秘密の残り火

彩川いちか

秘密の残り火

 スレンダーな彼女にぴったりのウエディングドレス姿はとても綺麗だった。披露宴会場の照明に照らされて、彼女の薬指にはまっているダイヤモンドのようなキラキラとした輝きを放ち、彼女自身のはにかんだような笑顔がまばゆいほどの煌めきに拍車をかけていた。

 高砂に近い席からそれを眺めて私はゆっくりと配膳された料理に手を付ける。隣に座る同期のひとりが高砂に上がった同期の面々で撮った写真をメッセージアプリで送ってくれたのか、テーブルに置いたスマートフォンが鈍く震えた。隣の席の彼女に向かって「ありがと~」と笑顔を送り、手に取ったカトラリーを置いてディスプレイが明るくなったスマートフォンに手を伸ばす。

 視界に映るテーブルの中央部分は色鮮やかな花に彩られ、華やかな世界を演出していた。この場の主役である新郎新婦の人生で、最も美しいひと時。一生に一度の瞬間。感動の渦に包まれ、幸福が多くの人に伝染していく時間。

 その時間のなかに、私はいた。なんということもない日常の延長線上にある時間のなかに――私は、いた。

 別に感動しないわけじゃない。この場に集まった誰もが高砂の彼らの門出を祝っていたし、それは私も同じだ。入社式からともに社会の荒波に揉まれてきた同期戦友のふたりだからというのもあるだろうけれど、彼らには幸せになってほしいと思っている。

 ただ、今現在、私自身が冴えない心持ちであることは確かだった。結婚しないという選択肢が認められてきたとはいえ、現代には「古き良き伝統的な家族観」が確固たるものとして根付いていて、不用意に結婚願望がない本音を口にしてしまえば非国民のように糾弾されることもある。人間失格とまで言われてしまうこともあるのだから驚きだ。誰しもが「女性は結婚して子どもを持つことが幸せ」と思っていて、――私はそれがくそくらえと思っている。

(あ~。つかれた)

 披露宴もつつがなくお披楽喜を迎えた。人気ひとけのない喫煙室の扉を開き、肩から下げた黒の小さなクラッチバッグに手を伸ばす。サテンプリーツの生地にラインストーンが四角く敷き詰められた上品なデザイン。マグネット式の開口部をパチリと開き、煙草を取り出して口に咥える。

(だる……)

 喫煙室内には私だけ。二次会にも招待されているけど、なぜか参加する気にはなれなかった。ライターの横車を擦り、ぐっと紫煙を吸い込んで吐き出す。

 歩きたい時に歩いて、行きたい場所に行って、寝たい時に寝て。私はそんな生活をしたいだけ。目的もなく、なにかを成し遂げたいという希望もない。

 私は満たされていないだけなのかもしれないし、そうでもないかもしれない。かといって目指したい未来のカタチもなくて、を淡々と生きられればそれでいいんじゃないかと思う。

 祝いの席での酒の酔いがまわったうえで煙草を吸ってニコチンを摂っているからか、急激に思考が鈍化していく。

(あー……セックスしたい)

 不思議だ。結婚願望もなく、子どもが欲しいわけでもない。でも性欲だけはむくむくと湧き上がってくる。生殖行為であるはずのセックスに対する渇いた飢えのような衝動が襲い来る。

 漠然とした寂しさと途方もない不安感が胸の奥に渦巻いていた。心が透明な膜で覆われてしまったような感覚。だから今は、その膜を壊すための刺激が欲しい。

 明日のこともこれから始まる二次会のことも全部全部どうでもいい。寝たい。セックスしたい。

 獰猛な獣に蹂躙されるような激しいセックスがしたい。粗暴にベッドの上に投げられて、乱暴に扱われて首絞められて意識飛ばすくらいの倒錯的なセックスでいい。汗と涎と涙にまみれるくらいの泥臭いやつ。未来のことも今日のこともなにも考えなくていい、ただただ圧倒的な快楽に翻弄されるだけの。

「――」

 ふと、自分の名前が呼ばれた気がして我に返る。その瞬間、背の高い男がどさりと乱暴に私の隣に腰掛けた。

「おい、ライター貸せ。くそが、ジッポどっか落とした」

 顔を顰めた彼の口元にはすでに煙草が咥えられている。整えられた眉に綺麗な顔の輪郭。すっと通った鼻筋にオニキスのように美しく黒い瞳。を地で行く同期のひとりに私は無言で右手に握りしめていたライターを差し出した。ライターを受け取った彼は無言で咥えた煙草に火を灯す。

 彼が吸う煙草はブラックストーンのチェリー。指先から立ち上る紫煙はチェリーの香りが強烈な煙草で、私はその香りが苦手だ。強すぎる甘い香りに顔を歪める。

 私のその表情にニヤリと笑んだ彼は腕を伸ばし、私の肩をぐっと引き寄せた。彼が吐き出した紫煙を嫌がらせのように私の顔にかける。踏み躙られた直後の花の香りのような強い匂いにクラクラと目眩が起こった。

 なんなのだ。コイツは何がしたい。オフィス内でもこうして喫煙室で鉢合わせて馬鹿話をすることはよくあるけれど、それにしても嫌がらせの度を超えている気がする。眉根を寄せて抗議しようと口を開こうとした瞬間、彼が何かを企んでいるようにニヤついた笑いを深くした。

「さっきからおめぇのその顔が見たかったんだよなぁ」

「はぁ? 馬ッ鹿じゃないの」

 揶揄うように笑う男にわずかな苛立ちを込めて片脚を動かし、ヒール部分で彼の足の甲を踏む。痛みで精悍な顔を歪めるかと思いきや、革靴に守られている彼にはちっともダメージがないらしい。イラつきのままにチッと大きく舌打ちをして肘で彼の身体を押した。

「っあ〜。やっぱ食後の一服が一番うめぇわ。おめぇもそー思うだろ?」

 私がぐいっと強く押しのけても彼はなんということはないという雰囲気でカラカラと満足げに笑う。その笑顔にもなぜだか苛立ちが募って、とにかく投げかけられた質問を否定してやりたくなった。

「私は食後の一服よりセックスのあとの一服のほうが美味しいと思ってる」

 なにかをしたあとの煙草は美味しい。仕事が一段落ついたあとの煙草も美味しい。朝起きたあとの一服も美味しいけれど、セックスのあとはそれが顕著だと思う。達成感とも違うけれど、イッたあとの多幸感と満足感、脳天からつま先までもが痺れるくらいの独特の感覚の余韻をじっくり感じたい。

「おまッ、男か。今どき賢者タイムで煙草吸う男なんざ少数派だろ」

「悪かったわね。どうせ結婚願望も親になりたい願望もない男脳ですよーだ」

 驚いたような彼の表情にいーっと歯を見せてむくれてみせる。そしてまた足を組んで煙草に口付けた。

 こいつとは本当に好みが合わない。こいつは女が好むようなカシスオレンジかカルアミルクが好き。甘いものが好きだから煙草もチェリー系しか吸わない。現在進行形で吸っているブラックストーンのチェリー、もしくはキャプテンブラックのチェリー。対する私はジントニックかモヒートが好きだし、煙草も吸いごたえのあるアメリカンスピリットが好き。嗜好品の傾向がとことん違うのだ。「私とアンタ、ことごとく好みが合わないわね」というセリフを投げつけてやろうかと紫煙を吐き出した、刹那。

「んじゃ、試してみっか。どっちがうめぇか」

「……は?」

 わけのわからない言葉に、自分の口から素っ頓狂な声が落ちた。そんな私を置き去りに、彼は自然な動作で私の肩に手を回す。なんの違和感もないその仕草のまま――

「…………な。いいだろ?」

 挑発的に誘う眼差しを持った男は私の耳元で低く、甘く囁いた。ぞくりと背筋が痺れる。そしてその瞬間、あぁ、そうか、と気が付いた。

 こうやって――一夜のセックスに、誘ったり誘われたりする。こうした、のだろう。

 わずかな興奮が交じる瞳に射抜かれ、私は答えを返すように乱暴に彼の唇を奪った。特になんの抵抗もなく口付けを受け入れた彼は手に持った煙草を灰皿に押し付ける。

「それ、好きよ」

「あん?」

 唇を離したあと、顎で彼の手を示して緩やかに微笑んでみせた。キョトンとした男の表情を見つめ、私もゆっくりと煙草の火を消した。

「待ちきれないって言ってるみたいでエモいって言ってんの」

 彼は私よりもあとにここにきて煙草を吸っていて、だから必然的に煙草は長いまま。それなのに私よりも早く煙草の火を消した。煙草を吸い切る時間すら惜しいと言われているようで。なんだろう、こう……舌なめずりでもされているようで、なんとも気分がいい。

「……こーゆー時の好みは合ってんだな」

 私と同じことを考えていたらしい彼は口の端にニヤリと笑みを浮かべ、私の腰に手を回した。目の前の男は――もうすでに、獣のような瞳をしていた。

「みんなには秘密、ね」

 別に内緒にするようなことでもない。今日の新郎新婦は同期同士だったし、きっと知らないだけでカップルになっていたりもうすでに別れていたりする同期メンバーもいるはずだ。けれど、基本的にウマが合わないようにみえている私たちがこんな関係になるなんて自分自身でも信じられなくて、それを隠すように余裕ぶって嫣然と微笑んでみせた。

 ふたたび顔が近づく。自由になった両腕を彼の首筋にくるりと回す。互いの唇が触れる瞬間、彼のしなやかな手が私の顎をがっしりと捕らえ――到底信じられない言葉を囁いた。



「ったりめーだろ。さっき言ったろ、おめぇのその顔が見たかったんだ、ってな」

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