柔らかな土を踏む

龍涎涼

催花雨

雨だった。

生まれ持ってのひねくれた性格で澄み渡るような青く晴れ渡った空はどうにも好きになれず、そうは言いながら人並みに雨天を厭うてもしまう私は、雨降りの日のお約束で少し憂鬱に傾きそうな気持ちをボタニカル柄の傘の下に雨宿りさせながら、古さからか利便性に比すると随分と安い家賃のアパートの階段をカンカンと下りていた。


2月のカレンダーをめくってから幾らか日も経ち、雨でもそれほど肌寒さを感じるわけではなかったが、この鬱屈した心持ちがすれ違う人たちに透けぬよう、上着の前を合わせ、小ぶりのボタンをきちんととめた。

毎年、新しい年度を迎える前のこの微妙に浮ついた時間がどうにも苦手だ。去りゆく人に正解の距離感の挨拶をするのは至難の業だ、こちらが当たり障りのない別れの言葉をかけたつもりでも、どうも相手は私の思うそれより近しい関係性だと、出会いのきっかけになったつながりが切れようともこれからも“個人的”に付き合いは続いていく程度の関係だと思っていたりもするし、その反対だってある。逆もまた然り。間も無く新たに私の人生に介入してくる人にも、その介入がいつ終わると知れぬと思ってしまうと、どの程度の親しみを持つ準備をしてその人を迎え入れていいものやら。

社会を相手に孤軍奮闘、日々自分をすり減らしながら静かな嵐の毎日を送るいい年をした大人にとっては悩むにも値しないくだらないことだが、それだけにそんなくだらないことが頭の片隅で万年床を敷いているようなこの季節は、少し袖丈の余るブレザーに身を包むようになった頃から、1年の中で最も苦手な時期だった。


駅、会社、夜の帳が下りた駅、少しスーパーマーケットに寄り道(今日は牛乳が少しお得だった)、安アパートの階段。部屋の扉の前で畳んだ傘を少し大袈裟に振りそこではたと気付いた。


鍵がない。


哀れなり、どうしたことか、マンマミーア。あ、一句詠めた。

神様これは一体何故の仕打ちなのでしょうか。今日も1日耐え難きを耐え忍び難きを忍び、上司の嫌味にもめげず後輩の失敗にも女神もかくやという慈愛で包み込み、社会人としての責務を全うした私のどこに落ち度がございましたでしょうか。

私だって聖人君子じゃない、これまでの人生そりゃ人には言えないことの一つや二つもしてきたけど(もしかしたらもう少しあるかもしれないけど)、にしたってこれはないだろう。

肌寒くないって言ったってそれはあくまで日のある時間に職場まで向かう程度の外出時間なら、という話のそんな季節。雨まで降っているし。仕事も辛かった。今日は自分の考えた案は全て、河豚に似た顔をした上司に却下された。あと牛乳が重い。

なんでよりによって今日、という思いの源泉は探れば探るほど深いようで、こんこんと顔も知らない神様への恨み言が湧き続けてくる。

そうは言っても、ないものはない。古いとはいえ大家さんが同じ建物に住んでいるほどには古くないのも不幸と言える。この時間、管理会社に電話なんかかけたって誰も出てくれないだろう。

いいや。幸い明日は週末だ。これも何かの機会だと思って今夜はどこか外で羽を伸ばす夜にしてみたっていいだろう。決めてしまったのなら善は急げだ。牛乳と缶のお酒、少しの野菜と明日のパンの入ったレジ袋をひっそりと主人の帰りを待つ部屋のドアノブに引っ掛け、私は踵を返し、今辿ってきたばかりの道を外の世界に向かって引き返すのだった。


そうは言いながら、カラオケオールナイトでワンマンリサイタルを開催して騒ぐようなタチでもなければ、悲しいかな、そんな有り余る体力にあふれた年代でもない。別にこんな風に退っ引きならない事情がなくたって、少し背伸びして、渋い大人の真似事をしたい夜の過ごし方は決まっていた。


バー「常夜燈」。今時の感性で一言差し出がましいことを言わせてもらうと、豆球みたいとか黄色球みたいとか、好き勝手こき下ろせるのだが、響きにはなんともノスタルジックでお洒落なものがあるし、マスター曰く元来常夜燈とはかつての街道や村の中心なんかに設置された、それそのものが極めてシンボリックなランドマークだったようだ。今では数メートルおきに設置された街灯が道々を照らし、都会や駅前であれば闇の忍びこむ余地を探す方がかえって大変だ。が、まだ常夜燈の中の小さな蝋燭に火を灯し周囲を僅かに明るく照らすのがやっとだった時代、その光はどれほど暖かなものだったろうか。今宵の身の置き場に窮し、独り夜の街に彷徨い出てきた私も、それにあやかってこの名前に光明を見出させてもらおうではないか。

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