第11話 赤い屋根の兄弟(2)

 ノアが用意していたパンと、自分で出したのだろう、ミルクをコップに注いでマシューは待っていた。

「先に食べていてよかったのに」

「でも、兄ちゃんに悪いから」

 どこまでも健気な弟を見ると、それ以上強くは言えない。

「じゃあ、一緒に食べるか」

「うん! 兄ちゃんのコップも用意したよ」

「ありがとう。でも昨日も言ったけど、あまり台所には近づくなよ」

「分かってるよ〜」

 昨日の具の少ないスープの残りも取り出して、一緒に朝食を食べる。母が亡くなってから最初のうちは、その静けさに慣れなくて寂しかった。マシューがあまりにもどんよりした顔で食べるのを見て、ノアは無理にふざけて笑わせようとしたが空振りになってしまい、それから必要以上に空気を明るくしようとするのは止めた。自分も悲しくなってしまうからだ。

  今はそんな日常もなくなり、「おいしい」と笑顔で食べるマシューを見て、ノアも自然と口角が上がる。

「兄ちゃん、今日は何か予定があるの?」

「うーん……。そうだな、ちょっと中心街に行ってくる」

 また留守番させて悪いな、とノアが言うと、マシューは大丈夫、と首を振った。

「じゃあ僕、今日は家の中の掃除をしてるよ」

 昨日の会話を思い出したようにマシューは話す。そして、ノアが遮る前に、ちゃんと台所には近づかないから、と付け加えた。

「それじゃあ、お願いしようかな」

「うん! 任せて!」

 兄に頼まれるのが嬉しくて、元気よく返事をする。

 ノアは外出する前に、掃除用のほうきや、雑巾とバケツの場所を教えた。そして、できるだけ早く帰ってくるからと言い残し、空へと飛んで行った。

「よ~し、頑張るぞ!」

 マシューは腕をまくって気合を入れた。


 ノアは空から見下ろしながら、1人考え事をする。今働かせてもらっている配達屋は、大変環境がいいところだ。従業員の人たちは皆優しく、日払いも可能だ。しかし、毎日は働けないから、安定した収入は得ることができない。雇ってくれるだけでありがたいが。今までは母の残してくれた貯金を崩しながらなんとかやってこれたが、それもそろそろ底をつきそうだ。早く新しい仕事を探さなければ。もし新しい仕事に就くことができたら、もっと安定した生活ができるだろう。マシューにも我慢をさせずに済む。しかしその分家を空ける時間は多くなるから、心苦しい。


 なぜ自分がこんな目にと思ったことは何度もある。まち行く人たちは、幼い子どもは、母親や父親と手を繋いで何不自由ないような顔をして歩いている。俺たちは何か悪い事をしたのだろうか。なぜマシューの目は見えないのだろうか。

 穏やかな天気とは相まって、ノアの心中は荒れていた。


 そうしているうちに、眼下には沢山の建物が見えてきた。中心街は空を飛んでいけばそう遠くはない距離にある。人気のないところで箒から降りて、ノアは散策を始めた。

『バイト募集中! 時給1000円〜』

『高学院生大歓迎! 昇給あり』

 いたるお店に募集のチラシが貼られているが、それは自分に向けてのものではないということは容易に分かる。配達員の仕事を始めた時も、一生懸命頼み込んで、何度も粘って粘って、雇ってもらえたのだ。

 ノアが住んでいるところは比較的田舎の方だからこちらに来たはいいものの、本当に雇ってくれるところがあるのだろうかと、不安になってきた。それでもとりあえず行ってみようと、少年は意を決してあるお店に入って行った。

 そこは小さな個人経営の喫茶店で、中には従業員の男性と、女性2人が働いていた。

「いらっしゃいませ〜」

 挨拶されると緊張度が増したが、ノアはそれを振り払って尋ねた。

「あのっ、ここで、バイトをしたいのですが……」

 あら、と声を上げた女性は、

「少々お待ちくださいね」

と言って、ブラウンさん、と奥のカウンターに向かって名前を呼んだ。

向こうから出てきたのは、優しそうな白髪の男性。口元には髭を蓄えている。

「こんにちは。……ええと、ここで働きたいというのは君かな? とりあえず向こうに行って話そう」

ブラウンという男性は、ノアを奥の部屋へと案内した。

「冷たいお茶でいいかな?」

ブラウンはコップに氷が沢山入ったお茶を用意してくれた。

「ありがとうございます」

よいしょ、と目の前に腰をおろすと、

「じゃあ、この紙に記入してくれるかな。あと何か身分証明書は持ってる?」

 差し出された用紙に書こうとペンを持ったが、身分証明書、という言葉にその手は止まってしまった。ブラウンは不思議そうにノアを見る。その視線に耐えられず、小さなカードをテーブルの上に出した。

「今は、これしか持っていません。……保険証とか、そういうものはないです」

 ブラウンは出された学生証を見て目を大きくさせた。

「これは今年のものではないじゃないか。……そうか、しかしなあ」

 ノアの身なりを見て何かを察したのかブラウンは唸って考え事をしているが、

「でも、悪いねえ。バイトができるのは15歳からだと法律で決められているんだよ。君はまだ13歳だ」

「知っています! それをなんとかできないでしょうか」

 ノアもすぐに食い下がるようなことはしない。少し声を張り上げたことに些か驚いた様子だったが、ブラウンも悪そうに断った。それもそうだ。ノアが今働いている配達屋も、やっとのことで採用してもらったのだ。その代わり、周りには年齢を詐称するように言われている。そこまでして雇ってもらえているということは奇跡に近かった。

「2年後、もしまた来てくれた時は、その時は絶対に採用するよ。だから……すまないね」

 ブラウンは何も悪くない。

「いえ、謝らないでください。こちらこそ、無理を言ってすみませんでした」

 ノアも頭を下げて店を後にした。

 その後もいくつもお店をまわった。だがどこも同じ理由で雇えないと言われ、これ以上は精神的にもちそうにない。今日はもう帰ろうと箒に乗って空へと上がった。


「ただいま~」

 疲れ切った身体と心を引きずりながら帰宅する。

 いつもならすぐに返事が聞こえるのに、今日は何も返ってこない。

「マシュー?」

 すると向こうの部屋から何やら物音が聞こえてくる。そうだ、今日は家の中を掃除すると言っていたな、と中を覗いてみる。しかし、整理されているどころか反対に床に物が散らかっていた。

「うわっ、これは……」

「あ、兄ちゃん、おかえり~」

「どうしたんだこれ」

 衣類や本、アクセサリーなど、母の遺品で溢れている。

「あのね、片付けをしようと思ったら、触ったことのない箱がいっぱいあって……。そしたら、こうなっちゃった」

 罰が悪そうに下を向くマシューを余所に、ノアも散らばっているものを確かめた。母の誕生日に贈った、2人で描いた似顔絵もとってある。マシューの手を取って一緒に完成させたものだ。似顔絵の隣にはシンプルなメッセージ。今こうして見てみるとただの紙切れのようだが、それを母がずっと持っていたことに心が温かくなる。

「マシュー、母さん、俺たちが描いた似顔絵もとっていてくれたぞ」

 そう教えると、嬉しそうに笑った。

「本当⁉ ……そっか、母さんって、どんな顔だったんだろうな」

 マシューの何気ない一言を聞き、ノアは母の似顔絵をなぞった。

「優しいひとだったからな。きっとマシューの思うような顔そのものだ」

 頭の中に母との思い出が浮かぶ。母の誕生日にはいつも簡単なものしか用意できなかったが、ノアとマシューの誕生日には毎年それぞれが好きなケーキを焼いてくれるのだ。ノアはチョコレートケーキ、マシューはチーズケーキをお願いすることが多かった。

『誕生日おめでとう』

 絶対に叶わない「もしも」だが、今母が生きていたら、今年はどんなケーキが食べられたのだろうか。

「それじゃあ、母さんの声ってどんな感じだったっけ」

「声?」

 マシューの質問に現実に引き戻される。

「うん。僕、みんなの顔は見れないから、せめて声だけはずっと覚えていようって思ってるんだ。でも最近は、その声さえも忘れてきちゃって……」


 なんで僕は目が見えないんだろう。


 ノアは何も言えず、ただ弟を抱きしめて、静かに泣くのを受け止めることしかできなかった。小さな嗚咽が部屋に響く。

 暫くして、マシューは「もう大丈夫!」と分かりやすく明るい声を出した。

「無理するな」

と下手な慰めに終わってしまうが、

「大丈夫だよ! 兄ちゃん、そっちにあるのは本でしょ?」

とマシューは兄の興味をずらそうとした。

「ああ、そうだな」

 母は読書が好きだったので、いくつもの本が積み重ねられていた。その中に、一冊気になる本があった。

「『いろ図鑑』?」

 どうやら母の生まれた日本という国の色の名前が事細かく書いてある。小さい頃少し日本語を教えてもらったこともあり、内容もなんとか読めそうだ。ふり仮名もふってあるため、すらすら読める。

紅葉色もみじいろ青朽葉あおくちば紺藤こんふじ……」

 色は、見たことがあると思う。けれどその聞いたことのない名前の響きに引き込まれる。声に出すとそれらは余計綺麗に感じた。母はなんて言葉の豊かな国に生まれたのだろうか。実際に行ってみたい。

 読んでいると、マシューも気になったのか近くに寄ってくる。ここだ、とノアは手を引いてやった。

「兄ちゃんそれなあに?」

「色の名前の図鑑だ。母さんの国の言葉で書いてある」

「へえ、そうなんだ! もっと聞きたい!」

 目の見えない弟に聞かせるのは少し残酷なのではないかと思ったが、「想像するのが好きだからいいんだ」と言うので、ノアは適当にページを開いて読んでいった。

「じゃあ……花色はないろ。これは青系統の代表的な伝統色で、強い青色のことだそうだ。白縹しろはなだ、こっちは反対に淡くて、青みを含んだ白色のことだ」

 一つ一つ説明していくと、マシューは目を輝かせた。

「どっちも初めて聞く名前だ! 素敵だなあ、そんな色があるんだ……」

 昔からいろんな事に興味が湧く弟は、色に対しても楽しそうに知識を吸収していった。

 それからというもの、2人には日課ができた。毎日寝る前にこの本を読む日課。相当な種類の色があったが、少しずつ消費していった。

 今日も寝室にはノアの優しい声がする。


深碧しんぺき。宝石の緑碧玉のような力強く深い緑色のことだ。花緑青はなろくしょうは、明るく渋い青緑色のことをいうんだって。そして若菜色わかないろは……」


 この世界は美しい。それなら今日見る夢もきっと美しいと、マシューはゆっくり目を閉じた。

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