ノン・デ・ファクト・スーサイド

山船

エピソードタイトル無し

 私の足元には今、死体が転がっている。人間の死体だ。しかも親しい友人のだ。部屋の床や壁にはブルーシートがぴっちりと敷かれていて、その上に鮮血が飛び散っていた。少し波打っていて、血の滴の流れた跡が淡くピンク色に染まっていた。私から見て横向きに倒れた死体の前には刃渡り50cmぐらいの小さな刀が転がっていた。刀の反射から、反対側の壁のブルーシートのピンク色の筋を遮るように、ちらちらと青い光が舞っているのが見えた。目線を上げるとそれが宙に浮いているのが見えて、でもブルーシートの血の付いてないところに行くとただ同じ色になって見えなくなってしまう。

「どうよ、アンリちゃん、私の死んでるところは!」

「……塚本さん、これってなんて答えるのが正解なの?」

「感じたままでいいんだよ、アンリちゃん! 深く考える必要は無いって!」

それから、この光もここで彼女だったはずだ。魂とかそういうものではなくて、彼女の別のリアルアバター。その光点から黄色い声(もとい青い声?)がキンキン響いた。感じたままを言うと「うるさい」になってしまうので、かぶりを振って死体の方に一歩進んだ。爪先が彼女の腕に当たった。腕が落ちていた拳銃に当たって、足に少し重い感触が返ってきた。なんとなく足を引いた。

 彼女はときどき私のバイト一月分の給料ぐらいのお金をはたいて、神経まで通ったアバターを買い、すこし生活してから自殺をするのがここ数年の趣味だった。

 恐怖が制御可能なとき、それは娯楽になる。リアルアバターをとっかえひっかえできない時代ですら、足を折る危険を冒してまで高いところから飛び降りてみたり、雪山を滑り落ちてみたり、果ては何分も呼吸せずに何十メートルも素潜りしてみたりする人が山ほどいた。たぶん、どれもこれも最終的にはなんとかなるだろう、という気持ちがあるからできるのだろう。私には恐ろしくてちょっと嫌だ。

 それで今はアバターを交換できるのだから、そういったものをするときだけ事故に備えてアバターを借りて、あとは本当に事故が起こって弁償しなくちゃならなくなったときに備えて保険でもかけておけば、ほとんどノーリスクでいろいろな死の危険を試せるようになった。なにせ本当に死んでしまっても死にやしないのだから、自殺を含むいろんな娯楽はアバターが交換可能になって5年もかからないうちにあっという間に広がりに広がりまくり、世間を席巻しまくっていた。生来怖くてそんな娯楽には向いてないという人々(そんなに少ないわけではないはずだけど、なんでか知らないが私の周囲にはめっきりいなかった)を除いて、猫も杓子も安全な危険に身を投げていた。今はそういう時代だ。

 で、私は興奮冷めやらぬ口調の彼女に呼び出されて、その自殺現場にやってきていたのだった。友人として趣味は尊重できても理解までは難しい。私にはスカイダイビングだって怖くてできないのに自殺なんてできっこない。私には人の話を聞くぐらいで十分だ。

 ただ、今日の彼女の興奮具合はいつもと段違いだったように思えた。「文字じゃ伝わんないよこんなの!」とは彼女の弁で、つい30分前に音声通話をつなげていたときの彼女はなんとかして私にその興奮を伝えようと四苦八苦していたのだった。身振り手振りと擬音語をステンドグラスにしたみたいな表現ではやっぱりピンとは来なかった。だけど流石にちょっと気になって、今日はバイトも用事もなくて家でゴロゴロするだけだったし、と思って来てみたのだった。

 しゃがんで、死んだほうの彼女の顔をまじまじと見た。ブルーシートがくわしと鳴った。なんとなく物珍しかったので、顔の写真を一枚撮った。これが焦点の合わない目で、これが血を吐いた口で、あとは……顔は傷つけられていないし、特に気にするところは無さそう。目線を左に向けると倒れた腹が目に入って、彼女はそこを脇差でかっ捌いたのだからもっと派手に血とか内臓とかが飛び出ているものかと思っていたのだけど、ただ池のような血に浸かっているだけで、それ以上は特に何も無いように見えた。腹を内側に折り込んで倒れているからかもしれないけれど、

「なんだ」

と、それだけ呟いて立ち上がった。自分自身が怖い目に合うのは嫌いだけれど、スプラッタは嫌いではない。私にはフィクションでそういうのを感じるぐらいのが丁度いい。

「わざわざ呼び出したってことはもっとすごいものが見られるのかと思ったのだけど、期待はずれだったわ」

「いやいやいやいや、そうじゃなくて、いや見た目はふつーかもしれないけど!」

青い光がぴょんぴょん動いて、私の顔に突進してきて、跳ねた油みたいに不必要に強く飛び返っていった。急に明るさが変わると目にやかましいのでやめてほしい。

「すごいんだよ、切腹って! 自分で自分のお腹に刺しただけでもうすごく痛いし怖いのに、横まで動かして切らなきゃいけないんだもん、今までやったどんなやつよりもすごく怖くて、もう最高だった! まあ、切腹だけだと痛いばっかりでなかなか死ねないらしいから予め銃もセットしとく必要があったし、それが面倒なのはマイナスだけどね」

「……どうして、自分から進んで、怖い思いをしなくちゃならないの?」

「わかんないかなー、アンリちゃんもきっとやってみたら楽しいと思うんだけど。食わず嫌いは良くないよ?」

怖い思いをすることは楽しくないと思う。

「……で、私を呼び出した理由はそれだけ? それかの片付けを手伝う?」

「あー、えっと、実は。まだ次のアバター買ってなくて、アンリちゃんにも意見聞きたいなって」

「なら、これを片付けてからでもいい?」

「えー」

どうせやらなければいけないことを放っておくのも、死体が転がっているのを無視しておくことも、そんなに好きなことではなかった。

 死体を解体してゴミ袋3つに分けて包んだ。そのままゴミに出すより安いからだ。血抜きはとっくにできているので肩と股関節と首を外すだけの簡単な作業。とはいえ面倒には違いが無く、部屋に来たときから時計の短針は半周も回り、すっかり日が暮れてしまっていた。胴体は何もしないでゴミに出すと大きすぎて粗大ごみ扱いされてしまうので、ほどよく折り曲げてごみ収集員の目をごまかす必要がある。切り込みを入れて、押し曲げて、というこの作業に一番時間がかかってしまった。

 そうは言っても帰ろうと思えば普通に帰れる時間だし、むしろこの時間から遊ぶことだってあったけれど、彼女の「もう暗くなっちゃったし、アンリちゃん、泊まってかない?」という誘いに甘えた。

「じゃ、とりあえずご飯はどうしよっか。私はこのアバターだと電気しか使わないし、料理も作ってあげられないし……」

「私は適当なものを買って食べるわ。……塚本さん、そのボディって寝るときはどうしてるの?」

「ちょっとコツがいるんだけど、ちょっと待ってね……あ、いけた、こぅ」

言うなり彼女のアバターから光が消えて、彼女は(見えなかったけれど)墜落してしまった。コンと音が鳴ったので床を探してみると、ビー玉みたいなものが落ちていた。すぐ浮き上がって光りだして、見覚えのある青い点に戻った。

「なるほど、眩しくなくていいわね」

「それじゃあ、えーっと……お布団敷い……てもらうのも私はできないし、ディスプレイ映すぐらいしかできないから……」

「私がやるわ。でも、そうね……それなら何か買ってくるのではなくて、適当に外食しにいって塚本さんがついてくる方がいいんじゃないかしら」

「いいね! 何食べに行くの?」

「牛丼の気分ね」

「牛丼」

半分本心、半分からかいのつもりだった。目をぱちくりさせたような(もとい、声門をぱちくりさせたような?)声を聞けて、すこし笑顔になった。

 そういえば牛丼屋に行ったことは無かったので注文方法がわからず、それで彼女に突っ込まれたり、食事中に彼女が水入りのコップの中に落ちたりするアクシデントがあったけれど、それはさておき。彼女の家まで帰ってきて、布団を二組敷いて、私は今片方を空っぽにしながら仰向けになってディスプレイを見ていた。空中に浮かぶディスプレイは(やろうと思えばいくらでも動かせるけど)動かず、対して青い光点が不規則に飛び回っているのも見えた。昼間よりも光量を落としているように感じて彼女にも配慮というものがあるように思えたのだけど、気のせいかもしれない。

「うーん、あんまり線が細いとすぐ疲れて嫌んなるし……でもこの娘かわいいし……」

なんて声が聞こえてくる。私はただ見ているだけで特になにもしていない。まあ、彼女が楽しいのなら私も嬉しい。……私のバイトの100時間分の給料をゆうに越す値段表示を見なかったことにすればだけど。

「ねえ、塚本さん、次の体でも自殺はするのよね?」

「そうだよ。なんで?」

「それって、そんなに楽しいものなのかしら、って思って」

「うん!」

「眩し……」

「特に今回のは本当にすごくて、ってさっきも言ったけどアンリちゃんにはぜんぜん伝わってないよね」

「……私には合わないわ。怖いものは怖くて、楽しくないもの」

「えー、一回やってみればいいのにー」

「私のことより、塚本さんは次の体での自殺の方法を踏まえて体を選んでみたらどうかしら」

「あ、そうだね! 次は溺死に決めてあるから……えっと、溺死に向いた体ってなんだろ」

「なんでもいいんじゃないかしら。ほら、水死体って見分けが付かないって聞くから」

「なんでもは良くないよ、アンリちゃんが見るんだもん! ほら、これとこれとかアンリちゃんから見てどっちが可愛いと思う?」

「見た目だけで言えば……そうね……こっちかしら。髪の色がいいわ。でも顔の形はこっちの方が好みね。どっちも値段はかわいくないけど」

「そう? これでも安い方だよ」

アバターを買ったことなんて無かったのでわからない。私の今の体はいわゆるオーガニックアバター(つまり、実の母によって産み落とされたリアルアバター)だし、特に別のアバターに乗り換えたりする気も起きなかった。

 少しずつ眠気が増してきたので、一旦布団から這い出てカーテンを閉めに行った。月光ですら寝るときには気に障るからだった。彼女もそれを知っていたので、特になにも言ってこなかった。

 ガラスの向こうに夜の世界があって、カーテンを閉じることでそれを見ないことにした。月光も夜景も遮られて、世界は私と彼女だけになったように感じた。10秒も経てば暗さに目が慣れて、ディスプレイから出る光が部屋の角を浮かび上がらせているのがわかった。世界がこんなにも小さな箱の中だけになって、それはとても心地よいことだった。小さな世界の中でさらに布団にくるまって、彼女のすぐ近くでディスプレイを眺めた。何も煩わしいものは無かった。

 彼女は相変わらず新しい体選びに没頭していたけれど、私はすっかり興味をなくしてしまった。私にとっては、いくつかの種類のボールペンから好きなものを一つだけ選んで、とでも言われているような感覚で、機能が十分なら、つまり普通に生活できるならどれでもいいじゃん、という気持ちだった。一応生活する以外の目的――溺死する、という目的があるけど、溺死と言われてもいまひとつイメージは湧かず、やっぱり何が楽しいのやら、という具合だった。

 痛い。頭に何かが当たって、私はまどろみから引き戻された。見ると、布団の上、私のすぐ脇にビー玉が落ちていた。ビー玉ではない、これは彼女のアバターだ。ビー玉と誤認したのは、今は光っていなかったからだった。

「……塚本さん?」

上には煌々とディスプレイが輝いている。広告が動き回ってカラフルに光るので、まるで彼女の存在が画面の中に取り込まれてしまって、それでやかましく動き回っているかのように感じる。その光を反射してきらめく彼女のアバターを手に取ってみた。それが綺麗だったので、しばらく彼女のアバターを眺めていた。

 白を基調とした画面の光の、特に明るい所はころころ変わっていく。それに応じて彼女のアバターの光る部分も変わっていき、もしや彼女が実は起きていて私をからかっているだけなのではないか、という気がしてきた。不意に回転させても光は表面の回転に追従せず、手で上を覆えばすっかり暗くなり、光源はそのビー玉自身ではないことが確かめられるだけだった。つまり、彼女はすっかり寝落ちしてしまったのだろうということがわかった。

 私も寝ようと思ってディスプレイを投影する装置(名前はわからない)の電源ボタンらしきものを押そうとしたところで、余計な考えが私の中に起こった。

「…………塚本さん」

反応が無いのをわかって、彼女に声をかけた。返事を待つでもなく、彼女をつまんで押した。無生物的な硬くて冷たい感触が指の腹に返ってきた。

 彼女のアバターは今、このビー玉しか無いはずだった。リアルアバターが全て無くなれば、他人がリアルアバターを用意してやらない限り死んだも同然となる。だから、私がこのビー玉を破壊すれば、彼女は死ぬ。少なくとも一時的に。もし私がこのビー玉を破壊しようと火で炙ったりウォーターカッターにかけようとしたり、あるいは携帯ベルトサンダーをこのビー玉に押し当てるだけでも、彼女がときどき味わって楽しんでいる死の恐怖を、格段に大きな形で、私が与えることができるだろう。それを実際に完遂すれば、どれだけ彼女が私を恐怖してくれるか。その考えが私の頭を一瞬満たして、このビー玉がコランダムか何かみたいに見えた。彼女を叩き起こして包丁の刃でも当ててやろうとまで思った。

ディスプレイを消した。急にばかばかしくなって、私も寝た。


ところで、この場にいる2人は知らないことだったが、ちょうど16年前の今日は有名な自殺のパフォーマンスが行われた日だった。身なりの良い男が水に飛び込んで、よく見ると足に重しが付いていたので浮かばずに水中にとどまり、しばらくもがいてから脱力したようになり、どうしたことだろうと思ったところに全く同じ姿の男が登場してこの行為の面白さを熱っぽく語っていく、という演出だった。これが娯楽としての自殺を大きく広めることになるパフォーマンスだった。自殺する過程そのものはぜんぜん派手でもなんでもなかったが、その男の語り口に人々はそそのかされてだんだんと広まっていったのだった。ちなみにその男は今は全国娯楽自殺協会の会長職をやっているし、溺死なんか時間がかかって仕方ないので実際には溺死に見せかけた感電死だったが、この場の2人には全くどうでもいいことである。


 早朝の海岸は思ったよりも寒くはなかった。正面には人影が見えて、僅かな風が背中を押した。きっと塚本さんだ。今日は溺死してみるからこの時間にここに来て、と言われたのがつい一昨日のこと。彼女の部屋に泊まった日はもう2ヶ月も前のことだった。彼女の横に立つと、海面を通してその下に何か影があるのも見えた。多分彼女の自殺死体だった。

「どう?」

「あっアンリちゃん、おはよう。……うーん、んー……」

「……歯切れが悪いわね」

「うーん、なんていうか……思ってたほどじゃない、っていうよりか……すごくつまんなかった」

「そう」

あからさまに落胆した様子だったから、そうだろうとは察せた。まあ、アバターは安い買い物じゃないし、その使い方で失敗したという話だろう、その点は共感できた。自殺のどこがいいのかは相変わらずさっぱりだけど、面白い自殺とつまらない自殺があるのなら、タダでできるわけでもなし、なるべく面白いほうが良いだろう。

 しばらく海に向かって2人で並んで立っていた。少しずつ海面の反射が強さを増していって、海から視線を逸らしてはじめて違和感の正体に気がついた。今日の彼女は青い光点ではなく、普通のヒューマノイドのアバターを着ていた。ぽけーっとしていた彼女の口を私の手で塞いでみて、彼女の体がびくっと跳ねた。

「……あっ、ええっと、でね、アンリちゃん、ちょっと図々しいお願いなんだけど、またの片付けの手伝いをお願いしたくって」

取り繕うように彼女が話し始めた。

「ええ。それより、アバターは2つ買ってたのね」

「うん。アンリちゃんがどっちも褒めるから、やっぱり私悩んじゃって。だから両方買っちゃった」

「そう」

「かわいいでしょ、ほら。あっ、で、それでね、私が海に入って海岸側にあれを押すから、アンリちゃんはあれの腰から伸びてるワイヤーを切って、海岸に乗せるのを手伝ってくれない? アンリちゃんは海に入らなくてもいいから……」

「そうね、分かったわ。……でも、塚本さん」

「なあに? アンリちゃん」

「……替えの服が見当たらないようだけど」

「あっ」

「……どうするつもり?」

「帰りは車に乗っけて貰う、ってアンリちゃんにお願いしてたよね?」

「それはいいけど、濡れたままじゃ嫌よ」

「うん、だから乾くまでここでお話しない?」

「悪くないわね」

「じゃあ決まりってことで!」

そう言うやいなや、もう彼女は海へ向かって飛び込んでいた。ばしゃん、ぱらぱらと音を立てて水が飛び散った。水に濡れるとかなり好みの髪色だった。


 岩場に並んで3人が腰掛けていた。私の右にはずぶ濡れの塚本さんが、その右には塚本さんだったものが。死んだアバターだけは腰をまっすぐ上に伸ばしておくこともできないので、背中を岩に付けてだらんとなっていた。彼女の肩越しにそれが見えるので、やっぱりどちらか一つに絞っておくべきだったかしら、でもどっちも私の好みだし仕方ないわね、という気持ちでいた。

 濡れた彼女の長い髪の先をつまんで、それを指を使ってくるくると螺旋状に巻いた。指に髪の感触が柔らかく、水が滲み出てきて手指が少し涼しくなった。彼女の髪しか視界に無かったので、ふともしやこれは死体の髪なんじゃないかという気持ちになって、目線を上げると彼女と目が合った。

「……私の髪、楽しい?」

「ええ。……塚本さん」

「なに?」

「…………その、自殺って、そんなに楽しいものなのかしら」

今はまだ、この髪のある体は死んでいないし、この体が死んだとしても彼女が消えたりすることはない。じゃあ何が起こるのか、といえば、この髪が彼女のものではなくなってしまう、というあたり。

「うん。あれ、言ったこと無かったっけ?」

「あるわ。でも、あなたは説明が下手だから要領を得ないのよ」

「うーん、そっか、えっと……」

「……今日の、つまらなかったのよね」

「うん」

彼女が首を縦に振って、髪が手の内から抜けていった。指先の涼しさだけが残った。

「それは前のとはどう違ったの?」

「うーんとね、前の……前のは刃で思いっきりお腹を刺して、それだけでめちゃくちゃに痛いんだけど、それだけじゃ切腹にはならないから横に動かす必要があって、それがすごく怖いし痛いから良かったんだけど、今日のは……えっと、お腹のところの服にワイヤーをつないで、その先に重しを付けてね」

彼女が立ち上がって、その『お腹のところ』を指して、ほらここ、と私に見せてくれた。

「それで、あとは海に入って、15分したら自動でワイヤーが伸びるように設定してあったから、溺死してこっちのアバターに入るだけだったの。なんだけど、肝心の溺れるところは何もできないし、苦しいって言ってもむせるぐらいだしで……」

「……そう」

「あー、次はどうしようかなあ。こんなに期待はずれだとは思わなかったし」

もうすっかり、今の彼女のこの髪は私のお気に入りになっていた。私には彼女の趣味をやめさせることはできないし、新しいアバターのための金銭的負担を押し付けることも、代わりに買ってあげることもできない。そこまでする熱意は無い、と換言してもいい。だから、きっと彼女はこの体もいつかそう遠くないうちに自殺に使ってしまうのだろう。この髪も、私は愛でられなくなってしまうのだろう。

 それが惜しかった。

「あ痛っ」

彼女のこめかみを指で弾いた。結われていない彼女の髪が指に引かれて僅かに揺れた。彼女があまりにもぼやけた顔をしていたように見えたから、ついそうしたくなった。

「……そうだ。ねえ、アンリちゃん」

ただ、彼女の反応は予想とは違うものだった。

「私、アンリちゃんに殺してほしいな」

座ったまま彼女の顔が横を向いて、彼女にをするために近づいていた私の目を捉えた。頭突きでも当たるところに彼女があった。彼女が青い光点になっているときなら散々あった距離感でも、こうもアバターが大きいと見づらいな、と思って頭を引いた。彼女はまだこちらを向いていたけれど、私だけ海の方に向き直った。

「アンリちゃん」

「何? 塚本さん」

「私、アンリちゃんに殺されてみたいの」

「……考えさせて」

嫌とは言えなかったけれど、身を乗り出してやりたいとも思えない。彼女を殺すことは彼女を消滅させることではないとはいえ、彼女のアバターのどれかを殺すのなら、少なくともそのアバターが使えなくなることを意味して、それは彼女の持つ価値をいくらか破壊する……ごちゃごちゃ言うのをやめてシンプルな言葉に直せば、彼女の物を壊すことになる。私は友人の物を壊して楽しむような人間ではなかったから、二つ返事でというわけにはいかなかった。いくらか心理的障壁があった。

 ところが、彼女自身が私に殺してほしいと言っているのだった。有り体に言えば、私は彼女を殺したくはない、という側に傾いている。確かにさっき私は彼女に少しばかり痛みを与えた。が、私は本来彼女に苦しんでほしいと思っているわけでは決して無いし、彼女を苦しめるような行いをしたいとも思わない。しかし、彼女は私が彼女に危害を加えることを望んでいる。

 私はすっかり混乱し、堂々巡りの思考に陥ってしまっていた。私は彼女に友人として好意を持っている。私は彼女に幸福であってほしい。危害を加えられることは幸福ではない。ところが彼女は私に危害を加えてほしい。好意から幸福であってほしいが、危害を加えられることは幸福ではないから、危害を加えないことにしたい。ところが彼女は私に危害を加えてほしい。思考のループを起こすこと自体が現実逃避みたいに思えて、それを意識的に中断した。

 もうすっかり日が昇り、直射日光で汗ばむくらいになってきた。代わりにいくらか海風が吹くような時間にもなっていたが、風は常時吹いてくれるわけでもなく、時折凪いではうなじを陽が焼いていた。立ち上がって彼女を跨ぎ、彼女だった方のアバターを裏返して、また元の場所に座った。

 ある一つのアイデアが浮かんだ。やっぱりこの髪が彼女のものでなくなってしまうと思うとどうしても惜しくて、そう思って彼女の横顔を見ると目も頬も耳もそう思えて、だったら、少しぐらいはこれが彼女と紐付けされている時間を伸ばそうとしたってバチは当たらないだろう、と。

「わかったわ」

「えっ、アンリちゃんいいの!?」

「ええ。私が殺してあげるわ」

「やったあ! 今日は良い日だね!」

だから、ちょっとした嘘をついた。

 彼女がひょいと立ち上がって、彼女だった方を担ぎ上げた。彼女は「よろしくね」とだけ言って停めておいた私の車のトランクにそれを入れ、彼女が助手席に、私が運転席に入った。彼女の部屋近くの駐車場まで彼女を送って、ついでに解体を手伝う。予め話してあったので二言三言で十分だった。車内はしばらくの間エンジンの振動と車の外からの音を除いて無音だったけど、彼女が道を見て何か思い出したのか、ちょっとした話を振ってきたので帰り着くまではその話題で雑談していた。

 いつものように解体まで終えて、ゴミ袋に包んで血の処理も終わった。じゃあ、また次は一ヶ月後ね、と彼女が言って、私も手を振って彼女と別れた。家の玄関を開けてから、そういえば殺し方については訊かれなかったことに気づいた。

 好都合だった。方についてはもう決めてあった。ただ、その理由はすごく自分勝手なものだし、その理由を隠すような嘘も用意し忘れていた。彼女と雑談することが単純に楽しくて、彼女についても良いと思えるようなラインの嘘を作るのをすっかり忘れ去ってしまっていた。ぼろを出さずに済んで良かった。

 今日は彼女とは関係のない用事がまだある。はあぁ、とため息をつき、それが私の下心が呼気になって出てきたもののように思えたので部屋を変えた。

 ヘッドマウントディスプレイを着けて、外にも持ち出すデバイスとは別のバーチャルアバターを着て、インターネットに接続する。インターネット世界にバーチャルアバターを持ち、それをいくつか切り替えて使うのはもう生まれたときから当然のことなのに、アバターの切り替えが現実世界となると途端に尻込みしてしまう。臆病なのだろう、私は。そのあたりは、自分のことを自分でよく理解していた。

 ただ、最近はオーガニックアバターではないリアルアバターを買うことにまったく興味が無い、と言うと嘘になるようになってきていた。明らかに彼女の影響だ。自分がものすごく単純であることはわかっていても、こればかりは仕方がない。さっき吐息にしてしまった下心をドアと壁の向こう側に追いやった。モードを切り替えて、部屋の風景が視界から消え去った。


 また一月が経った。雲のない夜だった。月の光がくっきりとした影を形作っていた。街路樹の影が歩道を横断して塞いでいたので、大きく跨いで通った。空は少し欠けた月の光で星も見えづらく、そもそも素養もあまり無いので、あれが夏の大三角だろう、多分、という程度の感想しか持ち得なかった。満月は明日か明後日だろう。

 ブーツのヒールがコンクリートに当たる音が止んだ。私が足を止めたからだった。彼女の部屋のインターホンを鳴らし、彼女がどたどたと出てくるのを待った。彼女のオレンジのパンジーの花のような笑顔が私の前に現れて、私も笑顔を返した。

「こんばんは、塚本さん」

「アンリちゃんようこそ! それじゃ、早速やる?」

「うーん、私としては先に塚本さんとお茶を頂きたいわね」

「はーい、只今!」

リビングに座ると、そこからキッチンで動き回る彼女の姿が見えた。手早くポットに水を入れ、茶葉の用意も済ませてしまうと、一瞬彼女は手持ち無沙汰な様子になって、

「あっ、アンリちゃんもアッサムで大丈夫?」

「ええ」

などと、他愛もない会話をしているうちにカップ数杯分でしかないお湯が沸いた。お湯が注がれる音を除いてはほとんど無音の空間も、私には心地よかった。

 紅茶の入ったソーサー付きのカップが2つテーブルに置かれ、彼女は私の対面に座った。私は「ありがとう」と彼女に言って、カップに口をつけた。美味しかった。

「どうどう、アンリちゃん、けっこう良い茶葉使ってるんだよ」

「美味しいわ。ありがとう」

「よっし。じゃあ、私も……」

一人でいるときには珈琲党なので、私には細かい紅茶の良し悪しは判別できず豚に真珠になってしまうのでは、と思わないではなかったけれども、彼女の喜びようからすれば杞憂と片付けてしまっても良さそうだった。

「……私も、紅茶の淹れ方の勉強しようかしら」

「えっ、そんなに美味しかった?」

「……ええ、まあ」

「んーでもさ、アンリちゃんが私に飲み物淹れてくれるならコーヒーがいいな。アンリちゃん、紅茶よりコーヒーの方が好きでしょ?」

「ええ、そうね」

「こう……紅茶って、奥が深いって言えば聞こえは良いんだけど……要するにめんどくさいから、美味しく淹れられる人が淹れれば良いと思うんだ。コーヒーもそうでしょ?」

「……それもそうね。なら、次は私が塚本さんを呼んでおもてなししなければいけないわね」

彼女がぱあっと笑顔を見せた。まるでこの紅茶の香りが彼女の笑顔の香りで、彼女の笑顔がこの紅茶の顔のように思えた。

 しばらく雑談を続けてから、彼女が「ちょっと待っててね」とだけ言い残してどこかへ消えてしまったので、私はすることもなく空になったカップの底を眺めていた。直接は見えないどこかから彼女が鳴らす音が聞こえたかと思うと、彼女がぱたぱたと足音を鳴らしながら戻ってきた。青いトレーを持ってきていて、それがテーブルの上に置かれた。中身は凶器一式だった。

「はい、アンリちゃんどうぞ! どれでも好きなの使っていいよ。こっちは100均の包丁で、こっちのは同じく100均の延長ケーブル。灰皿は100均だと見当たらなかったからリサイクルショップで買ったやつ。それから……」

「平気よ、塚本さん。私は自分で持ってきたわ」

「あ、そう?」

「ほら、これと……これ」

自分のポーチを漁り、予め用意しておいた小さなパッケージを2つ取り出した。片方には錠剤が2つ入れてあって、もう片方には白い粉を入れてあった。

 方について言えば、そんなに選択肢は多くない。なんと言っても、だいたいの殺し方では殺さないことができないのだ。あの髪を彼女のなるべく彼女のものにしておくからには、私が殺しても死なないでもらうより他になかった。そうなれば、武器を使えば死んでしまうし、焼いたり窒息したり感電したりしてもちゃんと殺せてしまう。残った選択肢は、毒殺ぐらいだった。

 だが、錠剤は市販のプラセボ薬――要するにシュガーピルでしかないものだし、粉はそれを砕いたものだった。

「錠剤の方が毒薬で、粉薬のほうが解毒薬になってるわ。たぶん、ちゃんと効くはずなのだけれど、一応試しておきたくって。錠剤の方を1つ飲んでから少しすると気分が悪くなってくると思うから、そうしたら粉薬を飲んでちょうだい」

一息に嘘を吐いた。

「うん!」

彼女も疑う素振りを見せずにノータイムで口に錠剤を1つ放り込んで、一瞬立ち上がりかけたけれど、そのまま唾液で飲み込んでしまったようだった。

「15分ほどで症状が出始めて、1時間もすれば死ぬような致死毒だから、症状が出始めたら教えてほしいわ。次のは私があなたの口に運んであげるから」

「んー……ちょっと気持ち悪くなってきたかも」

「…………そうね、塚本さんはこの毒に弱いのかもしれないわね。ほら、お口を開けて」

んあ、と口を開けた彼女に粉を注ぎ込む。毒や薬では無いことはわかっていても、何の意味もないことと切って捨てることは難しかった。なにせ彼女は可愛かったのだ。

「次は30分ぐらい時間を開けたほうが賢明ね。何かお話でもして時間を潰しましょう」

「それだったら紅茶、もう一杯どう?」

「ええ、頂こうかしら」

またはたはたとキッチンへ彼女が歩いて行ったが、目に見えて元気を少し失っているようだった。君子蘭のような笑顔はまだ彼女の物だった。湯を沸かす前に、こんなものがあっては無粋だ、と彼女が凶器の詰め合わせを片付けようとして、包丁だけは多分使うから、とそれだけ取り出してキッチンの方に持っていっていた。刃物入れにはこれの他には1本も包丁が見当たらなかった。


 時間が来た。時計から目線を戻すと私も彼女も立ち上がって、私は椅子から腰を上げながら机の上に無造作に置きっぱなしにしてあった薬入りの小袋を掴んだ。

「塚本さん」

「うん」

目配せをすると、彼女が微笑んだまま口を小さく開けた。私は袋から錠剤を取り出して、指ごと彼女の口に突っ込んだ。手を引き抜くと、彼女はおそらく冷めてしまったであろう彼女の紅茶で薬を流し込んだ。

「ねえ、アンリちゃん」

カップがソーサーの上に小さな音を立てて置かれた。

「これ、猛毒なんかじゃないよね。なんで嘘ついたの?」

血の気が引いた。彼女は微笑を浮かべたまま一歩も動いていないのに、まるで私の方に迫ってきたように感じて、一歩後ずさった。遅かれ早かれ毒薬なんかではないことは彼女にバレてしまうのだからその弁明が1時間早まっただけでしかないはずなのだけれど、私よりも10cm以上背の低い彼女のアバターを直視できなかった。時計はまだ数字1つ分も回っていなかったことが、当然なのに恐ろしく思えた。

「その、塚本さん」

彼女を傷つけたくなかった。一言で言えばそうなる。まだ、彼女を壊さないでおいて、その髪が、目が、笑顔が、彼女の物のままであってほしかった。そういうことを伝えるのがひどく自分勝手なように感じて、言葉に詰まってしまった。

 彼女が私の目の前から退いて、そこで今まで無意識に息を止めていたことに気がついた。肩で息をしながら目の焦点を合わせようとすると、彼女はキッチンに立っていた。しゆい、と音がして、彼女の手には包丁が持たれていた。刃がこちらを向いて、切っ先は天を指していた。彼女の彼岸花のような笑顔はまだあった。

 そのまま向かってきたので、また後ずさろうとした。2歩で背中が壁にぶつかり、ゆっくりと彼女が近くなっていった。口から出たのは取り繕いの言葉だけだった。

「塚本さん、やっぱり、わ、私は塚本さんをきず、傷つけたく、なくて」

「うん、そうだよね」

「えっ?」

「だって、アンリちゃんこういうのあんまり好きじゃないでしょ。アバターも買ったことないんだし。だから、一回やってみると良いんだよ」

「ま、待って! 塚本さん、私は……」

「大丈夫、ちょっと穴が開いたぐらいなら治すお金は出せるから。それに、実はさっき青い光点ブルービーンにアンリちゃん乗っけられるようにしといたから、安心して」

彼女は私の目の前で足を止めた。包丁の切っ先は私の顎をまっすぐ指していた。

「怖い? 怖いよね。怖いに決まってるよね、アンリちゃん!」

何も声が出なかった。頼み込んで触らせてもらったバイオリンの弦を切ってしまったときのような、どうしようもなくやらかしてしまった、という嫌な感覚が腹の底から背筋へ広がっていた。彼女の笑みが恐ろしかった。

「怖いのが大事なんだよ。怖いのを、受け入れて」

言うやいなや、彼女が腕を振り上げて、おそらく包丁も振り上げたのだろうけれど、その一瞬後には頭の頂点から少し左に外れたところから激痛が走った。大きな怪我などしたことが無いので、脈動に合わせてぐわんぐわんと鳴る痛みに耐えかねて、本能的に左手で痛む所を抑えようとした。何かで濡れて滑った。左手の掌を見ると真っ赤に染まっていた。

「どう?」

どうも何も無い。こんなに痛いのに、何かあるものか。そう言い返す元気は無かったし、彼女もその時間を用意してはくれなかった。

「次、お腹を刺すよ」

その言葉に驚いて、痛みで地面に突き刺さっていた視線を彼女の顔まで上げた。ぎゅんと痛みが増して、涙でよく見えなくなった。

「待っ……」

「待たない」


恐ろしく痛かったことしか覚えていない。気がつくと視界がなんだか青っぽく、壁にもたれかかって血まみれで座っている私が見えた。周りを見回そうとするとよくわからない角度で天井に視界が向いてしまい、なんとか水平に戻してみると、視界にずいぶんとばつの悪そうな顔をした彼女がいて、こちらを見ていた。

「あの……えっ」

声をかけてみようとしたら、私の発言が私のものではない声で聞こえた。彼女の声の一つのはずだった。でも彼女は目の前にいて、彼女の口は動いていない。ええと? あ、そうか、私が青い光点に入っているんだった。

 突然彼女が腰を折って両手を頭の上でパンッと合わせる、ずいぶんコミカルな謝罪ポーズを取ったので、また彼女が話し出すまでの僅かな間あっけに取られていた。

「アンリちゃん、本っ当にごめん! ついカッとなっちゃって……」

「……ええと」

私が喋るものが彼女の声で出てくることが、こんな短い一言であってもなんともむず痒かった。

「その、悪気があったわけじゃ……ないわけではないんだけど、えっと、アンリちゃんが嫌いになったわけじゃなくて、その、怒ったのは本当なんだけど、えっと」

「落ち着いて」

「あっ、アンリちゃんの声に調整するの忘れてた。えっとね、それで」

赤紫色に頬を上気させたまま、そこで彼女は一回深呼吸した。それから、

「ごめん、なさい。……えっと、えと、何でお詫びしたら」

と、借りてきた猫という形容がぴったり合うぐらいに縮んでしまっていた。

「そうね……」

手を顎に当てる素振りをやろうとして、手も顎も無いことに気がついた。それがばかばかしくて、彼女に対して怒る気は完全に失せてしまった。ものすごく痛かったという記憶こそ鮮明にあるけれど、喉元過ぎればなんとやらというものだった。

「なら、とりあえず私の体を直してもらって」

「ええもちろん、もちろんやらせて頂きますとも」

「あとは……そうね、このアバターをしばらく貸してもらおうかしら。1年ぐらい」

「……それから?」

「以上よ」

「えっ、それじゃあ足りないよ! アンリちゃんのオーガニックアバターを殺しちゃったんだよ!?」

「……元々、私が嘘をついて殺してあげるなんて言ったのが悪いのだから、私としてはこれでも足元を見ているつもりなのだけど」

「えっ、えっと……そうだ、とりあえずお茶……は飲めないよね、何か……」

「何もいらないわよ」

わたわたと動く彼女の両腕を見るのは楽しかった。


「……そうだ。私が塚本さんを殺すっていう約束は……ひとまず延期、お願いできるかしら」

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ノン・デ・ファクト・スーサイド 山船 @ikabomb

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