帰ってきた蒼

 勢いよく走ってきた水羽が、恋火と風楽の前で立ち止まった。

 何か言葉を発しようと口を開くが、そこから言葉は出ず、感情の昂ぶりを抑えるように強く目を瞑った。その閉じられたまぶたの隙間から、透明の滴が流れ出す。

 恋火はゆっくりと水羽に近づいていった。

「よく頑張ったね」

 その恋火の声を聞いた水羽は、堪え切れずに泣き、恋火に抱きついた。

 恋火はしっかりと抱きとめる。

 震える体を擦り、慰めた。

 やはり水羽は、怖かったのだ。誰だって怖い。死は、自分の終わりを意味している。それでも彼女は決断した。世界のためとかそんなものではない。自分の内なる何かに従い、運命を選択したのだ。

「ありがとう」

 一頻り泣きじゃくった後、水羽はそう言い、抱き合った格好のまま恋火を見つめた。

 蒼い瞳。水羽の顔が目の前にある。

 水羽の唇が形を変えた。彼女は目を瞑り、

 恋火にキスをした。

 柔らかな感触。

 恋火は楽しそうに笑う水羽を黙って見つめた。

「えっ? ちょっとちょっと何してるんですか!?」

 慌てる風楽の様子が可笑しかった。



「記憶が無い?」

 水羽がそう訊いてきた。三人は並んで芝生に座っている。

 恋火は水羽の問いかけに頷いた。

「どうして?」

「わからない。だって、記憶を失った記憶すらないんだから。だけど、風楽は何か知ってるみたい」

 矛先を向けられた風楽は苦笑いする。

「風楽。知ってるなら教えてあげなさいよ」

「あー、はい。えーとですね。これはですね……」

「ずっとこの調子」

「風楽は昔からずるいところがあるからね」

「それを言うなら水羽さんのほうが」

「えっ、なに? 私のどこがずるいって?」

「さっきの恋火さんとのキスだって」

「妬いてるんだ」

「妬いてますよ」

「でも残念。恋火は私のもの」

「違う、僕のものです」

「二人ともうるさい」

「ごめんなさい!」

「すみません!」

「私は誰のものでもない。そもそもものじゃない。わかった?」

「わかった」

「わかりました」

「そんなことより、彼の様子が気になる」

 恋火のその言葉で、水羽の表情が変わった。楽しそうだった表情が曇り、俯き加減になる。

「見に、行ってみますか?」

 風楽の提案に、恋火と水羽は頷いた。



***



「す、す、水羽さんは身ごもっていました。こ、こここれがああなたに伝えなきゃいけないとお思ったことです」

 愛地の自宅。水羽の使っていた椅子に座り、シイナが話した。

 その事実を聞いた愛地からは、表情が失せた。感情が消えた。今この時は怒りも悲しみも芽生えず、ただ茫然とした。人間の理性としての部分だけが処理を行い、その奥の感性を司る部分にはまだ到達していない。というより、その部分が目を背けようとしている。心の防衛機能が働いている。

 シイナは長い前髪の間からちらちらと愛地の様子を窺ってきた。愛地からの反応が得られなかったため、シイナは話を続けた。

「ぼ、僕はそのことを知っていながら、と、止めることができませんでした。お、おお願いです」

 シイナは一度大きく息を吸ってから、続けた。

「僕のことを許さないでください」

 シイナの目がぴくぴくと痙攣するようにまばたきを繰り返す。

「……か?」

「えっ?」

「それで満足か? 加害者面して、罪を被ったふりをして。自分が悪いとぬかして。お前はそれで満足か?」

「ぼぼぼぼぼ僕は」

「出ていけ」

「えっ?」

「今すぐここから出ていけ」

 愛地の静かな怒りのこもった声が響く。

「でないと俺は、お前を殺してしまいそうだ」

 愛地は座ったまま、意思の力で無理やり体を抑えつけていた。この体は今、感情の爆弾を抱えている。点火したら、抑えようがない。

 シイナはもとから白い顔をさらに蒼白にして、立ち上がった。怯えた目で愛地の様子を窺いながら、おずおずと退去を開始する。

 しかし、部屋のドアの前まで進んだところで、シイナは動きを止めた。そして愛地に背を向けながら言葉を発する。

「愛地さんは、どうして手袋をしているんですか?」

 シイナの指摘に愛地は虚を衝かれた。

 シイナは顔を半分だけこちらに向け、同情するような表情で言った。

「もし必要であれば、言ってください」

 そう言い残し、シイナは部屋から出ていった。

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