心空

 ガシャン、という食器の割れる音で少女は目を覚ました。

 タオルケット一枚にくるまり寒さで震えていた体を起こす。

 耳を澄ますと、居間でお互いを罵り合う両親の声が聞こえた。ツンとした鋭い痛みが少女の胸の内に刺さる。

 冷たい木の床の上に足をつけ、少女はベッドから下りた。自室を出て、できるだけ足音を立てないようにしながら廊下を進む。居間の入り口の縁から、そっと中の様子を覗いた。

「あなた、いい加減ちゃんと働いてよ。このままじゃ私たち生活できないでしょ」

「俺だって頑張ってる。だけど、全部断られるんだ。俺たちのことは知れ渡ってる」

「これも全部あの子のせいよ。あの子がいなかったら」

「やめろよ、大声で。聞こえたらどうするんだ」

「だって本当のことでしょ」

 少女は両親から見えない位置に隠れたまま、動けなくなった。見えない何かで縛りつけられたかのように体が言うことを聞かない。

 居間の入り口から影が見えた。そこから父が出てきて少女の姿を認め、目を見張った。

心空コア……」

「おはよう、パパ」

 少女は父に向かって精一杯の笑顔を向けた。上手くできたかわからない。

「今の話聞いてたか?」

「ううん、何も。よく聞こえなかった」

「そうか」

 父は悲しげな表情で少女の横を通り過ぎていった。



 少女は学校に向かって歩いていた。下を向いて歩くと、角っこに穴の開いた靴が見える。その靴は今の少女の足には小さかった。それでも少女は、その靴を毎日大切に履いていた。

 突然少女は左肩に痛みを感じた。衝撃と驚きでその場に倒れ込む。

 石だ。飛んできた石が少女の肩に当たったのだ。

「ははっ、命中」

「白いの撃破」

 下品に表情を歪めた同級生たちの顔が目に入った。彼らは笑い声を上げながらその場から去っていく。

 石をぶつけられた肩も痛かったし、倒れた際に膝と手の平を擦りむいてしまった。

 だけど本当に痛かったのは、体ではなかった。

 少女がしばらくその場で動けないでいると、近くに人の気配を感じた。少女は顔を上げる。

 そこに一人の少年が立っていた。少女と目が合うと、少年は怯えたような表情になった。

 お互いに一言も言葉を発さずに時が過ぎていく。

 やがて、少年は後ろめたそうな横顔を残し、去っていった。



 学校に着き、少女は自分の下駄箱を開けた。

 下駄箱の中には、泥の山が形成されていた。

 少女はしばらく無言で佇み、泥の中に手を突っ込んで泥にまみれた上履きを引っ張り出した。近くでクスクスという複数の笑い声が聞こえる。

 少女は一度外に出て泥を払い、校舎に入ってまだ泥の落とし切れていない上履きを履いた。

 教室に入り、自分の席に進むと、机の上に昨日まではなかった呪いの言葉の数々が刻まれていた。少女は無表情で自分の机を見つめる。

 授業では、教師がこの年代の生徒に到底解けるはずのない問題を少女に出し、答えられない少女をクラスで笑い者にした。

 どうにかこの日の学校行事を全て乗り越え、少女は下校を始める。どれだけ探しても彼女が大切にしていた穴の開いた靴が見つからなかったため、彼女は裸足のまま道を歩いた。

 少女は自宅に到着する。傷だらけの足の裏が痛んだが、母に向ける偽りの笑顔と「ただいま」の練習をし、玄関のドアを開いた。

 家の中は暗い。いつもは母が夕食を作っている時間のはずだった。

 夜になっても、家の中には少女一人きりだった。

 自室のベッドでぶるぶると震えていた少女だったが、さすがにお腹が空き、傷だらけの足で台所に向かった。

 冷蔵庫や普段食料が貯蔵されている場所を探したが、食べるもの一つ見つからなかった。仕方なく、少女は水道の水をたくさん飲んで飢えをしのいだ。

 自室に戻り、窓際に引かれたカーテンを開くと、夜空に月が見えた。

 月は、とても綺麗だった。この日少女が目にしたものの中で一番輝いていた。

 月には、ここよりもっと楽しいことがあるのかなと少女は考える。

 少女は薄汚れたボロボロのベッドに横たわり、夢想をして過ごした。

 夢の中だけでなら、彼女は幸せでいられた。

 しかし、段々と楽しい思考も浮かばなくなってくる。体に力が入らない。何も考えられない。

 そのまま、ただ朽ちていくのを待っていた。

 彼女は、世界に拒絶された。自分の居場所はどこにも無かった。

 生きたまま、少女の体から魂が抜け出した。



 翌日になって、少女の家を訪れた者がいた。

 それは、一人の少年だった。

 少年はベッドの上で死んだように横たわっている少女を見つけた。

 彼がいくら呼びかけても、少女は応えなかった。目を開け虚空を見つめたまま、動かない。

 少年は涙を流しながら少女に何度も謝罪の言葉をかけた。自分にほんの一握りの勇気さえあれば、救うことができたはずのに。

 少年はやがて青年となり、大人になった。

 それでも、彼の後悔は終わることはなかった。

 死を迎え、天に召されても。

 彼が魂の庭ガーデンをいくら探しても、少女の魂は見つからなかった。

 やがて彼は司書という役目を与えられ、多くの運命を眺めた。

 そのどこにも、彼女の魂は存在しなかった。

 彼女は世界から姿を消した。



 肉体から抜け出た少女の魂は、世界を彷徨った。本来の輪廻の糸を外れ、世界から忘れ去られた。

 やがて、少女の魂はある場所に辿り着く。

 それは森の奥にある大きな白い樹だった。

 少女の魂は白の大樹へ入っていった。

 少女は世界を渡ることができた。自分の好きな世界へ行くことができた。

 

 少女は白い大樹の化身となった。少女の行動はアカシックレコードにも記録されなかった。

 長い歳月をかけ、成長を続けた世界に、種が生まれることを少女は知った。

 その新しい世界でなら、楽しいことが待っているかもしれない。

 こんな。

 こんな。

 苦しい思いをしなくても。



***



 心空は闇に落ちていった。途方もない年月をかけて忘れかけていた輪廻の記憶がフラッシュバックした。

 心空は泣き崩れる。泣く場所すら与えられなかった記憶に晒されながら。

 ふと、自分の体が軽くなったのを心空は感じた。

 誰かが心空の手を握っている。

 心空は目を開き、顔を上げた。

 そこに朱い瞳の女性がいた。

 彼女だけじゃない。四つの光が心空を囲んでいる。

 温かな光。慰めてくれているような。

 見守ってくれているような。

 やっぱり、思った通りだった。彼女たちだったら、認めてくれると思った。

 自分の存在を。

 歌が聴こえる。幾千の魂の歌声が。

 それは優しさの調べ。

 悠久の響き。

「ごめん。遅くなった」

 彼の声が聞こえた。

 見上げた先に、彼の姿がある。

「だけどもう、きみを一人にはしない」

 彼が手を伸ばした。心空はその手を掴む。

「行こう」

 彼に手を引かれ、心空は向かう。

 新しい、二人だけの世界に。

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