第2話 貴族の娘(2)
「では、まずは水を1杯」
エミリアはまるで、これが当たり前だというように、なんら不思議なことはないように堂々とそう言った。これには店主もきょとんと目を丸くする。それを見るや否や、してやったりというように嬉しそうに笑った。
「ここに来るまでどれだけ歩いてきたと思っているの? わたしが持ってきたお水はすぐ底をついたわ。カラカラよ。早くお水をくださる?」
「200リルです」
「なっ……ただの水にお金をとる気? まあいいわよ、ここのお水はさぞおいしいんでしょうね」
「嘘です」
「ほんとうになんなのよこの店は!」
エミリアが噴火しそうになる一歩手前で店主が水を用意する。カラン、と透き通る氷の音が響き、店内の明かりを反射して輝く美しいグラスに水を注ぐと、丸いテーブルの上にそっと置いた。
「どうそお座りください」
気に入らない態度を崩さないまま、エミリアは椅子に腰かけた。店主もそれを見た後、彼女の目の前に座る。スイは彼の足元で丸くなって目を閉じていた。
いい音をたてて水を喉に流し込むと、少し礼儀が悪かったというように軽く咳ばらいをして話し始めた。
「ふぅ……。失礼、名前を言ってなかったわね。わたしはエミリア。エミリア=サン=ローライトよ。ローライト家といえばさすがのあなたもご存じでしょうね?」
「知りません」
「しっ……、う、嘘でしょう⁉ あのローライト家よ! この国の法の、生みの親であるローライト家!」
エミリアは再び落ち着きをどこかへ振り落として勢いよく立ち上がった。その音に反応しコウが吠え始める。その一方、店主はなぜ目の前の彼女が怒っているのか分からないという様子で、無表情でただ座っていた。
「あいにく、僕はこの国出身ではないもので」
「出身じゃなくても普通は分かるものなのよ普通は。ところで、あなたのお名前は?」
今度は静かに席につくと、冷静に質問した。
「僕は店主です。ここの店のオーナーだと、それは分かるのですが、自分の名前は分かりません。いえ、分かっていたはずなのですが、思い出せないのです」
「そう。もうわたしは何もつっこまないわ。……思い出せない、ということは、記憶喪失かなにか? 魔法医に診ていただいたら?」
「一度診てもらいました。しかし、なんの治療も効かず、もういいかと思いまして」
エミリアは呆れ顔を封印しようとしたはずだったが、これには無理なようだった。空へ抜ける溜息をつく。
「それは……。早く原因が見つかるといいわね」
「……はい。ありがとうございます」
エミリアは、はあ、ともう一度溜息をつくと、
「それじゃあ店主さん。わたしの話を聞いてくださる?」
「はい。遅くなって申し訳ありません」
店主の謝罪を機に、エミリアは話し始めた。
まず、わたしがローライト家の出身だということは先程話したわね。綺麗なドレスに綺麗な宝石、美味しい食事……。私たち貴族は、今は権力こそはないけれど、毎日を不自由なく暮らしているの。その代わりあななたちのような自由はなくってね。16歳になると成人の儀が行われて、公務に参加するようになる。わたしは今年からそれが始まったのだけれど……。思っていたより忙しいし、覚えることがたくさんですぐに疲れてしまうのよ。本当だったらわたしは音楽の道に進みたかったわ。
少し話がずれてしまったわね。この通り、私たちにあまり自由はなくて、そう、わたしにいたっては結婚相手も選べないのよ! 今は昔と違って貴族でも自由恋愛が認められているのだけれど、わたしの場合それができないのよ。信じられないでしょう? わたしには、その、好きな人がいて……。昔からの知り合いなの。幼馴染って類かしら。彼、とっても優しいのよ。それにハンサムで……。けれど、わたしにはお父様が決めた結婚相手がいるの。まあ、いい人なのだけれど、その人と話していると脳裏にどうしてもあの人の姿が浮かび上がるの。結婚相手の方のことは完全に嫌いではないのよ。でもあの人が、いつの間にか忘れられない人になってしまった。このままじゃ私は父に決められた相手と結ばれることになってしまう。
だから、私は思ったの。私があの人のことを完全に嫌いになって、結婚したくないと父に言えば、父も諦めてくれるんじゃないかってね。そのために結婚相手の方への「嫌悪」を手に入れたい。それがわたしが今日ここに来た理由よ。
話し終えると、エミリアは店主のことをいっさいの迷いがない目で見つめた。
「店主さん、わたし、ここのお店のことは噂で結構知っているのよ。不特定だけじゃなくて、個人の『誰か』に向けた特定の感情も売買できるのよね」
「おや、よくご存じで」
「当たり前よ。何かをするには情報収集がいちばん大事ですから」
エミリアはもう一度店内を見渡す。
店の中には棚がずらりと並べられていて、カウンター、本棚、そしてレジとこのテーブルと椅子が置いてある。棚の上にはラベルが貼られたボトル。あのボトルを使って魔法を発動させるのだろうか。しかし、この店主は使い魔はいないといった。使い魔なしに魔法を使えるのは、よほどの上級者のみである。となると、目の前のこの男はかなりの魔法の使い手。エミリアはそう考えていると、
「では、こちらに」
と、いつの間にか向こうの棚の前に移動していた店主が声をかける。エミリアは言われたとおりにそちらに歩いて行った。
「エミリアさん、さっきの話を聞いて思ったのですが、あなたが嫌いになるのではなく、その結婚相手にあなたのことを嫌ってもらうというのはいかがでしょう」
「え……」
そんなことができるのか、と、この店を見つけた時のように、驚いて声が出なくなった。
「できますよ」
と、店主は断言する。
「わたし、なにも言ってない」
「失礼。顔がそう言っていたものですから。あなた自身の感情ではなく、その誰かの感情も僕の魔法でどうこうできてしまうのです。少し料金は高くなりますが」
「構わないわ」
エミリアは強く頷いた。その目には、彼女の覚悟が強く浮かび、濃い緑色を放っている。
「でもどうして? わたしは別に、わたしがあの人を嫌いになればいいとだけ思っていたのに」
「僕も最初はそれでいいと思っていたのですよ。でも話を聞いてみると、貴族というものは非常に面倒くさそうだ。だから相手があなたを嫌いになってしまったほうが、あなた自身に何も害がないのではと考えたんです」
「あら、意外と気が利くのね。それに頭の回転も速いわ」
満足したように、少し声を高くしてエミリアはそう言った。
「おいくら?」
「そうですね、ええと……。いま計算いたします。少々お待ちください」
そう言うと、あるボトルを手に取り店主はレジへ向かっていく。小走りになる店主のあとを面白そうにコウとスイが追いかけていった。ボトルのラベルを見ながら、店主は羽ペンですらすらと紙に記入する。そしてエミリアの元に戻り、
「お待たせいたしました。お会計は52万リルになります」
「了解。このカードでいいかしら」
「すみません。うちではカードは使えません」
「ああ、そうだったわねこの店は」
黒いカードを片手に、エミリアはなぜか納得するように呟いた。
「では、今度現金を持ってくるから今日はいいかしら。わたし、こうみえて約束はきちんと守るほうなのよ」
「ええ、かしこまりました。では、次にエミリアさんがこの森を訪れる時には、入り口からこの店に直接来れるようにいたします」
「そんなことができるの」
やはりこの店主はただ者ではない。そう直感したエミリアは、この男を探るのも面白そうだと心の中で笑った。まるでずっと欲しかったプレゼントをもらった子どものようだった。
「それではエミリアさん、このヒトガタに結婚相手の名前を書いてもらえませんか」
そう言って店主はエミリアにペンと人の形をした白い紙を渡す。相手の方のフルネームは分かりますよね、と尋ねると、エミリアにその名前を縦書きで書くように要求した。指示された通りに名前を書いていく。
(縦書きって難しいわ。……それにしても、こんな魔法見たことがない)
不思議に思いながら最後まで名前を書き終えると、「ありがとうございます」と店主がそのヒトガタを受け取った。すると、名前の両脇に「嫌悪」「エミリア=サン=ローライト」と赤い文字で書き加える。
「準備が整いました。では、エミリアさん。本当にいいですね」
「ええ、結構よ」
返事をもらうとそのヒトガタをトレーの中に入れ、ボトルを開ける。ボトルの蓋はまるで宝石のようで美しかった。店主はその中身をトレーの中に躊躇なく注いでいく。ヒトガタはぷかぷかと海に浮かぶ船のようになっている。
「終了です」
「えっ、もう終わり?」
エミリアは、感情を売買するという聞いたことのない魔法だったので、てっきり長時間かかるものだと思っていた。しかし5分も経たないうちに終了してしまい呆気にとられる。
「一応これで終了なのですが、結果が出るまで1日~2日ほどかかります。このヒトガタの色が変化したら術は成功したことになり、相手の方にエミリアさんへの『嫌悪』の感情が付与されます」
「なるほど……。では、色が変わったら教えてくださる?」
「ええ、この者をあなたの元へ向かわせます」
店主は、パチン、と指を鳴らすと小さな女の子が現れた。肩までの黒髪に丸い目、そして何やらこの国では見たことのない衣装を着ている。
「……あなたって、本当、すごいのね」
それから、エミリアは店の外まで見送りをしてもらい、帰路についた。あそこの看板を過ぎると直ぐ森を出られるようにしたから、と店主に言われ、一歩進むと本当に街に出ていたのだから驚きだ。
(あの森全体があの人の魔力で包まれているということ……? だとしたらとんでもない話だわ)
エミリアの頭の中は今日起きた出来事と店主とでいっぱいだった。同時に、これでよかったのかと、気を抜くと不安になってしまう。わたしが、わたし一人が我慢すれば済む話だったかもしれない。そう思うが、やはり彼のことを思うと胸が締め付けられる。こんな感情はエミリアにとって初めてだった。
食事をとり寝る前の準備を済ませると、ベッドに入り本を開いた。エミリアのいつものルーティーンだ。しかし今日は、暫く読んでも内容が全くと言っていいほど頭に入ってこない。そこで読書は諦めて、浮力魔法である人物とやり取りしていた手紙を手元に運んだ。文面を見るだけで、エミリアの顔は自然とほころんでしまう。この前は城に遊びに来てほしい、という旨を書いて送ったのだが、いつ来てくれるのだろうか? もうずっと会っていない彼のことを思い浮かべた。
本当は父にあまり会わないよう言われていたけれど、少しくらいいいだろうと思ってそう書いてしまったのだ。
明かりを消して目をつぶる。
大丈夫、大丈夫よ、エミリア。
どのくらい経ったか分からない。自分自身に大丈夫だと、間違っていないと言い聞かせながら深い眠りについた。
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