愛の逃避行

 翌日、カーテンの隙間から部屋に陽光が漏れ出したころ、水羽は目を覚ました。こんな状況でも眠ることができる愚鈍さと逞しさに驚きながら。

 今日、自分の人生は終わる。深夜に迎えの者が来て、どこかへ連れていかれるのだろう。そしてもう、日常に帰ってくることはない。今日中にお別れを済ませなければ。

 水羽は寝室を出てリビングに入った。部屋に入った途端、香ばしい匂いが漂ってきた。キッチンからフライパンで何かを焼く音が響いている。

 水羽が食卓のテーブルに着いて待っていると、目の前に朝食が運ばれてきた。トーストに目玉焼き、ベーコンにサラダ、コーヒーとフルーツ。いたってシンプル。いつものやつ。

「ホテルの朝食のように豪華とは言えず、申し訳ございません」

 愛地が気の良いウェイターのように微笑みながらそう言った。その様子が可笑しくて、水羽は小さく笑った。自分がまだ笑うことができるということに驚きながら。

「いいえ。あなたのその何にも代えがたい微笑みを目にすることができたので、私は満足です」

「それはそれは、勿体ないお言葉」

 用意された朝食は水羽の分のみだった。愛地は水羽の向かいに座り、テーブルに両肘をついて上目遣いになりながら朝食を食べる彼女のことを観察していた。

「食べているところをそんなにまじまじと見られると恥ずかしいですわ」

「おっと、これは失礼いたしました。わたくし、本日あなた様の命をなんなりとお受けする、愛地という者です。姫、何かご所望はございますか?」

「姫? ふふ。そうですわね。それじゃあ」

 水羽は愛するその人の笑顔に向けて言った。

「私を遊園地に連れていって」



「私、ジェットコースターに乗りたいんですの」

 意気揚々と遊園地の園内を歩く水羽は言った。

「えー。ジェットコースターは苦手だなあ」

 隣を歩く愛地が惚けたような顔で言った。

「ちょっと! なんでも言うこと聞いてくれるんじゃないの? それに、お姫様ごっこは? 私だけやってたら恥ずかしいでしょ」

「うそうそ。かしこまりました。わたくしめがご案内いたしましょう」

 その日、水羽は目いっぱい愛地の顔を瞳に映した。楽しそうな顔。優しい笑顔。惚けてこちらを笑わせようとしている顔。何かを考えているような横顔。

 彼は一瞬たりとも、悲しそうな顔はしなかった。そう覚悟して、この日に臨んでいるようだった。彼はひと時も離れず、水羽のことを見守った。水羽が遊園地のトイレに入った時は、トイレの前で水羽に聞こえるような大声で歌を歌った。聞いているほうが恥ずかしくて、なかなか出るものも出ない。トイレから出て彼に怒ったけど、本当は嬉しかった。

 自分の人生をこんなにたくさんの喜びで彩ってくれた彼に、感謝の気持ちでいっぱいだった。

 もし生まれ変わったら、もう一度彼に出逢いたい。



 少しずつ、ゆったりと、高度が上がっていく。それに連れ、遠くに街の煌びやかな夜景が見えてきた。

 二人を乗せた観覧車のゴンドラが、少しだけ、空に近づいていく。

 向かいに座る愛地は、顔を横に向け、景色を眺めていた。水羽はそんな彼をただ見つめていた。

 観覧車に乗ってから、二人とも一言も喋っていない。静かな時間だった。

 八合目ほどの高さに到達したころ、彼の横顔が思い詰めたようなものに変わった。

「逃げてもいい」

「えっ?」

「今からでも、どこか遠くに逃げよう。奴らの追ってこれない、ずっと遠くへ。俺はどこまでもきみについていく」

 それは、実る宛てのない、足掻きだった。

 水羽は体に力を込め、自分の意思を告げる。

「私は逃げない」

 小さな、けれど決意のこもった水羽の声を聞き、彼が目を向けた。

「逃げたら、きっと後悔する」

 水羽は両手を自分の胸に当てた。

「私はね、全部意味があるものだと思うの。体が宝石になる病が流行ったり、この国の中で私がただ一人選ばれてしまったことも。楽しいことばかりじゃない。公平なことばかりじゃない。それでも、私はそこから目を背けない。だってそれが、私の人生だから」

 彼女の言葉を聞く愛地の瞳が潤んでいるような気がした。もしかすると、潤んでいるのは自分のほうかもしれない。

「大変なことも辛いこともたくさんあった。だけど私はついてたよ。それ以上の幸運に出会えたから。

 あなたという人に巡り逢えたから」

 今では愛地が涙を流しているのがはっきりと見えた。そして、自分の腿にもポタポタと滴がこぼれていた。

 ゴンドラの高さが頂点に達する。

「ありがとう。私はあなたを愛することができて、幸せです」



***



「ねえ、恋火さん。もしかして、泣いてます?」

 自分もすすり上げながら、風楽は訊いた。

「泣いてない」

 そう意地を張る彼女は頬にこぼれる滴を袖で拭いた。目は充血している。

 過酷な運命を前に決意をした水羽の覚悟が、胸に響いた。

 風楽は知っている。水羽は、本当は自分と同じように泣き虫だ。すぐ弱音を吐き、へこたれる人間。強がるくせに、とても脆く崩れやすい。

 そんな彼女が運命に立ち向かうことができるのは、傍に愛地がいるからだ。彼の支えがあるからこそ、水羽は水羽でいることができる。

「ねえ恋火さん」

 風楽は自分にとっての大切な人に話しかける。

「なに?」

「僕たちも今度一緒に観覧車に乗りましょうよ」

「嫌だ」

「えっ、どうして?」

「だって、高いところ苦手なの」

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