最期

 マンションに戻った恋火は風楽の家のインターホンを何度も押したが、誰も出なかった。少し大きめのノックもしたが、人の気配を感じられない。玄関の鍵はかかっている。

「どうしたの?」

 通りかかった近所のおばさんが声をかけてきた。

「あなた、泥だらけじゃない」

 おばさんは雨の森の中を駆け抜けてきた恋火の有様を見て、苦言を呈した。

「風楽は?」

 自分のことなど気にも留めずに恋火は訊いた。

 おばさんは辛そうな顔になり、分厚くなりつつある顔の皺がさらに寄った。

「容態が悪化したみたいで。さっき救急車で運ばれたわ。まだ若いのに可哀想ねえ」

 それを聞いた恋火はすぐさまマンションの階段を駆け下り、放り投げるように置き去りにしていた自転車を起こし、跨った。

 雨足はさらに強まっていた。



 風楽は病室のベッドで仰向けに寝ていた。一般の人間は体が宝石化することで身体機能に影響が出ることは少ないが、彼の場合は少し違った。一時的に呼吸困難に陥り、救急車で運ばれた。

 現在は状態が安定していた。息を吸うのが少し苦しいだけで、ちゃんと意識もある。宝石化の感染を防ぐために首から下が全て透明のビニールで覆われていることもわかる。

 風楽は病室の天井をぼんやりと眺めていた。もうすぐ自分は死ぬかもしれないという不安とは裏腹に、彼の精神は落ち着いていた。

 彼が考えているのは、恋火のことだった。自分の人生に火を灯してくれた彼女のこと。

 もし自分が死ぬとしても、彼女との大切な思い出は失いたくなかった。もしそれを天国に持っていくことができたなら、自分は不幸ではない。

 廊下が少し騒がしかった。誰かが言い争っているような声が聞こえる。

 病室のドアが乱暴に開けられた。

「風楽!」

 血相を変えた恋火が飛び込んでくる。風楽は枕に後頭部を預けたまま彼女のほうを向いた。

「どうしたんですか? そんなに慌てて」

 ほら、彼女に笑いかけることだってできる。自分はまだ大丈夫だ。

 恋火の髪は濡れていた。髪先から水滴が滴っている。よく見ると、あちこち泥だらけだ。何があったか知らないけれど、無鉄砲な彼女らしい。

「風楽、今助けるから」

「ありがとうございます。心配してくれて」

「違う。そうじゃなくて」

「それより、恋火さんとちょっと話がしたいです」

 恋火の表情はまだ興奮しているような様子だったが、彼女は呼吸を整え、近くの椅子に腰を落ち着けた。

 風楽は恋火の顔を見ると、不思議と体の苦しさが無くなった。彼女が初めて自分の手を握ってくれた時と同じように。

「恋火さん」

「なに?」

「ありがとうございます」

「何が?」

「思い当たる節はありませんか?」

「ないよ」

「恋火さんは僕にとても素敵なものをくださいました」

「覚えてない」

「僕の人生が希望に満ちていたのは、あなたがいてくれたからです」

「……」

「本当はもっと時間をかけて、この気持ちを伝えたかった。あなたに恩返しがしたかった」

「そんなものいらない。だから――」

 恋火の言葉はそこで途切れた。彼女がはっと息を飲む。

 風楽の目から涙が零れていた。とんだ失態だ。また彼女に泣き虫だと思われてしまう。

 風楽は一度鼻をすすり、言葉を綴る。

「ねえ恋火さん。明日って、何の日かわかりますか?」

「わかる」

「言ってください」

「風楽の誕生日」

 風楽は恋火に笑いかけた。

「ありがとうございます。覚えていてくれたんですね」

「明日で十八歳」

「そう。法律的に、結婚できるようになる年齢です」

「……」

「恋火さん、すみません」

「何が?」

「約束、守れそうにないんです」

 だめだった。声が震える。涙が、止まらない。

 恋火が立ち上がった。

「やめてください。そんな悲しそうな顔」

 彼女の体がふるふると震えている。

 風楽は自分の顔に笑顔を作った。

「僕はあなたの笑顔が好きなんです」

 病室に静寂が下りた。

 風楽と恋火は見つめ合った。

 瞳と瞳が言葉のない会話をした。

 恋火がベッドに近づいてきた。

「来ないでください。あなたも――」

「風楽、これを」

 恋火は風楽の胸の上に白い平たいものを置いた。

「これは?」

「あの白い樹の葉っぱ」

「これを、取りに行っていたんですか?」

「……」

「ありがとうございます。大切に、持っていきますね」

「風楽」

「はい」

「向こうで待ってて」

「向こう?」

「私もすぐに帰るから」

 恋火の顔には決意の兆しが表れていた。



 風楽の体がドクンと脈打った。

 心臓を鷲掴みにされたような感覚。

 視界が急激に赤で埋め尽くされていく。

 恋火の顔が見えなくなった。

 自分の体がバラバラに砕け散った。

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