死に仕事を探してるんだ! お前のために、お前の分まで頑張ってるんだよ。色なんてどうでもいいだろ! 迷惑だ!』

 どうでもいい。

 迷惑。

 もしかしたら、その時だけじゃなくて、ずっと前から思っていたんじゃないのかな。色も、僕のことも。迷惑だと。

 当然のことだけど、僕は兄ちゃんの顔を生まれてから一度も見たことがない。それは母さんも、家を出ていった父さんも一緒だ。どんな顔で笑うんだろう? 泣くときは? 怒るときは? 全部分からないから、僕は声で気持ちを判断しようとしていた。母さんは分かりやすい。嬉しいとき、楽しいときは跳ねるように明るい声で話すし、反対に悲しいときは僕が見てる真っ暗な世界みたいな声を出す。父さんは怒っていることが多かったから、熱い炎みたいな声だ。一度火傷をしたことがあるから火の熱さは知っている。いつの頃からか、母さんの悲しい声、怒鳴る声、父さんの炎みたいな声が増えた。

 でも兄ちゃんだけは違う。感情が読み取れない声で、僕に優しく話しかける。一定、という言葉がふさわしい。兄ちゃんが今悲しいのか、嬉しいのか、喜んでいるのか怒っているのか。注意深く声色を聞いても何一つ感じ取れなかった。ただ一つ分かるのは、兄ちゃんは優しいひとだということ。自分よりも他の人を優先してしまうような、悲しくて優しいひと。

 僕の振る舞いが、そんな優しい兄ちゃんの最後の糸を切ってしまったんだ。

 あの家を出たきっかけも、あそこのお兄ちゃんが僕に悪戯をしたりからかったりしてきたからだ。もし僕がいなくて兄ちゃんだけだったら、兄ちゃんはあの家で過ごして、こんなに苦労することもなかった。無事に家族の一員になれていただろう。僕が兄ちゃんの人生を奪っているのと一緒だ。だからせめて、僕で苦労をするようなことはなくなってほしい。あの赤い屋根の家を出ていくことも考えたけど、やっぱり兄ちゃんと一緒にいたいんだ。我儘な弟だけど、一人でいるのはどうしても怖いんだ。ごめんね兄ちゃん。



     *



「僕の『好奇心』をあげればお金がもらえるんだよね」

「勿論です」

 店主は頷いた。

「好奇心というのは正の感情に位置しますからね。あくまで僕の定義ですが。良い値で買い取りますよ」

「ほんとう⁉」

 これで兄が無理に働かずに済む。必死に仕事を探さずに済む。それに、自分の好奇心で精神的な負担をかけずに済むのだと考えたら、マシューにとって一石二鳥どころではなかった。

「では、さっそく準備してもよろしいですか?」

「お願い、します」

 店主はすっと立ち上がると、大きめのボトルを取り出し、準備を始めた。ヒトガタも用意する。

「マシューさん、ここにあなたの名前を……、いえ、あなたの名前をフルネームで教えてください。綴りもお願いします」

「う、うん。名前は、マシュー・ベネット。綴りは……」

 マシューの代わりに名前をヒトガタに書き込む。

「何本かあなたの髪を頂いてもいいですか」

 頷くと店主は小さな鋏でマシューの髪を切り、特殊な紫の糸で名前と「好奇心」と書かれたヒトガタに巻き付けると、息をふっと吹きかけた。

「ああ、その前に」

 店の奥に行き作業をしたかと思うと、すぐに戻ってきた。

「代金の30万リルです」

「さ、さんじゅう……」

 聞いたことのない額と封筒の重みに、マシューはふらりとしてしまう。これだけあれば、兄ちゃんの助けになる。嬉しくてたまらなかった。

「では始めます。よろしいですね」

「はい!」

 店主は先程取り出したボトルを掴もうとした。すると、

「ニャー」

「あっ」

 突然スイが飛び乗ってきて、ボトルが倒れてしまう。

「あ。こら、スイ」

「? どうしたの?」

 零れた液体を拭いて中身を確認する。まあ、このくらいあれば大丈夫だろう、と判断した。

「何でもありません。では、いきますね」

 マシューが頷いたのを見て、店主はいきなりそのボトルの中身を頭からかけた。何が起きたのかさっぱり分からないマシューは、慌てて髪を触り、ぬれた服を絞ろうとした。しかし、

「あれ……? ぬれて、ない?」

「そのままじっとしてください」

 名前と髪を括り付けたヒトガタを、マシューの額に当てる。店主のなにやら呪文を唱える声が聞こえて、しばらくするとそれが剥がれる感触があり、「おしまいです」という声が聞こえた。

「もう終わり?」

「はい。明日にでも効果は出るでしょう。遅くとも2日後には」

 マシューはあまりのあっけなさに驚いたが、このお金を兄にどうやって渡そうかと考えた。急に30万リルをあげたとしたら、きっと手に入れた方法を問い詰められるだろう。『好奇心』を売りました、と言っても信じてもらえないかもしれない。

「……マシューさん、大丈夫です。僕にいい考えがあります」

「えっ?」

 まるで心の中を読んだかのような発言に思わずまぬけな声が出てしまったが、自分の頭ではアイデアが何も浮かばないし、任せてみてもいいかもしれない、とマシューは思った。

 まだ残っていたオレンジジュースを飲んでいると、ノアが帰ってきた。

「マシュー、お待たせ! 遅くなってごめん。俺ってやっぱり方向音痴なのかなあ~。そんなに遠くに行ってないのに迷っちゃって……」

 おかえり、とマシューが言う前に、帰ってきたばかりの兄は弟の肩を強く掴んだ。いきなりの行動にマシューは体を強張らせる。

「お前どうした?」

「えっ?」

「いつもと違う。よくよく分かんないけど変な感じ」

 戸惑うマシューを余所に店主を力強い目で睨む。

「弟に何かしたのか」

 店主は怖気ずにいつもの無表情で、

「いえ。何も」

と答えた。

「マシューさんの嫌がるようなことも変なことも、何もしていません。ね?」

「う、うん。そうだよ兄ちゃん。気のせいだよ」

 せっかく魔法をかけてもらったのに、ここでばれてはまずいと必死に店主に合わせる。もし兄にばれてしまったら、せっかくのお金も返さなきゃいけなくなるかもしれない。もう帰ろう、とノアの手を引く。

「じゃあ……。ありがとう、ございました」

 ノアは納得がいかないようだったが、弟に言われて店を出ようとした。

 その時。

「待ってください、ノアさん」

 店主が後ろから呼び止める。

「何ですか」

 不機嫌そうな声で振り向く。今日初めて店に入って来た時とは大違いだ。

「一つだけ聞きたいことがあります。あなたのご両親は、どちらもこの国の方ですか?」

 店主の思わぬ質問に一瞬間抜けた声を出しそうになったが、

「違います。母さんはたしか、日本っていう国で生まれたと思います」

と、態度を崩さずに言った。それを聞いた店主は、「そうか」と腕を組んだ。

「引き止めてすみませんでした。後は結構です」

 今度こそ、ノアたちは店を出ていった。

 後には1人と2匹が残される。コウは名残惜しそうに店の外を眺めていた。

「やっぱり、予想が当たったな」

 店主の隣にはいつの間にか桔梗が立っていた。

「主様と同じ、ということですか?」

「同じとまではいかないかもしれないが……。素質は十分ある」

 店主は先程の術で使った道具を片付け始める。その最中、を伝え忘れていたことを思い出したが、何とかなるだろうと楽観的に考えた。



     *



「本当に何もされていないのか?」

 家に帰ってきてからノアはずっとこの調子だ。心配してくれるのは嬉しいが、さすがに何度も聞かれるとこちらの調子が狂ってしまう。

「ほんとだよ。大丈夫だって、兄ちゃん。それより、今日は楽しかったよ!」

 あの店主から貰った封筒も、ずっと自分の部屋に置きっぱなしのまま。ノアがマシューの部屋に入ってくることは少ないし、寝るときは別の部屋で一緒に寝ている。見つかりにくいであろう所に隠したが、それも時間の問題かもしれない。兄が心配する傍でマシューは一人途方に暮れていた。


 その日の夜も、ノアに本を読んでくれと頼んだ。よく飽きないなと言われたが、きっとこれが最後になるだろう。昔から勘のいい兄は、少しでも変な素振りを見せるとさっきみたいに心配するので、悲しい顔は見せなかった。

 美しい響き。心地いい声。想像する楽しさ。

 一度でも母の顔を、兄の顔を見られたなら。あの店主も、コウも、スイの姿も気になる。空は? 海は? 森は? いつも住んでいるこの家は?

 知りたい。もっと知りたい。耳じゃなく目で。綺麗な、美しい世界を見てみたい。見てみたかった。

 思わず涙がこぼれそうになった。ノアに気づかれないうちに背中を向けて布団に戻る。

「マシュー?」

「ごめん兄ちゃん。ちょっと、眠くなっちゃった……」

「そうか。今日は久しぶりにいっぱい歩いて疲れたもんな」

 木の実も手に入ったし、お前も喜んでくれてよかった! とノアの明るい声が聞こえる。

「うん……。ありがとう、兄ちゃん……」

 兄ちゃんももう寝るよ、と魔法でつけた明かりを消した。

 明日が来るのが怖いと思ったのは初めてだった。

(ありがとう兄ちゃん。ありがとう)

 マシューは心の中で感謝の気持ちを述べながら、涙をおさえながら目を閉じた。

 

 


 


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