第7話 イベント
「次の方、どうぞ」
数分してから、係員に呼ばれる。
一応、少しだけ髪を整えてからブースの中に足を踏み入れる。
「初めまし――陽翔?」
「よっ」
俺の姿を目にした花井美陽は目を点にしていた。
まあ、同級生、それも最近知り合った相手がこんなところに現れたら驚きもするだろう。
「驚いたな。君は、こういうところに来るタイプじゃないと思ってたよ。私のファンだったのかい?」
「いや、妹の付き添いだな」
俺がそう言うと、花井美陽は顔色を変えずに「まあ、そうだよね」と呟いた。
失敗したか? いや、まあ確かにこんなイベントでファンじゃない奴が来るってのは失礼か。
嘘でも、ファンだって言った方が良かったかもな……。
「気にしなくていいよ。嘘をつかれる方が苦しいさ」
俺の内心を見透かしたかのように、花井美陽が微笑む。
その笑みにドキッと心臓が跳ねる。
「あ、ああ。悪いな、気遣わせちまって」
「いいって。ところで、妹さんってさっきの子?」
「ああ、羽月って言うんだ。可愛かったろ?」
「そうだね。凄く可愛くて、好きだって思いに溢れてる、分かりやすい子だったな」
「だろ? 目に入れてもちっとも痛くない、寧ろ目に入れた途端目が癒されるくらい最高の妹だ」
「なるほど、君はシスコンだったんだね」
楽し気に会話しながら花井美陽は自身の写真集にサインを書いていく。
「ん?」
「どうかしたのかい?」
「いや、こういうのって大体こっち側が何とかって書いてくださいとかお願いするんじゃないのか?」
「ああ、それならもう書くことは決まってるから安心してくれ」
そう言うと、花井美陽はサインの横にそのまま何かを書き始める。そして、暫くしてから俺の方に写真集を差し出してきた。
写真集を受け取り、その表紙に目を向ける。
サインの横には、「夢中にしてあげる」という文字が書いてあった。
顔を上げると、花井美陽がこっちを見ていた。
「君が他の子に見向き出来ないくらい、ね」
蠱惑的な笑みを浮かべて花井美陽はそう言った。
不思議だ。きっと、俺が同じ言葉を言ってもここまでかっこよくはならないだろう。
こんなにも、魅力的に見えることもないのだろう。
モデルだからだろうか、花井美陽は自分の魅せ方をどこまでも熟知しているように思えた。
「お前、凄いな」
「急にどうしたんだい?」
「どうもしてない。ただ、師匠の凄さを思い知っただけだ」
「師匠は止めてくれって言っただろ」
「そうだったな……じゃあ、俺もそろそろ行くわ」
写真集も受け取ったし、これで終わり。後は、このブースを立ち去るだけ。
「あ、一応言っておくけど転売なんてしないでくれよ?」
写真集を抱えて、花井美陽に背を向けようとした時、花井美陽がいたずらっぽくそう言った。
冗談のつもりなんだろうが、心外だ。俺はそこまで薄情者ではない。
「しねーよ。これにはサイン含めてお前の本気の想いが詰まってんだろ。そんなもん、他の誰にも譲ってたまるか」
それだけ言い残して、ブースを出る。
ブースの外には顔を本屋の大きな柱に額を付けている羽月の姿があった。
羽月の顔は真っ赤だった。
おおう、流石は我が妹。顔が熱くなった後、無生物で顔の温度を下げるという発想は同じだな。
「あ、お兄ちゃん……終わったんだ」
「ああ。で、お前の方はどうだったんだよ?」
「もー、最悪……テンパっちゃっていきなり噛んだし、好きですとか綺麗ですとか、そんなありきたりのことしか言えなかったよ……」
虚ろな目で乾いた笑いをこぼす羽月。
やれやれ、ここは一つお兄ちゃんとして励ましの言葉をかけるとしよう。
「羽月、安心しろ。羽月ほど可愛い女の子が好きって言ってくれたら誰だって好きになるに決まってるぜ!」
「それはお兄ちゃんみたいな単細胞だけでしょ。美陽様はそんな単純じゃないって」
え、まじか。
おかしいな。中学時代の俺の友達はバレンタインにチョコを貰っただけで、その人のことが気になってしまうような奴らばかりだったんだが……。
「ん? あれ、羽月、花井美陽の呼び方変えたのか?」
「そう! 実は、花井様って言ってたら、美陽でいいよって言ってくれたんだよ! 私のことも羽月って呼び捨てにしてくれたし……はぁ、まじで神……」
恍惚とした表情を浮かべる羽月。
流石は花井美陽、俺に言ったことを実践し、その背中で俺に道を示してくれている。
それにしても、羽月がここまで表情を崩しているのを見るのは初めてかもしれない。俺が中三の頃、剣道の大会で勝った時もこんな表情にはなってなかったというのに。
ま、幸せなら何でもいいか。
「そうか。それじゃ、そろそろ帰ろうぜ。写真集も早く見たいしな」
「うん? あれ、お兄ちゃんもしかして美陽様のファンになっちゃった?」
「どーだかな」
羽月の言葉に軽く返事を返し、後ろを振り返る。
列の動きはいつの間にか止まっており、係員が『五分だけ休憩に入るので、ご了承ください』という声が聞こえて来た。
これだけの人数を捌くのだ、流石の花井美陽も疲れるのだろう。
頑張れ。
口にはしないが、心の中でそう呟いてから羽月と共に本屋を後にした。
*****
「珍しいわね、美陽。あなたが休憩が欲しいなんて言うなんて」
「あはは、すいません」
「いいのよ。そもそもあなたはまだ高校生。無理をさせるべきではないと私も思うもの」
陽翔が出て行った後、ブースの中で花井美陽はマネージャーに休憩を申し出ていた。
マネージャーが快諾してくれたこともあり、現在はサイン会は一時中断、美陽は水を飲みながら頬に手のひらを当てていた。
(まだ熱い……は、陽翔め。やってくれるじゃないか)
美陽が思い出すのは休憩する直前で対応していた一人の少年、花井陽翔。
来たこと自体が意外だったが、理由を聞いて納得した。少しだけがっかりもしたが。
だから、最後の言葉はちょっとしたイタズラ気分だった。
勿論、陽翔が知り合いの写真集、それもサイン付きのものを平気な顔で転売するような人間ではないと思っている。
ただ、不安があったのかもしれない。彼が本当にこの写真集を楽しんでくれるのか、という不安が。
結果、陽翔は美陽が欲しがっていた言葉以上のものをくれた。
(ま、まさか陽翔があんなこと言うなんて……)
他の誰にも譲らない。少しだけぶっきらぼうに告げられたその一言は美陽の女心をうった。
だが、それ以上にその前の言葉が花井美陽という人の心に強く響いていた。
(本気が詰まってる、か。分かってくれるんだ……)
モデルは服を着て、表情を作って写真を撮られるだけの仕事。
人によっては楽な仕事と揶揄されることもある。おまけに花井美陽はまだ高校生。
学校生活もあるからこそ、モデルの仕事に全てを懸けることも出来ない。それでも、花井美陽は本気でこの仕事に向き合っている。
それを何となくでも理解してくれる、花井陽翔ならきっと写真集を大切に見てくれるだろう。
「なんだか、嬉しそうね」
「はい、写真集を出して良かったなって」
マネージャーの問いに微笑みを返し、花井美陽はサイン会が行われるブースへと戻っていった。
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