被る
思わず振り返った。
こういった類の店では夜半過ぎに訪れるお客も少なくはないのは重々承知しているけれど、なんといってもいつ来ても割に暇そうなうえに、飲み屋街にあるでもなく住宅街の一角という立地のこの店だ。しかも今日は雨、先程から窓の外を歩く人影もまばらだった。
そんな訳で、こういう場ではあまり他の人をじろじろと無遠慮に眺めるのも失礼とは知りながら、扉を開いた夜更けの住人の佇まいを巧まずして伺ってしまった。
見知らぬ顔だった。この店に通ってもう随分経つから、たまに顔を合わせる人ぐらいはいるし、所謂常連さんの類もそれなりには把握しているつもりだったんだけど。歳の頃は私と同じくらいか、少し上だろうか。女性の私からみると少し羨ましいぐらいくっきりとした眉に、はっきりとした彫りの深い目鼻立ち。
「いらっしゃいませ。」
マスターが私からは数席離れた席を手で示す。
「こんばんは。」
聞く者を落ち着かせるような、深い声だった。少し澄ました顔で(これはテリトリー内で見知らぬ顔に出会った私の防衛本能が勝手に悪い方向に評価を下しているだけかもしれないけど)、店に入ってきた男性があてがわれた席に腰を下ろす。
「よかったらこれ、どうぞ。」
マスターがフェイスタオルを差し出す。よく見てみると、なるほど彼は少し雨に濡れているようだった。
「すみません。傘、持ってはいたんですけど。そこで風にやられちゃって。」
ふにゃりと崩れるように笑顔を溢す。先ほどの澄まし顔とのギャップに私の心は少しだけざわめく。なんて単純な、と自嘲する。あれは単純に緊張の表情で、こちらが本来の顔なのだろうか。
「ありゃま。それは災難でしたね。」
「いえ。すみません、ありがとうございました。」
「はいどうも。で、今夜はどうしましょうか。」
「何かアイラをハイボールでいただけますか。」
「かしこまりました。」
文字通りとでもいうべきか、かしこまっているマスターというのが本当に物珍しいので思わずひっそりと口角が上がってしまった。しかし、とすると、どうも私の思い過ごしではなく本当に一見さんのようだ。
「この辺にお住まいなんですか。」
「はい、や、というか最近この辺りに引っ越してきまして。まだ周りに何があるのかもよく知らないもので、少し散歩がてら探検に。」
二人の会話を邪魔しないように、というのは自分への言い訳で、本音はこの男性のパーソナルな情報を私も手に入れるのに耳をそば立てたくて、用もないスマホを触っているふりを始める。ああ、なんて浅ましい私。こんなことなら読みかけの本ぐらい持ち歩く習慣をつければよかったなぁ。
「へぇ。しかしまあ、ちょっとお散歩には不向きなお天気だったんじゃないかなぁ。」
「そうなんですけどね。好きなんですよ、雨。」
「IT時代の若人にしては珍しい、詩的なタイプって訳ですね。」
初対面の人を揶揄うのはいかがなものだろうか。
「いや、いや。この季節、雨だと花粉が飛ばないでしょ?」
「はっは。なるほど確かに。困り物ですもんねぇあれ、花粉症持ちの人には。」
「や、ほんとにそうなんですよ。晴れた昼間なんかもう何も手につかないぐらいで…。」
「では雨と花粉症に乾杯ですね。おかげさまでこんな辺鄙な店を見つけていただけた訳ですし。」
「いただきます。僕は好きですよ。隠れ家って感じで。」
「最近の若い人は褒め上手だなあ。俺若い頃ヨイショが下手くそすぎて組織に属せなかったよ。」
「だからこんなお仕事を?」
「前言撤回!」
なかなか話せる人のようで、マスターの軽口にも飲まれずしっかりちくりと反撃をしている。
「美味しい。ありがとうございます。」
「10万円ね。」
「良心的じゃないですか。」
そっとブルーライトの画面から目を上げて盗み見た彼の薄く笑う口元が綺麗で、少しドキドキしてしまう。本当に今日はどうしちゃったんだ?私。
「これ、ジョー・ルイスですか?」
「博識でいらっしゃいますね。お好きなんですか。」
「すごく明るい訳ではないんですけど。一曲すごく好きなのがあって。たまたま好きな映画の主題歌がこの人だったんです。」
「へぇ。どの映画だろ。」
「うわ、ど忘れしちゃった。喉元まで名前出かかってる感じするのにな…。」
彼がいかにも困った、という顔で天を仰ぎ後頭部を掻く。
「所謂ラブコメチックな恋愛映画なんですけどね、うだつの上がらない新聞記者の男の子が、突然出会った女の子に振り回されながら言われるままに彼女の行くあてない旅に付き合わされて、無理矢理書かされた紀行がすっごい売れちゃったせいで、その権利がどっちのものかで争うやつ。」
わ。
「それ!ヤナコルンですよね、その映画!」
うわあ。やってしまったと気付いた時には遅かった。
柔らかな土を踏む 龍涎涼 @Suzual
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