桜花と明日の計画と

 少し年季が入り悲鳴を上げるが如く軋むようになってしまっている扉を押し開くと、果たしてそこには客の姿は見当たらなかった。この店はいつもそうだ。私以外にゲストのいる時の方が珍しいくらい、いつ来ても閑散としている。マスターがアルバイトの1人も雇わず独りきりで回しているにしては少し余分に広さのある店内は、その分かえってがらんとして見えるのだった。

 あまりに閑古鳥が鳴いているものだから通い始めた頃はてっきりマスターが趣味と道楽でやっている店だと思っていたが、どうもこの店で生計を立てているらしい。何食って生きてんだ。

「よっ」

「お疲れ様でーす」

 訪れる度のお決まりで、マスターの今年50になるとは思えない軽妙な挨拶に、私も客というよりは同僚ぐらいの妙な距離感の応答を返す。ちょび髭に少し縁の太い眼鏡と、一見少し渋めの所謂イケオジなビジュアルとはなかなか不釣り合いに、良い意味で軽い雰囲気を醸し出すマスターの独特のキャラクターが私は好きだった。


「ほい」

 席に着くなりマスターが差し出してくれるおしぼりは、そこらのコンビニでもらうようなパッケージングされた薄い紙製の物だ。このものぐさめ。別に私だって殊更バーに通暁しているわけじゃないけど、なんかこう、こういうお店で出てくるそれって、良い匂いのするあったかい布製の物だったりするんじゃないだろうかといつも思う。

「何いく?」

「んー、何か春っぽいのを」

「気が早いなぁ」

「ですかね、おじさんと違って時間の流れが早いからかもです」

「おっ、今君のテーブルに飲み物が出るか否かは俺の胸先三寸なんだけど」

「生意気言ってすみませんでした」

 光よりも速く態度を翻す私。世の中に親ほど歳が離れながらこんな軽口を許してくれる大人がどれほどいるだろうか。緩く流れるこんな空気が楽しみで、私はこの店に時々顔を出す。

「じゃ昨日お客さんがお土産でくれたこれでいっか、桜花の入ったお酒」

「わ、かわいい」

 小首を傾げたような斜め向きで立つよう形作られた瓶には薄桃色の液体が満ちていて、その中には大ぶりの桜の花びらが文字通り花開くように可憐に羽を広げていた。

「あれ、でもまだこんなの咲く季節じゃないですよね」

「土産物だよ?どうせこんなの年中切れることないように製造も出荷もうまいこと調節してるんじゃないの」

「うわぁ、情緒ないなぁ…」

「どう飲む?多分割っちゃうとだいぶ味薄くなると思うけど」

「じゃあ、ロックかストレート?」

「かなぁ。ちょっと味見してみる?」

「じゃあお言葉に甘えて」

 テイスティンググラスに入ったピンク色のそれは、情緒の件は差し置いても確かに春の訪れを告げてくれているようで、どこかくすぐったい喜びで胸の内をほわりと満たしてくれそうな気配がした。早速口に含んでみると、リキュール自体にはしっかりと感じられるほどの甘味はないものの、そのおかげでかえって鼻腔に抜けるような優しげな甘い香りが立ち上り、幸せな心地をもたらしてくれた。

「ん、美味しい。でも冷たい方がもっとジュースみたいで好みかも。」

「子供口だなぁ」

 そんなことを言いながらも、少し女性の手には余り気味なゴツゴツとしたロックグラスに入れたこれまた大柄で無骨な氷の上にお酒を注いで出してくれた。

「ああ、やっぱり。こっちの方がもっと美味しいです。」

「それならよかった。で、今日はどしたの。」

「どうって?」

「珍しいじゃない。しずくちゃんが平日真っ只中に飲みに来るなんて。」

「あ〜…。」

 かくかくしかじか。私は今日一日己が身に降りかかった理不尽と、極め付けにトドメの一撃になってくれたパンチの効いた不幸についてつらつらと垂れ流しながら、甘い癒しを少しずつ体にゆっくりと染み渡らせていくように飲み下していく。

「なるほどねえ。まあそんな日もあるわな。ませっかくだし明日は休みもらってたまには気を休めてみるのも良いんじゃないの。」

「え〜。他人事だからってそんな無責任な。」

「いやいやホント。良いもんだよ、平日に働く皆々様を眺めながらのんびり過ごすの。週末の休日より優越感でより休んだ感がある。」

「性格わるっ!」

 しかしながらよくよく考えてみると、明日は休みをもらうという判断は合理的かもしれない(マスターのような性悪に身を堕とすかはさておき)。今日家に入れていない以上、明日も出社するとなれば同じ服で出なければならないことは必至だし、そんなことでありもしない要らぬ想像や評判を社内に掻き立ててしまうのは避けられるならば避けたい。それにそもそも、どうにか早急に鍵の件を解決しなくては仮に出社したとて明日の夜も私は家に入れないではないか。

「はぁ…。そうですね、朝から電話入れよ…。」

「いいねいいね、これでまた社会不適合者に一歩近付けたよ。」

「やめてください…。」


 そんなことを言い合いながら戯れあっていると、背後でドアの軋む音がした。

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