汚れた街
夜の都会。デパートやブランドショップが軒を連ねる大通り。
愛地はジャケットの襟を立て、ポケットに手をつっこみながら歩道を歩いていた。
酔っ払いのサラリーマン。花粉のように香水の臭いを撒き散らす化粧の濃い女。スマートフォンの操作に忙しいカジュアルな格好の男。仲良くもないくせに愛想笑いで取り繕っている若い女の集団。誰も彼もが薄汚い。そして、生きている。
車道を走る車が排気ガスを放出しながら通り過ぎる。人間も同様だ。生きているだけで、この世界を汚していく。
ワクチンの普及によって、宝石化症候群の脅威は無くなった。そのワクチンは一人の人間の命を代償として生成された。誰が犠牲になったのか、世のほとんどの人間は知らない。知ろうともしない。自分さえ生きていればそれでいいのだ。愛地はポケットの中に隠している右手を強く握り締めた。
華やかな通りから路地に入る。
奥へ奥へ。
薄暗く、寂れた、人間の内面のように汚い場所。
前方、落書きだらけのビルの外壁の傍に二人の人間がいた。見ていると、一方が一方へ白い袋を渡した。
そのまま歩いていくと、二人は愛地の存在に気づき、一瞬怯えた表情をした後、視線を逸らしてその場でじっとしていた。愛地は黙ってそこを通り過ぎる。興味はなかった。
コンクリートが黒ずみあちこち崩れているビルの前に来た。愛地は中へ入っていく。
エレベーターのボタンを押したが、どうやら動いている様子がない。愛地は階段で三階まで上がった。
ところどころ壁や天井が崩れ物が散乱しているまるで廃墟のように荒んだビルだった。しかし、愛地の足取りが緩むことはなかった。たとえ向かう先が地獄であろうと、彼は進むつもりだった。
ビルの三階にあるドアの前まで来た。『新聞勧誘お断り』という張り紙が目につく。こんな廃墟のような場所に誰が勧誘に来るというのか。ドアの上には堂々と監視カメラが設置されている。
インターホンのようなものはなく、他に部屋の主を呼べそうなものも見当たらない。愛地がどうしようか考えていると、プツーーー、と回線の繋がったような音がどこかから鳴り、女の声が聞こえた。
『合言葉は?』
愛地はおそらく相手が観察しているであろう監視カメラに視線を向けた。
「オーバーイーツです。ご注文のあったチーズタッカルビをお持ちしました」
クスクス笑う女の声が微かに聞こえ、音声が途切れた。
しばらくすると、カチャッと鍵の開いた音がして、ドアが開いた。
黒髪。赤い布のヘアバンドがつけられ、髪は後ろで結われている。思っていたより若い、二十代にも見える女。つけまつ毛にピンクのカラーコンタクト。さくらんぼ型のイヤリング。真っ赤な
「どちらさん?」
「あんたが『なんでも屋』だと聞いてやってきた」
「チーズタッカルビは?」
「子供のころの思い出の中に忘れてきた」
興味を惹かれたらしい女は不敵に口角を上げた表情になった。
「どうぞ」
女は愛地に預けるようにドアを開け、背中を向ける。その背中に向かって愛地は尋ねた。
「本当の合言葉は?」
女が立ち止まって振り返る。
「そんなものはないよ。強いて挙げるなら、『小籠包は火傷に注意』だ」
部屋の中はオフィスというよりマンションの一室という感じだった。あちこち物は散らかっているが、廃墟のような外とは違い清潔感がある。
向かい合わせのソファと真ん中にテーブルのある応接セットに通された。
向かいに座った女の目は忙しなく上下左右と動いている。頭の回転が速そうな相手だと愛地は感じた。
愛地は女に自分の名前を告げた。それに応じ女も答える。
「ツバメとでも呼んでおくれ」
女の腕についている数珠がジャラジャラと音を立てた。
「それで、愛地さんとやら。あたしに何のご用だい?」
「協力してもらいたいことがある」
「見返りは?」
愛地はバッグからそれを取り出し、テーブルの上に置いた。
「これが前金」
ツバメはテーブルに置かれた文庫本のような厚さの札束と愛地の顔を交互に眺めた。彼女の表情が若干険しくなり、目が細くなった。
半纏姿のツバメは腕を組んでしばらくなにか考え込んでいたが、やがて愛地に目を向けて口を開いた。
「あたしにもできることとできないことがある」
「そんなことは承知してる」
「じゃあ聞こう。依頼内容は何だい?」
愛地はその質問に志望動機を尋ねられた就活生のように機械的に答えた。
「この世界を壊したい」
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