浮世の鏡

 無重力空間に体を漂わせ、手と手を合わせながら、恋火は風楽からの言葉を受け取った。

 愛しています。

 使い古されたような、けれどいつの時代も効力を発揮してきた、魔法の言葉。

 風楽の言葉の真意はわからない。それでも、それは彼の心からの言葉であるように思えた。そして。

 どうなったって。

 まるでどうかなってしまいそうなその言い方が、気にかかった。

 繋いだこの手が、いつか遠くへ離れていってしまうかのような。

 恋火は風楽の瞳に憂いの色を見た。

「どうしたの?」

「いえ」

「ねえ、それ誰にでも言うの? 愛してるっていうやつ」

「ふふ。あなたにしか言いませんよ」

「そう。一応信じておいてあげる」

「一応ってなんですか!?」

 二人は白い大樹から離れ、宇宙空間をさらに進んだ。どうやらこの空間は完全に無重力というよりは、若干水中にいるような感覚があり、ある程度自分の意思で空間を進むことができた。

 暗黒に点々と星々が輝く宇宙。

 果てない銀河。

 この自分の存在など取るに足らないもののように感じる。

「ねえ、恋火さん」

 手を繋いで隣を飛んでいる風楽が言う。

「僕たちは、この広い世界、宇宙で、たった一人で生きていくわけではありません」

 まるで恋火の心細さを悟ったような言葉だ。

「魂の成長の旅において、僕たちには気の合う仲間たちが必要です。お互いに助け合い、励まし合い、成長し合うことのできる仲間が」

「仲間、ね」

「これからその様子を見にいってみましょう」

 風楽が何を言っているのかよくわからなかったが、記憶のない自分にはわからないことばかりなので、黙って彼の案内に従った。

 それからしばらく進んでいくと、宇宙空間にぽっかりと浮かんでいる扉が見えた。位置からして、どうやら球体に入った時のものとは違うようだ。

 そこへ近づいていき、風楽が扉を押し開けた。扉の先はこことは違う空間に繋がっている。

 扉を抜け、カーペットの敷かれた床に足をつけた。

「わっ!」

 唐突に重力感が戻ってきて、恋火はその場に倒れ込みそうになった。その彼女の体を、風楽が支えた。

「大丈夫ですか?」

「うん、ありがとう」

 風楽の手を取り、立ち上がった。

 そこは、なんだか見覚えのあるような場所だった。照明が控えめで、少し薄暗い。開放感のあるロビーのような空間。背もたれのないソファや、奥のほうに上部にモニターがついたカウンターがあった。

「ここ、なんだか」

「はい」

「映画館みたいな雰囲気だね」

「そうですね。たぶん、似たようなものだと思いますよ。浮世の鏡シアターといいます」

「あの世にも映画館があるの?」

「観るのは映画ではないですけどね」

 その場所には他にも人がいた。ソファに座ったり壁際に立って談笑している人たち、カウンターの近くでうろうろしている人間。男も女もいるし、大人も子供もいる。その誰もが風楽と同じように白い服をまとっている。

 恋火が周りの様子を観察していると、風楽がカウンターのほうに向かって歩き出した。恋火もそのあとをついていく。

 カウンターの奥側に、テーブルに肘をついてダルそうな表情を浮かべている白い服の男が座っていた。外見は三十代ほどに見える。今しがた寝床から起きたばかりのようなくしゃくしゃの髪。中途半端に生えた顎ひげ。シャープな輪郭に彫りの深い顔立ちは美形と言っていいが、そのやる気の感じられない眠そうな態度が残念に感じられた。

「こんにちは」

 風楽が爽やかな声で挨拶した。

「ああ」

 男は溜め息混じりの声を漏らした。まるで興味がないといった反応だ。

「恋火さん。この人はレッドさんといって、ここの管理人をしています」

「誰が美人のケツばっか追ってる人間だ」

「誰もそんなこと言ってませんよ」

「ん、お前」

 レッドが風楽の隣で佇む恋火に目を留めた。眠そうだった目をぱっちりと開いてまじまじと眺めてくる。

「なに?」

「いや……。大丈夫だったのか?」

「何が?」

「ああ、そうか。記憶を……」

「レッドさん」

 風楽が割り込むようにして口を挿んだ。

「僕たちグループソウルの様子を見たいと思っているんですが」

「ああ。そうか」

 そう答えるレッドだが、目線はまだ恋火に向いている。恋火はこの男にいちゃもんをつけられるような覚えはない。

「そうだな。お前たちは42番だ」

 レッドが手元の機器を見ながら言った。あの世にも機械があるのか。

「恋火さん、行きましょう」

 風楽に促され、その場をあとにしようとする。

「あっ、お前」

 レッドの声に恋火は振り返る。彼は恋火のことを見ていた。

「私の名前は『お前』じゃない」

「えっ? ああ、すまん」

「なにか?」

「その、なんだ」

「……」

「今度一緒にドライブにでも行かないか?」

「へっ?」

「ちょっとちょっと!」

 風楽が二人の間を遮るようにして立った。

「何言ってるんですか!? 早く行きましょう」

 恋火は風楽に手を持たれて引っ張られた。

「ふっ、冗談だよ」

「もう!」

 恋火は彼女のことで慌てる風楽が、なんだか微笑ましかった。

「気をつけろよ」

 独り言のようにぼそっと呟いたレッドの囁きが微かに聞こえた。



 恋火と風楽はロビーから通路に進んだ。カーペットの敷かれた床。若干薄暗い照明。恋火は映画館のこの少し非日常的に感じる空間が好きだ。ついワクワクしてしまう。ここが映画館かどうかはわからないが。

『42』という表示のある場所まで来た。

「恋火さんの好きな映画のジャンルは何ですか?」

 と、風楽が尋ねてきた。

「私は、アニメかな」

「えっ、アニメ?」

「悪い?」

「いえ、ちょっと意外だっただけで」

 二人が雑談をしながら『42』の部屋に入ろうとしていると、通路の先に人影を見つけた。

 七、八歳ほどに見える、幼い少女。フリルのたくさんある白いドレス姿。肩まで伸びている薄紫の髪。瞳の色が白に近く、その主張のなさが逆に印象を強くしている。

 少女は恋火たちに向かってにっこりと笑いかけていた。恋火は無表情の鉄仮面を少女に向ける。

「あの子、風楽の知り合い?」

 恋火は風楽にだけ聞こえる小声でぼそっと尋ねた。

「えっ、誰だろう? 僕は会ったことないと思います」

「こっち見て楽しそうに笑ってる」

「はい。可愛いですね」

「あれ。風楽は年下が好みだったの?」

「ちょっとやめてください。僕はクールで美人な年上の女性が好みなんです」

「そういうこと言うのもどうかな」

「もう、早く入りましょうよ」

 二人は『42』の扉を開けて中に入った。

 そこは、寸分違わぬ映画館の鑑賞席そのままだった。大型のスクリーンと、そこに向かって設置された優に百を超える座席。二人の他に、人影はない。

「恋火さん、隣の席に座りましょうね」

「こんなに空いてるのに?」

「はい」

 二人は一番見やすい中央の特等席に陣取った。



 照明が落ち、正面スクリーンに映像が流れ始める。

 白いドレスの少女は、最後列のシートに座り、二人きりだと思っている中央シートの二人を見下ろすようにして眺めていた。

 天使のような微笑みを浮かべながら。

 悪魔のような微笑みを浮かべながら。



***



 ふふ、やっと始■るね。

 待ちくたび■た?

 これ■ら人物た■がそれぞ■背負っ■「業」の物語■始ま■の。

 目■背けな■でね。

 これはど■かの世界線で確か■存■する■語。

 がこち■の世界を見■いる■うに、わ■したちもの世■を眺■てる。

 世界■繋■ってい■。大樹■通■て。

 良■行■も、悪■行■も、全て■録されて■■。

 じゃ■いきま■ょう。

 ■ら■■たちの物■の幕■■よ。

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