◆9

 夜明けと共に、僕は早々に倉田の家を出た。まだ眠っている倉田に挨拶もせず、その場を逃げ出す。携帯は電源を切った。

 朝焼けの村は、少し肌寒くて、空が白っぽかった。重たい荷物を抱えて歩く僕は、まだ、頭が呆けていた。

 騙された。完全に騙されていた。倉田があんな女だったなんて、思いもしなかった。傍にいたことも、肌が触れたことも、今となっては恐怖でしかない。体温を思い出しただけで胃が気持ち悪くなる。

 とにかく逃げ出そうという一心で倉田の家を出てきたが、冷静になると、だんだん不安になってきた。倉田は僕と結ばれた気でいる。それなのに僕が彼女の元を去ったら、きっと怒る。意地でも捜し出され、捕まったら、なにをされるか分からない。とはいえもう、彼女の家に戻るのも怖い。護身用だと言って刃物を持ち歩くような人だ、あれでは僕も刺されかねない。僕はただ、無心であの巨大な屋敷を離れた。

 これからどうしようか。今はもう、呪い云々は捨て置いてでも、自分の身を守るためにこの村を出た方がいい。だが大学は倉田も同じだし、仮に大学を辞めたとしても、私生活をあれだけ把握されているのだ、どこまで逃げても捜し出されるのは時間の問題だ。

 僕は一生、倉田から逃れられないのか。絶望で吐きそうな中、宛てもなく村の道を歩いていく。

 ふいに、数メートル先から森本の声が聞こえた。

「日和くん?」

 両手にゴミ袋を持った森本が、僕を見ている。朝早いせいか、部屋着姿だった。彼女はゴミ置き場にゴミ袋を置き、目をぱちぱちさせた。

「珍しいわね、朝早くからこんなとこ歩いてるなんて。倉田さんは一緒じゃないの?」

「逃げてきた」

「あら。ちょっと見ないうちになにがあったのよ」

 森本の落ち着いた声が、やけに安心を誘う。僕は昨夜の恐怖を自分の中に留めておけず、森本に訥々と吐き出した。

「ずっと、監視されてた。あいつ、僕が住んでる場所を特定して、GPSつけて、ずっと」

 森本はため息とも感嘆とも取れる、はあ、と気の抜けた返事をしてきた。

「あの子、昔からあなたのこと追いかけてたけど、いつの間にか正真正銘のストーカーになってたのね」

 大して驚きもしない森本に、僕の方が驚いた。僕と違って察しの良い森本は、倉田の気持ちに気づいていたみたいだ。なにも知らなかった愚かな自分が、余計に嫌になる。森本はやけに冷めた態度で言った。

「でもいいじゃない、ストーカーくらい。呪いに比べればかわいいもんでしょ。形は悪いけど愛ゆえなんだし」

 森本が思いがけない主張をはじめた。ぽかんとしていると、彼女はそもそもね、と言って続けた。

「そうなっちゃったのだって、あんたが鈍感すぎてあの子の気持ちを踏みにじってきたせいじゃない。日和くんにも責任はあるのよ」

 そう言われると、なにも言い返せなかった。俯く僕に、森本は首を傾げた。

「で、あの子から逃亡してきて、これからどうするの?」

「ええと……」

 それを今、悩んでいたところだ。

「森本さえ良かったらなんだけど、一時的に匿ってくれないか?」

「え? うちに?」

 森本が露骨に面倒くさそうな顔をする。僕はちらと、来た道を振り返った。

「そのうち倉田が起き出して僕を捜しに来ると思う。逃げたのを怒ってるはずだ。だからせめて、倉田が落ち着くまでは、どこかで身を潜めていたくて……」

「は? 私が倉田さんからあなたを奪ったみたいになるじゃない。私を巻き込まないでよ」

 冷たく突き放され、僕は下を向いた。考えてみたら、森本は僕が谷口を殺したのではないかと疑って警戒していたくらいだ。助けてくれるはずもない。

 そう思った矢先、森本のポケットから携帯のバイブ音が聞こえた。森本は携帯の画面を見るなり、あ、と呟き、着信に応答した。

「はいもしもし、どうしたの、倉田さん?」

 森本が口にした名前に、どきっとする。電話はスピーカー設定にしたようで、相手の声は僕にまで届いた。

「どうしよう、日和くんがいないの! そっちに行ってない?」

 やっぱりだ。僕を捜している。僕は強ばる体に汗を滲ませ、周りをきょろきょろと窺い見た。そんな僕を、森本が冷めた目で見ている。

「来てないわ。相川くんの家に戻ってるんじゃない?」

「ううん、そっちも電話した。でも行ってないみたいで……」

 本気で心配そうな倉田の声が、怖くて仕方がない。ただ立っているだけで不安になって、僕は電柱に身を寄せて縮こまった。無論、こんな程度で隠れられるとは思っていないが。森本は電話の向こうの倉田を宥めた。

「ひとりになりたくて、東京に帰っちゃったんじゃない? このところショックな出来事が多かったから、仕方ないわ」

「そうなのかな……でも私になにも言わずに?」

「一昨日だってそうだったじゃない。日和くん、そういうとこあるわよ」

「そっか。この時間ならまだ朝のバスは出てないし、今ならバス停にいるかも。ありがとう、見てくる」

 倉田がそう締めくくると、通話は切れた。携帯を下ろし、森本は電柱の影の僕に言った。

「感謝しなさい。ほんのちょっとだけだけど、時間稼ぎしてやったわよ」

「ありがとう」

「倉田さん、かなり切羽詰った様子だったわね。たしかにこれ、捕まったら次こそ刺されるわ」

 森本が怖いことを言う。頭が痛くなった僕を哀れみの目で見て、森本は言った。

「私は巻き込まれたくないし、家族もいるから、うちには上げてやれないけれど。それなりに身を潜められる隠れ家ならある」

 彼女は眼鏡の奥の瞳を、開けた道の先に向けた。

「小学校の校舎よ。あそこなら隠れられる場所も多いでしょ。それに、万が一見つかってしまっても『思い出に浸っていた』とか言えば誤魔化しが利く」

 森本の発案で、背筋が伸びた。そうだ、学校があった。

「すごいな。流石、委員長。頭の回転が速い」

「委員長は関係ないでしょ。あなたが冷静さを失って、なにも考えられなくなってるだけよ」

 森本のおかげで、少しだけ希望が見えた。倉田が落ち着くまで学校でやり過ごそう。見つかってしまったら森本の言葉を借りて最悪の事態は回避するとして、そのまま見つからずに済んだら、バスの時間を狙って村を出よう。村さえ出れば、倉田家の支配の外だ。警察に相談して、助けを求めればいい。

 助かる道が見えてきたら、急激に力が抜けた。僕は電柱に寄りかかったまま、その場にへたっと座り込んでしまった。森本が呆れ顔で僕を見下ろす。

「大丈夫? 立てる?」

「はは、腰に力が入らない」

 苦笑いした僕の腕を、森本が引っ掴む。容赦なく引っ張り上げて僕を立たせると、彼女はこちらに背中を向けた。

「全く、見てられないわ。学校まで付き添ってあげる」

 なんだかんだ世話焼きな森本は、僕の腕を引いて、通学路だった道を歩き出した。

 早朝の田舎の空に、入道雲が浮かぶ。虫の声が微かに聞こえて、畑から緑と土の混ざった匂いがする。まだ朝の早い時間だからか、人とすれ違うことはなかった。幸い、倉田とも会わず、学校まで辿り着いたのだった。

 鍵の開いたままの校舎に入る。少しかび臭い校舎は、廊下の窓から差し込む朝の光で透き通って見えた。先を行く森本が、いちばん手前の教室の開け放たれた戸を潜る。僕も、彼女に続いた。黒板も、並んだ机も、昔のままだ。まるでこの場所だけ、小学校の頃から時間が止まっているみたいだ。

「この校舎も、近いうちに取り壊されるのよね」

 森本が机のひとつを撫でた。

「私たちが出会った場所であって、同じ時間を過ごした場所で……遠子ちゃんもいたこの学校が、なくなっちゃうのよね」

 どこか寂しげな声が、教室の静けさにすんと解ける。

 森本はさて、と切り替えた。

「じゃあ、私はこれで。私が協力したの、倉田さんには言わないでよ」

 立ち去ろうとする森本に、僕は思わず、声をかけた。

「待って」

「今度はなによ」

「この間のこと、まだ謝ってなかった」

 森本が僕に、谷口を殺したのかと疑いをかけたとき。森本が怪訝な顔をする。

「大した根拠もなくあなたを犯人扱いしたのは、私の方じゃない」

「そうだけど……」

 そうだけれど、生憎、実際に僕はあの殺人に関与していた。だから、嘘を吐いたのは僕の方だ。森本が、背後の机に手をついた。

「相川くん、必死にあなたを守ろうとしてたよね。倉田さんを悪者に仕立てて逃れようとしたのは意味不明だったけど、それだけ日和くんを庇いたかったのよね」

 森本の言葉で、僕の脳裏にまた、相川との日々が蘇った。あいつはバカ正直だから、僕を守りたくて谷口を殺し、僕を守るために自分を偽って、その結果、壊れてしまった。

 不安定になった相川は、もう昔のままの相川ではないように見えた。でも、ヒマワリのヘアピンを僕に返そうと考える、その素直な思考はまさに僕のよく知る相川のそれ、そのものだ。

「相川、なんで死のうと思ったんだろう」

 僕は床に視線を落とし、徐ろに呟いた。

「遠子の呪いで自分を制御できなくなって、衝動的に死んだんじゃないかって、倉田は言ってた。そうかもしれない。でもそれって、ヘアピンを僕に返そうって気持ちが、呪いに負けたってことだよな」

「そうね……でもそれは相川くんの日和くんへの友情が弱いってわけじゃないと思う。それを上回るくらい呪いが強かったの」

 森本が下を向く。

「ヒマワリのヘアピン、大事に握ってたそうね。相川くんは、最後の最後まで呪いに抗ったんじゃないかしら」

 窓から差し込む柔らかな光で、森本の眼鏡が白っぽく光って見える。

「呪いで心を押し潰されても、このヘアピンだけは日和くんに返さないとって、残った理性の全部で思っていたのよ」

「うん……うん。なんだ、そうだったのか」

 そのとき、僕は確信した。

「相川殺したの、お前だな?」

「えっ……」

 森本が、小さく発した。きょとんとしている彼女に、僕は、淡々と告げた。

「相川の死体がヘアピンを握ってたのは、僕しか知らないはずなんだよ。発見した僕がその場で回収してるから。他に見た人がいたとしたら、それは相川が死んだのを見届けた人だけなんだ」

 死体を見つけた僕は、打ちのめされていて殆ど誰とも会話ができなかった。警察には最低限の受け答えはしたけれど、ぼうっとしていたから記憶は曖昧だが、ヘアピンについては話していないと思う。仮に話していたとしても、それが森本に伝わるように洩れるとは到底思えない。

 森本の顔色が変わる。

「ち……違う、呪いだもん、遠子ちゃんの呪いだもん」

「じゃあなんで森本が、相川がヒマワリのヘアピン握ってたのを知ってるんだよ」

「そ、それは。だって、だって」

 いつもは淀みなくはっきり喋る森本が、目を白黒させて言い訳を探っている。

 もう、疑いようがなかった。相川が呪いで壊れて自殺したのではない。森本に崖から突き落とされたのだ。

 立ち尽くす僕の目の前で、森本は、無言で目を泳がせていた。長い沈黙のあと、森本が唇を開く。

「だって相川くんが、倉田さんが呪いの正体だなんて、言っちゃいけないこと言ったから」

 森本は叱られた子供みたいに、拗ねた口調で話した。

「はじめは、おばあちゃんの睡眠薬を飲ませて死なせるつもりだった。でもお茶に混ぜて飲ませられる量はそう多くなくて、せいぜいうとうとさせる程度だった。だから作戦を変更して、『家まで送ってあげる』って車に乗せて、山へ運んだ」

 結構大変だった、と、森本は語った。

 相川に薬を飲ませ、山へ連れて行く。判断力と注意力が落ちた彼の手を引き、あの獣道を誘導し、崖から突き飛ばした――。

 相川は、どんな気持ちだっただろう。どこの時点で、殺されると気づいたのだろう。感覚が鈍って森本に抵抗できなくなっても、なにも考えていなかったわけではないはずだ。だって、ヒマワリのヘアピンを握り締めていたのだ。もう帰れないと悟った彼が真っ先に気にかけたのは、あのヘアピンだったのだ。

「相川くんだけじゃない。宮崎さんと笹山さんは、遠子ちゃんのお母さんに会いに行こうとした。余計なことをする前にと思って、宮崎さんの家に火をつけたの」

 その告白に、僕は息を呑んだ。宮崎の家の火事も、森本がやったのか。

 宮崎が殺されて、行動を共にしていた笹山は当然、次は自分だと思ったはずだ。いつ殺されるか分からない恐怖に苛まれ、笹山は心を蝕まれた。

「谷口くんは、その事実に気づいた。だから彼がこの村の人々にとって不都合な存在になる前に、村から追い出してあげたの」

 谷口が村八分にされたのも、森本が仕込んだのか。

 宮崎の自宅の火事、笹山の心の病、谷口の逃避。全部、呪いでもなんでもなかったのだ。

「なんで、そんなことしたんだ」

 僕にはそこまでする理由が分からない。森本は、あっさりと言ってのけた。

「決まってるでしょ。倉田さんは神様だからよ」

 森本の真剣な目が僕を射抜く。

「私が家族とこの村で安心して暮らせるのは、倉田さんの家のおかげ。私たち村人は、倉田家に感謝して過ごさなくてはならないの。それができないなら、この村に住む資格はないわ」

 以前、相川から聞いた。倉田家はこの村の地主で、村の人々は倉田家に頭が上がらない、と。

「勘違いしないでね。これは私が、倉田家に忠誠を示すために自分でやってきたこと。倉田さんから指示されたとかじゃないから。なのに相川くんったら、倉田さんがやったみたいに誤解してて……これだからあの人は、考えが浅くて困るわ」

 特に森本の家族は、倉田家に救われた過去があるらしい。だから、これほどまでに倉田に心酔している。

「相川くんも、本来であれば私くらい倉田さんに忠実であるべきだったのよ。自宅の敷地も畑も、倉田さんから貸し出してもらってる土地だもの。逆らうなんてもってのほか。倉田家に尽くさないなら全てを没収されるべき立場なのよ」

 だから相川も、殺したというのか。

 そういえば、次々に起こる不幸の連鎖を「呪い」と表現したのは、森本が最初だった。森本は自分のしてきたことを呪いのせいにして、隠し通してきた。死んでいるから弁明もできない、遠子のせいにして。

 そう思った瞬間、僕は衝動に駆られた。気がついたら僕は、森本の首を両手で掴み、埃っぽい床に突き倒していた。床に髪を広げ、森本が呻く。僕の手指は、森本の喉に深くめり込んでいる。

「お前、最低だ」

 こいつの訳の分からない正義のために、人が死んだ。相川も、犠牲になった。

「そんなに倉田に心酔してるなら、なぜ僕をここに匿った? こうやって味方するふりして誘導してきて、どうするつもりだったんだ?」

 森本は声にならない声で唸り、僕の腕を掴んで抵抗した。親指が倉田の喉にめり込む。かはっと、森本が苦しそうに喘いだ。

「やめて、離して……」

 汗ばんだ手から伝わる力が、みるみる抜けていくのが分かる。森本の涙目が僕を見つめている。苦しみで赤く染まっていく頬に、口の端から垂れた唾液が伝う。死んだら呪いが終わるのは、僕じゃない。元凶である、森本だ。

 森本の目がぐるっと白目を向く。あとひと息か、と、改めて肩に力を入れ直した、そのときだった。

「日和くん!」

 甲高い声が響いてきて、僕はハッと、手を緩めた。

 教室の戸の向こう、廊下に、長いスカートをひらめかせる倉田がいる。手首でブレスレットが、窓の光を反射する。彼女の姿が目に入った途端、背筋がぞくっとして、僕は森本の首筋を離した。森本が床で噎せる。倉田は僕に駆け寄ると、僕の頬をパンッと引っぱたいた。

「なにやってるの!」

 耳元で怒鳴られ、耳がキーンとした。僕は肩を竦め、倉田を見上げる。

「だって森本が、森本が相川を」

 そこまで言って、我に返った。森本はたしかに、僕の親友を奪った。だが僕だって、谷口を殺したようなものだ。人のことは言えない。

 床を這う森本の手を一瞥する。あの手が、相川を突き飛ばした。あいつが、あの手で。はらわたが煮えくり返るが、僕は大きく呼吸を繰り返して、自分に言い聞かせた。

「だめだ、殺しちゃだめだ」

「そうだね」

 倉田の冷たい指が、僕の左の頬を這った。

 そうだ、こんなところで感情的になってどうする。被害者を無駄に増やすだけだ。落ち着け、僕のすべきことは、これではない。

 森本が床で息を整える。

「やだ、いっそ殺してよ……いっそ……」

 涙声を搾り出し、森本は僕を見上げた。

「日和くんの言うとおりよ。私は相川くんを殺した。宮崎さんの家族も。笹山さんと谷口くんの居場所も奪った。全部、私がやったことなの。だからもう、こんな私、生きていたって仕方ない」

「相川も、そんなようなこと言ってた」

 僕は奥歯を噛み、髪を乱した森本を見据えた。

「お前のことは軽蔑するけど、それは僕がお前を殺す言い訳にはならない」

 憎いけれど、それだけではだめだ。森本は自首すべきだ。そして、僕も。

「だから、森本……」

「そうじゃなければ、私の罪を知ったあんたは邪魔なのよ!」

 叫んだ森本は、教室に並ぶ椅子を引っ掴み、こちらに向かって振り翳してきた。

「森本!?」

 椅子は大きく的を逸れて、傍にあった机に叩きつけられた。森本が僕に詰め寄ってくる。

「倉田さんも。私の人生はもうおしまいなんだから、もう倉田さんに媚びる必要もない! むしろあなたが死ぬべきよ。この呪い……村の人々を縛り付ける、『呪縛』は、倉田家なんだから!」

 振りかざされた椅子が、倉田の脚に直撃した。

「きゃあ!」

 倉田ががくっと膝を折る。僕を強く握っていた手を解き、彼女は床に崩れ落ちた。僕の膝の高さまで低くなった倉田の頭をめがけ、森本が椅子を振り上げた。

「これだけ殺していれば、加えてひとりもふたりも一緒よ」

「きゃっ……いや、日和くん!」

 倉田の悲鳴が響く。僕は倉田を手を取って、自分の方へ引き寄せた。森本の椅子が空ぶる。息を荒くする倉田を抱き寄せ、僕は近くの机を蹴飛ばした。森本の進路を阻んで、倉田を引き連れて走り出す。黒板の前を突っ切って、廊下へと逃げた。

「よし、このまま外まで……」

 しかし、手を引く倉田の重さに気づき、僕は立ち止まった。よたよたとついてきているが、倉田は青白い顔をして、脚を引きずっていた。

「脚、痛むのか。走れる?」

 そう問いかける僕に、倉田は汗の滲んだ顔で答える。

「足手まといになる。日和くんだけ、逃げて」

 ガシャンと、椅子と椅子がぶつかる音がした。森本が椅子を引いて、教室から出てくる。

「お願い、逃げて」

 倉田が涙声で言った。

「嫌な思いさせてごめんね。私、あなたが大好きで、一秒でも見逃したくなかったの。でもあなたが嫌がるなら、もうしない。なんでも言うこと聞くから……だから、私を置いて逃げて」

 倉田がこれまで僕にしてきた行為には、寒気がする。到底許せるものではない。でも森本も言っていたように、彼女の暴走は愛ゆえのものだ。そしてそんなふうに彼女を歪めてしまった一因は、僕にもある。

 僕はブレスレットの煌めく倉田の手首を、再び握り直した。

「僕が森本を引きつける。倉田は隠れていて」

「えっ……」

「逃げたってその脚じゃ追いつかれるだろ。どこでもいいから、隠れて待ってて」

 倉田にそう言って、僕は彼女の腕を離した。

 怪我を負った倉田では、本当に森本に殺されてしまうかもしれない。でも僕なら、森本を取り押さえるくらいの腕力はある。倉田は迷った顔で僕を見ていたが、やがて頷いて、よろめきながら駆け出した。僕は、廊下で立って森本が来るのを待った。

 重たい椅子を引きずって、森本が僕の目の前まで辿り着く。彼女は僕をしばし僕を見上げ、斜めにずれた眼鏡を直しもせずに言った。

「逃げないのね」

「僕はね、森本はクラスでいちばん賢くて、いちばん大人な子だと思っていたよ。今でもそう思ってる。話せば分かる相手であって、争うべきじゃないって」

 こうして話しかけたのは、単なる時間稼ぎだ。倉田が安全を確保できる、充分な隙を作らなくてはならない。森本は椅子の背もたれに両手を置いて、僕の様子を窺っていた。彼女の背の向こうに、窓から刺す柔らかな光の柱が見える。

「相川の発言が気に食わなかったから、殺したんだよな。僕もあいつが妙なこと言い始めてびっくりした。森本が倉田を大切に思っていたなら、尚更不愉快だっただろう」

「そうね。相川くんの軽率な言動は、子供の頃から苦手だったわ」

 森本はそう言い、椅子から手を離した。

「私もね、日和くんはクラスでいちばん話が通じる子だと思っていたわ。都会出身だからか、ひと際しゃんとして見えたし。相川くんも、そう言ってたわね」

 相川が死ぬ前、森本は相川の愚痴を聞いてやったと話していた。そのとき相川が彼女に話した内容が、それだったらしい。森本は相川の話し方を真似た。

「『本当はただぼーっとしてるだけのくせに、アンニュイな顔で憂いでるように見える。俺がついていてやらないと心配なくらい、鈍感のくせに』……『村の外の出身だから、俺や森本みたいに倉田の顔色窺う必要もない。俺もあんなふうに、自由に生きたかった』」

 胸が締め付けられる。昔、相川と倉田が神社の木の下で秘密の話をしていたのを覚えている。あれも、釘を刺されていただけだったのだろうか。僕は、相川と倉田が相思相愛なのだと勝手に思っていた。でも現実はそんな甘酸っぱいものではなかった。相川は、倉田に従っていただけだったのだ。

 笹山や小野寺、谷口が口にしていた「呪い」は、遠子の呪いではない。この村に生まれ、倉田家に従うべきとする、村の閉塞感、呪縛のことだったのだろう。彼らがそれぞれ、宮崎を殺したのが森本であると気づいていたかは分からない。ただ、倉田家にとって不都合な行いには、村の何者かによる報復があると知った。だから、村の外へ逃げたり引きこもったりして身を守っていた。村の人、特に倉田が接触するのを極端に恐れていたのは、そのせいだろう。

 そんな中、倉田家の影響を受けない“村の外の人”であり、尚且つ倉田を情で動かせる存在が、僕だった。笹山と小野寺は僕に救いを求め、谷口は、僕を殺すことで倉田を制御できると考えた。実際は、行動していたのか倉田ではなく森本だったが……。呪いの正体は、そんなところだろう。

「なんか冷めちゃった。あなたも倉田さんもどうでも良くなったわ」

 森本は深く、ため息をついた。

「文字どおり、私の人生は終わり。ひとつ、あなたに良いことを教えてあげるわ」

 彼女はそう言うと、にこっと相好を崩す。

「この学校の、図書室。そこにあるカウンターの引き出しに、ノートが入ってる」

「ノートって……」

「ええ。遠子ちゃんのね」

 学校でのつらさを、書き出していたという例のノートだ。森本は窓の光に、眩しそうに目を閉じた。

「遠子ちゃんのお通夜の晩に、こっそりあの子の部屋に忍び込んで盗んだの」

「なんで、そんなことを」

「自分で持っているのは危険だと思ったから、そのうち取り壊されるこの学校の中に隠した。業者に処分されてしまえば、それで終わるから」

「なんで盗んだんだよ」

「日和くん、遠子ちゃんのこと好きだったんでしょ。あの子の遺品のひとつよ。向き合いなさい」

 森本は僕の質問には答えず、一方的に言いたいことだけ言って、僕に背を向けた。椅子が廊下に置き去りにされている。僕は、去っていく森本に声を投げた。

「どこ行くんだよ」

「罪を償うにしても準備がいるの」

 森本はそう言って、校舎をあとにした。しばらく窓からグラウンドの様子を見ていたが、森本は戻ってくるでもなく真っ直ぐ校門に向かって歩いていき、そのまま姿を消した。僕は窓の桟に腕を置き、ため息をついた。あれを野放しにして大丈夫だろうか、という心配はあるけれど、ひとまず今の彼女は冷静だ。僕も倉田も、助かったようだ。

 僕は怪我をした倉田を迎えにいこうとして、考え直した。先に、図書室へ行こう。森本の話が本当なら、そこに遠子が残したノートがある。遠子の呪いなんかなかったが、ノートに込められている遠子の想いには、向き合いたかった。

 図書室は、一階の東側のいちばん奥にある。僕は埃っぽい廊下を歩き、突き当りの広い部屋の前で立ち止まった。戸の上にかかった、「図書室」のプレートは閉校してもそのまま残っている。ここも鍵はかかっておらず、戸は簡単に開いて僕を出迎えた。

 中は本棚が並んでいるが、中に本は残っていなかった。閉校の時点でどこかに寄付したのだろう。図書室なのに本がないもぬけの殻だが、まだ図書室として機能していた頃と同じ配置で、テーブルやソファが置かれている。

 そのいちばん奥に、カウンターはあった。

 恐る恐る、室内を進む。遠子の苦しみから目を背けたくはない。でも、同時に知るのが怖い。当事者である遠子は、僕が見ていた以上の苦しみを味わってきているはずだ。なにもできなかった僕への恨みつらみも綴られているかもしれない。

 カウンターの裏を、慎重に覗き込んだ。森本が言っていたとおり、引き出しがある。引っ張ると、中から黄色い表紙のノートが出てきた。

 僕は大きく深呼吸をして、その表紙を捲った。


 五月二十日。今日も、虫の死骸が机に入っていた。


 僕は呼吸を止めた。小さくて控えめで、形の整った文字。遠子の字だ。久しぶりに見たあの子の肉筆からは息遣いまで聞こえてくるようで、思わず、目頭が熱くなった。


 五月二十一日。上履きがなくなった。

 

 この日付から見るに、八年前の春の記録だろう。遠子がいじめられはじめたのは、たしかそれくらいの時期だった。遠子のこぢんまりとした字で、目を背けたくなるような日々が、粛々と刻まれている。感情的でこそないが、静かに訴えてくる、「助けて」のメッセージが聞こえてくるようだった。


 五月二十二日。宮崎さんに宿題のプリントを貸した。返された時には、びりびりに破かれていた。谷口くんからも見せろと言われたときには、破かれて読めなくなって、責められ、殴られた。顔がぼこぼこに腫れて、血が止まらない。でも、倉田さんが保健室に連れて行ってくれた。

 五月二十三日。宮崎さんと笹山さんに、教科書に落書きされた。日和くんが一緒に、消してくれた。消えないものもあったけど、嬉しかった。

 五月二十四日。虫の死骸を机に入れられ続けて一週間になる。ここ最近は、給食にも入れられてしまっている。でも倉田さんがこっそり、新しいものを用意してくれた。


 覚えている。こんなことがあった。知っていた。知っていたのに、僕はこの地獄の日常をどうにもできなかった。遠子がこんなに苦しんでいたのに、僕は「なにもできないから」と始めから諦めていた。真剣に向き合っていないから、遠子の想いにも応えてあげられなかった。

 ノートを見ていると、時折、倉田が救いの手を差し伸べている描写がある。僕と相川もたまに出てきたが、倉田がいちばん多い。当時から僕は、倉田はいじめをする他のクラスメイトとは違う、優しい女の子だと感じていた。しかし今思えば、これらも僕を振り向かせたくて良い恰好をしていたのかもしれない。いや、そうではないと信じたい。倉田と遠子は、僕と相川と一緒に仲良く遊んでいた。ここは倉田の優しさを疑うところではない。

 吐きそうになるような日常を、ひとつひとつ丁寧に読む。時間が経つのも忘れて集中していると、突然、背中からぎゅっと抱きしめられた。

「わあ!」

 衝動的に身じろぎする。見ると、倉田が僕の背中に顔をうずめていた。

「日和くん、無事で良かった……」

 ブレスレットで飾られた細い手首が、僕の胴体に絡みついている。飛び上がった心臓を押さえ、僕は倉田の手を押しのけた。

「倉田、脚は?」

「保健室に救急セットが残っていたの。自分で応急処置した。それより、森本さんは?」

「もういないよ。罪は償うってさ」

「日和くん、自分が囮になってそのまま私のとこに来てくれないんだもん。心配したんだからね」

「ごめん」

 僕が手を払い除けても、倉田は僕を抱きしめて離れない。

「やっと私のものになったのに、いなくなっちゃったら困るよ。今朝も私になにも言わずに出かけちゃうし。森本さんがメールしてくれたから、見つけられたものの」

 やはり森本は、僕に協力する素振りを見せておいて倉田を呼びつけていたようだ。倉田のためなら殺人も厭わない奴だ、僕を売る気だったのも納得である。

 倉田は僕の脇からひょこっと顔を出し、僕の手元のノートを覗き込んだ。

「なに見てるの?」

「遠子が書いてたノートだって。森本がここに隠してた」

「それって……いじめの内容を書いていたっていう?」

 倉田のねじの外れた愛情表現には気が滅入るが、このノートに書かれている倉田は、僕もよく知る朗らかで気立ての良い倉田だった。きっとこちらが、本来の彼女の姿だ。

 僕に抱きつく倉田の手が、ふっと緩んだ。

「それ、どこまで書いてあった?」

「どこまでって?」

 目をぱちくりさせる僕に、倉田はひとつ、呼吸をおいて切り出した。

「あのね日和くん。ずっと黙ってたことがあるの」

「……なに?」

 ノートから目を上げて、再び倉田の方を見る。倉田は泣きそうな顔をして、真っ直ぐこちらを見つめていた。

「私、遠子ちゃんがいじめられてるの、こっそり助けてたでしょ。あれ、ほんの罪滅ぼしのつもりだったの」

「……罪滅ぼし?」

 僕は手に持ったノートを落とした。床に落ちたノートがぱらぱら捲れる。開いたのは、いちばん最後ページだった。そこにあった、最後の一行。

「遠子ちゃんを殺したの、私なの」

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