◆7

 夢を見ていた。

 白いスカートがひらひらと舞い、ヒマワリ畑を駆け抜けていく。

「ね、日和くん」

 振り向いた彼女の瞳が、夏の日差しを反射する。

「昨日学校で、完全下校時刻まで残ってて先生に怒られたんだって?」

 十歳より、少し大きいくらいだろうか。まだ幼いその少女に、僕は笑い返す。

「うん、倉田のブレスレット、捜してたんだ。なくしちゃったって、悲しそうな顔してたから」

 そう言った僕の声も、まだ変声期を迎えていない幼い声だった。

「そうだったんだ! そういうことなら、私もお手伝いしたかったなあ」

 少女が目を丸くし、それからはにかみ笑いを浮かべる。

「怒られちゃっても一緒に捜してあげるなんて、日和くんらしいね」

 控えめに笑う彼女は、陽だまりのように暖かくて、眩しくて、美しい。僕にもっと、その表情を引き出せたらいいのにと思う。自分の中にあるその感情の名前が分からなくて、とりあえず、彼女の名前を口にした。

「遠子」


 *


「なに泣いてんの?」

 遠子が言ったのかな、と思った。違う、これは相川の声だ。現実に引き戻されるときは一気にではなくて、ゆらゆらした微睡みの中から少しずつ戻されていくものだ。

 相川が僕の顔を覗き込んでいる。

「なんか夢でも見た?」

「ああ、うん」

 指で目を拭うと、小さな雫の塊が乗った。なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。

 僕の体は、連絡船の狭い座席に押し込まれて固くなっていた。窓から朝の海が見える。隣の席の相川は、意外と近くにいる。

 人間の睡眠欲とはよくできたので、こんな状況下でも眠れてしまうものなのかと我ながら驚く。目の前の男は人を殺したのに、そして自分もその死体を捨て、罪を隠して島から逃げてきたというのに、よく眠れたものだ。

「僕、なにか寝言言ってた?」

「言ってた」

 相川はくすっと笑って、海に目線を投げた。

「なんで振ったんだよ。大好きじゃん」

 彼女の名前を呼んだのは、どうやら夢の中だけではなかったみたいだ。

 夜明けが来るのは、早く感じた。

 あれから僕と相川は、一緒にせーので死体を海に投げた。体についた血は、漁港の加工場にあった水道で流した。それから僕が村を引き上げた際に持ち帰っていた荷物を開けて、血の汚れがない服に着替えた。体格が似ている相川も僕の着替えを着て、ふたりとも、まさか死体を捨ててきたようには見えない姿になった。

 幸い、人に出くわしたりはしなかった。――いっそ見つかってしまえば罪を認めて腹を括っただろうに、まるでそれは許されないかのように、全てが完了してしまった。

 重たい死体を運んで証拠を隠滅し、消化しきれない感情と向き合ってぼうっとしているうちに、朝の早い漁師たちが港へ現れた。僕らはなに食わぬ顔でその場を離れ、やがて朝の便の連絡船が来て、今に至る。

「あのさ、相川は僕と谷口の会話、どこから聞いてた?」

 僕がそれとなく訊くと、相川は、感情の篭らない声で答えた。

「殆どなにも聞いてない。隙間から光が洩れてる小屋に向かっていったら、日和が呻いてる声がして……あとは、脊髄反射で飛び込んだ」

「そうか」

 こいつの後先考えない性格がこんな形で出るとは、友人の僕にも予想できなかった。

「谷口、僕に『ひとつ大きな勘違いをしてる』って言ってた」

 窓の外の海が、きらきらと眩しい。

「なんだったんだろう。僕、なにを間違えてるんだろう」

「ああ……それはもう、確かめようがないな」

 相川が自虐的にぼやく。

 そうだ、確かめようがない。確実になにかを悟っていた谷口を、僕らはこの手で、海に捨てた。

「それとさ、あいつ、呪いを止めるには僕が消えないといけないとも言った」

「……は?」

 相川が気色ばむ。

「だからあいつ、あんなことしたのか。バカじゃねえの」

「そうだとして、どうして僕が死ぬと呪いが解けるんだろう」

 “村の外の人”である僕には、呪いを止められるかもしれない――それは、笹山や小野寺も言っていた。だがその方法が、「僕が犠牲になること」だったのは、知らなかった。どうして僕なのか、どうして僕が死ななくてはならないのか。それは、谷口の口からは語られなかった。

「やっぱり、遠子が死んだいちばんの原因が、僕だからなのかな」

 真剣に告白してくれた遠子を、あっさり振ってしまった。そんな僕の浅はかさが、彼女を自殺に追い込んだ。他のクラスメイトが死ぬ前に、いちばん憎まれている僕が死ぬことで、呪いの拡大を止められるという意味だろうか……。

 だとしたら、僕は死ぬべきなのではないか。

 僕が下を向いていると、相川がため息をついた。

「バカ言ってんじゃねえ。遠子は日和に振られたからって逆恨みするような子じゃない。お前だって知ってるだろ」

「そうだよな」

「死のうなんて考えたら承知しないからな。俺をひとりにするんじゃないぞ」

 相川の言葉に、僕は少しだけ胸が軽くなった。そうだ。僕は相川と罪を共有したのだ。相川だけ残して自分だけ逃げようだなんて、ずるい。

「そうだな。呪いを止める方法は他にもあるかもしれない。まだ早まらないでおくよ」

 やがて船が本土へ到着した。このまま東京のアパートへ帰宅とはいかず、僕は相川と一緒に葉月村に戻ることにした。

 なにしろ、一緒に死体を隠蔽したのだ。谷口の死はその内警察の調査が入るだろうし、いつ僕らに辿り着くか分からない。今後の相談のためにも、お互い、もう少し身近にいた方がいい。

 軽トラで葉月村に帰り着き、僕は再び、相川の家でお世話になる形になった。おじさんもおばさんも温かく歓迎してくれ、まだ村にいた倉田も、彼女と一緒にいたらしい森本も、玄関先に会いにきてくれた。

「日和くん、倉田ちゃんになにも言わずに東京へ帰っちゃったと思ったら、相川くんも昨日はどこかに出かけてたし、今度はふたりで戻ってくるし。どういうこと?」

 森本に問われた瞬間、相川が即座に喋り出した。

「それがな、日和が忘れ物したから俺が軽トラで追いかけて、捕まえた町で一緒に観光して遊んでたら日が暮れちゃってさ!」

 コロコロ笑うその青年は間違いなく僕の知っている相川修平だった。人を殺して震えていた男とはまるで別人の、明るく元気な友人である。

「でさ、折角だし夏休みいっぱいもっと遊んでいかね? って話になって、戻ってきたってわけ!」

 こいつがこんなふうに立て板に水で嘘を吐くという現実を目の当たりにし、僕は頼もしく感じると共にぞっとした。

 倉田がふうんと鼻を鳴らす。

「じゃあ私ももう少し長居しようかな」

「よっしゃ! なら今から一緒にゲームしようぜ。四人プレイ、久しぶりだな」

 相川が居間へと走っていく。小学生さながらの後ろ姿に苦笑いして、倉田と森本も玄関で靴を脱いだ。

 今のところ、相川は僕の言いつけどおり、普段の彼らしい振る舞いを見せている。本当は精神状態がぼろぼろなのは間違いないが、少々わざとらしいくらいにテンションの高い彼を演じている。僕はどうだろうか。傍目に見て、不自然はないだろうか。意識すると心臓が早鐘を打って、余計に表情が強ばる。

 居間に入ると、相川が四つんばいになってゲーム機のコントローラーを取り出していた。セッティングを済ませた相川は、リモコンを取ってテレビの電源を入れる。ぱっと、画面に昼のニュース番組が映し出された。

『続いてのニュースです。今朝、三重県潮鳴島の海岸で遺体が発見され――』

 思わず、僕と相川は石になった。ニュースキャスターの女性は淡々と報道を読んでいる。

『遺体は損傷が大きく、身元が分かっていません。警察は事件とみて、捜査を進めております』

 テレビを凝視する相川の目が、島の小屋で見た色に戻っている。リモコンを掲げた手が、固まっている。僕は彼の手からリモコンを奪った。

「なにぼんやりしてるんだ。ゲーム、するんだろ」

「あ、うん」

 相川がハッとする。こんなニュース、聞きたくない。僕はリモコンの入力切替ボタンを押そうとした。が、その前にキャスターが続きを読む。

『住人によると、昨夜から島在住の谷口竜治さんと連絡が取れておらず、警察は事件と関連があるとみて、遺体の身元の特定を急いでいます』

「えっ、谷口くん!?」

 真っ先に反応したのは、倉田だった。

「谷口竜治って言ったよね? 谷口くんなの!?」

「そんなわけないって、たまたま同じ名前の別人だろ」

 僕は咄嗟に言って、チャンネルを切り替えた。キャスターの姿が消え、ゲームのスイッチを入れる前の、真っ黒な画面が映し出される。倉田が顔面蒼白になる隣で、森本が鋭い目で僕を睨んだ。

「なんでそう言い切るのよ。心配じゃないの?」

「それは心配だけど……谷口だって思いたくなくて、つい。ごめん」

 背中に汗が滲む。荒波の中に捨てた死体は、簡単には見つからないはずだった。こんなに早く見つかるとは。いやしかし、まだ犯人が特定されたわけではない。僕と相川に繋がる証拠は隠滅したはずだ。焦るな、と、自分に言い聞かせる。

 相川がやけに明るく言った。

「そもそも、ニュースで言ってる『谷口さん』は、連絡が取れないってだけで死体がこの人とは限らないんだろ? 逆にこの人が誰かを殺して、逃げてて連絡が取れないのかもしんないし」

「そうだったら、ニュースではこういう報じ方はしないわよ」

 森本が眼鏡をずり上げる。

「中学の頃の連絡網、まだ残ってるかしら。谷口くんに電話してみる?」

「あ、それなら相川くん、番号が携帯のアドレス帳に入ってたよね」

 倉田が思い出すと、相川はびくっと跳ね上がった。

「う、うん、入って、る。着信拒否されてるけど、ははは」

「私の携帯からかけてみるよ」

 倉田が相川に手を差し出し、携帯を見せるよう催促する。相川の表情が、みるみる強ばっていく。「いつもどおり」の彼が消えかかっているのに焦りを感じ、僕は口を挟んだ。

「どうした相川。気にならないのか?」

「え、ええと……」

 僕に促されて、相川はしどろもどろに携帯を操作した。

 大丈夫、なはずだ。ここで倉田が谷口の端末に電話をかけたとして、そして繋がらなかったとしても、相川が殺した証拠にはならない。大丈夫だ、大丈夫だ、と、頭の中で何度も唱えた。心臓がばくばくしているが、顔に出さないよう、必死に冷静を装う。

 倉田が谷口の番号に発信して、青い顔で首を振った。

「出ない……」

 空気が凍る。数秒の沈黙のあと、相川が変にハイテンションになった。

「たまたま出なかっただけじゃねえ? あいつ、なんかこの村の人と連絡取り合うのすっげえ嫌がってたしさ! な、絶対そうだって。あのやんちゃ小僧だった谷口だぞ? こんな死に方、似合わないだろ」

「あ、はは。そうだと良いけど」

 倉田も合わせるように引きつった笑いを見せ、やがて下を向いた。再び沈黙が訪れる。外の蝉の声が、やけに大きく聞こえる。

 突然、テレビから陽気な音楽が流れた。振り向くと、相川がゲームの電源を入れている。呆然とする僕らの顔をそれぞれ見比べ、相川はにぱっと笑った。

「バカなこと言ってねーで、ゲームしようぜ」

「そ、そうだよね」

 倉田が苦笑する。

 相川のおかげで、空気が変わった。ほっと胸を撫で下ろし、僕は相川の横にしゃがんだ。コントローラーを握る僕に、相川がか細い声で言う。

「なあ日和……本当に大丈夫かな」

 僕にだけに聞こえるくらいの小声で、相川が弱音を吐く。僕はこくっと頷いた。

「……大丈夫、なんとかなる」

 相川は恐怖に澱んだ目をしていた。このまま演じろ。バカでお調子者でなにも考えていなそうな、相川を。

 僕は自分の分のコントローラーを手に取り、続いて倉田の分を倉田に手渡した。森本にも、コントローラーを差し出す。

 しかし、森本はそれを受け取らず、訊いてきた。

「ねえ日和くん」

「ん」

「凶器はなんだったの?」

「は?」

 あまりに、唐突な質問だった。

「凶器?」

「谷口くんを殺した凶器よ」

 森本の言葉に、僕は言葉を失った。相川と倉田も、凍りつく。

 おかしい、まだ疑われる段階ではないはずだ。仮にニュースで報じられた死体がクラスメイトの谷口であると断定できたとして、森本は僕が潮鳴島にいたのを知らないはずだ。もしも僕の携帯の通話履歴を知られたとしても、それはその日の朝に谷口と通話していたというだけに過ぎず、僕が殺した証拠にはならない。

「なに言ってるんだよ、森本」

「とぼけないで」

 じろっと睨んできた森本の目は、本気の色をしていた。

「あんた、この村に来てから谷口くんと連絡取ろうとしてたじゃない。やけに遠子ちゃんのこと気にしてたし、遠子ちゃんをいじめていた谷口くんに復讐を図ったんでしょ」

「いや、それは……」

 それは、さすがに飛躍しすぎだ。

「考えてみたら、笹山さんもあんたに会ってから死んでるのよ。あんたが殺したんでしょ!」

 まずい、酷く誤解している。僕はコントローラーを離し、森本に向き合った。

「違う、森本。第一、笹山が亡くなったのは事故だって知ってるだろ」

「来ないで!」

 森本が立ち上がり、後ずさった。僕も大声が出る。

「誤解だ! そうだ、笹山と会ったときは相川と倉田も一緒だったし、昨日は僕は相川と過ごしてた。な、そうだよな」

 僕は畳に座り込む相川に目配せをした。しかし森本は威嚇するばかりである。

「へえ、相川くんも共犯なわけ。そうね、ふたりとも、ニュースを観たときの反応がおかしかったもの!」

「そうじゃない!」

 一向に引かない森本に、つい声を張り上げた。相川がハッとして加勢する。

「森本、お前自分がなに言ってるか分かってんのか? 遠子をいじめたから復讐に谷口を殺すって、意味分かんねえ。そりゃあ、ムカついたときに心の中で『殺す!』って思うときはあるけど、本当に殺す奴なんかそうそういねえよ」

「共犯者は庇うでしょうね」

 森本は相川の主張も突っぱねた。こいつ、なにを言っても聞かない。

 すると、ずっと黙っていた倉田が叫んだ。

「やめて! 日和くんを疑うなんて、森本さん、どうしちゃったの!?」

 良かった、倉田は弁護してくれる。倉田がぎゅっと、僕のシャツの裾を掴んだ。

「日和くんはそんなことしない」

 が、その力がふっと抜けた。

「……はず、だよ……ね?」

「倉田……?」

 振り向くと、彼女はひきつった口角とともに怯えた目をこちらに向けていた。まさか、倉田も僕を疑うのか。

「僕が、谷口を殺したって? 倉田もそう思うのか?」

「ち、違うの。ただ、そういえば森本さんの言うとおりなところもあるなって……」

 そんな、嘘だ。なんの証拠のないのに。大体、倉田は僕が谷口を捜していた理由が、遠子のお母さんの手がかりを見つけるためだと分かっているはずだ。森本の突拍子もない推理なんか、信じないはずではないか。戸惑う僕に、倉田はさらなる衝撃を突き刺してきた。

「だって日和くん、昨日、潮鳴島にいたよね?」

「……え?」

 どうして倉田が、それを?

 頭がぐらぐらする。どういうことだ。僕が潮鳴島に行くと決めたとき、一緒にいたのは相川だけだった。僕が出て行ったあと、相川が倉田に話したのだろうか。しかしそうだとしたら、先程のニュースを観たときの反応が不自然だ。やはり相川が話しているとは考えにくい。

 いや、それよりもだ。僕が潮鳴島に行ったのが裏づけられているとしたら。

 谷口を殺して捨てたのも、ばれるのではないか?

 ひりつくような緊張感の中、蝉の声がわんわんと、僕の頭を掻き乱す。自分の心臓の音がうるさい。

 やがて、相川が低い声を出した。

「いい加減にしろ」

 普段のアホの相川からは想像もできないような、重く、深い、怒りの滲んだ声だった。倉田と森本、僕も、肩を縮こまらせる。相川はゆらりと、鋭い目つきで森本を睨んだ。

「さっきから俺と日和のせいにしやがって、なんのつもりだ。ふざけてんのか。喧嘩売ってんなら、こっちだって黙ってねえぞ」

 こんなに怒っている相川は見たことがない。彼はわなわな震えて、尖った視線を倉田に向けた。

「倉田! 倉田が呪いの正体だ!」

 これには、僕も驚いて呆然とした。急になにを言い出したんだ、相川は。

「へ!?」

 突然名前を出されて、倉田は素っ頓狂な声を出した。

「あ、相川くん? いきなりなにを……」

「倉田はこの村の権力者の娘だ。自分にとって不都合な奴を消すのだって容易い。現に、笹山は倉田を見て怯えてた!」

「え? え? 私が?」

 倉田は困惑しているし、先程まで啖呵を切っていた森本も、自分よりおかしなことを言い出した相川に愕然としている。相川はキッと、倉田を睨んだ。

「倉田、鞄の中、見せてみろよ」

「え……」

 倉田が青い顔で固まる。相川の鋭い目線にしばらく戸惑っていた彼女は、やがておずおずと、相川に鞄を差し出した。僕が止める前に、相川は倉田の鞄に手を入れた。そして中からずるっと出てきたそれに、倉田があっと叫ぶ。

「それは……!」

 桃色のタオルで包まれた、なにかだ。相川の手でタオルが解かれると、中から銀色の刃が牙を剥いた。きれいに研がれた、包丁だ。僕と森本も息を呑む。

「これは?」

 相川が倉田を見据える。倉田は必死に首を振った。

「それは護身用だよ。この頃、呪いとか物騒で怖いから……」

「幽霊を刺すつもりか?」

「違うの! お父さんに持たされたの! もし人間の仕業だったときに、威嚇するためにって。だってそうじゃないと怖いんだもの、私、相手が力の強い人だったら押し負けちゃうから」

「違う! 倉田の仕業だったんだ! この包丁で、この中の誰かを殺すつもりだったんだ!」

 相川が包丁を床に投げ捨てた。

「俺は最初から怪しいと思ってたんだ。日和が遠子のお母さんを捜してるのに付き合ってたのも、日和が真実に到達しないように邪魔するためだったんだろ。村の中の人間なら地主の娘に逆らわないけど、外の人間である日和にばれたら、揉み消しきれなくなるから」

「ち、違うの」

 倉田は泣きそうな顔で僕を見た。

「日和くん、信じて。本当に護身用なの。お父さんに訊いてくれたらすぐに分かる」

 僕はしばらく、息をするのも忘れていた。倉田の鞄に包丁が入っていたのは事実だ。でも、本人はこう言っているし、たしかに呪いなんかに日常を脅かされているのなら、倉田のようなか弱い女の子には武器がないと不安なのも納得がいく。それになにより、倉田は自分の都合で人を殺したりするような人ではない。

「相川、もうよせ」

 僕は相川の肩を押さえた。しかし相川は止まらない。

「日和が真実に気づいたら、次に消されるのは日和だ。だから俺も詮索に付き合って、倉田が妙な動きをしないか見てたんだよ」

「おい、やめろって。どうしちゃったんだ」

 僕が疑われて焦ったのだろうか。倉田の鞄に包丁が入っているのに気づいて、危険を感じたのだろうか。はたまた谷口殺しの真相が暴かれる不安が限界に達して、壊れてしまったのだろうか。いずれにしても、なぜ倉田に、呪いの責任を押し付けるのか。

「謝れ! 倉田に失礼だろ!」

「だってこいつらが先に!」

 相川が子供みたいに反抗してくる。まるで話にならない。僕はため息をつき、相川の肩を離した。

「お前がそんなこと言う奴だとは思わなかった。見損なった」

 すると相川は一瞬、びくっと身を固くした。そして徐々に、悲しげな顔になっていく。

「……俺を、ひとりにするのか?」

「ん?」

「俺は日和を守ろうと思って言ったのに。お前は、俺を裏切るのか?」

 ぐっと、胸が痛くなった。そうだ、相川と僕は同じ罪を隠した運命共同体だ。相川は疑いがかかった僕を庇うために、あんな嘘を吐いたのか。いや、だからといって倉田を盾にしていいわけがない。それに、相川にそんな顔をされると、どうもイラッとしてしまう。

「裏切るとか、そういう話じゃないだろ。倉田に謝れって言ってるんだ」

「倉田だって日和を疑った!」

 感情的に叫ばれた。僕はまた、大きめのため息をつく。

「分かった、もういい。今は相川と衝突してる場合じゃない」

 今の相川とは、これ以上話しても埒が開かない。相川もそう思ったのだろう、彼はすっと立ち上がった。

「はいはい、俺が悪かったよ」

 相川はそう吐き捨て、居間を出て行った。廊下を行く足音が遠のいていく。森本も、相川を追いかけた。

「ったく、なんなのあいつ。ちょっと、待ちなさいよ」

 森本も出て行くと、居間には僕と倉田のふたりだけが残された。倉田はまだ呆然としている。

 相川が倉田に妙な濡れ衣を着せたのは本当だし、僕は相川を裏切ったつもりはないが、こんな亀裂が生まれてしまうのは不本意だった。相川は、感情が爆発して言葉を選べなくなってしまった。怒って意味不明な発言をしたかと思えば、今度は僕が相川を孤立させたかのように被害者面をしはじめた。僕のよく知る相川なら、倉田に無実の罪なんか着せないし、森本があんなことを言い出したところで笑い飛ばしている。今の彼にはそれができない。あいつは、元の自分を演じられなくなりつつあるのかもしれない。

 倉田がおずおずと、畳の上に寝そべる包丁を拾った。僕は思わずどきりと身を固くする。だが倉田はもちろん僕に襲い掛かったりせず、刃にタオルを巻き直した。

「驚かせてごめん。うちのお父さん、過保護で……」

 タオルを巻いた包丁は、再び倉田の鞄に入った。

「相川くん、私の鞄の中が見えちゃったんだね。刃物なんか持ってる私が悪い。ただでさえ神経すり減ってるときにこんなの見たら、怖いのは当たり前だよね。謝らなきゃ」

「いや、倉田は悪くないんじゃないか」

 たしかに僕も、包丁には驚いたが。事情を聞く前に騒ぎ立てた相川の方が悪い。倉田は力なく微笑んだ。

「ううん。でも日和くん、信じてくれてありがと」

「当たり前だろ。倉田が自分の都合で村の人たちに当り散らすなんて有り得ない。相川がバカすぎるだけだ。あのバカが、本当に申し訳ない」

 僕が相川に代わって頭を下げると、倉田は困り顔で首を傾げた。

「日和くんが謝らなくていいよ。相川くんもさ、大事な親友の日和くんがあんなに責められて、慌てちゃったんだと思うの。日和くんが人を殺すわけないって、分かっていたからこそだよ」

 それから彼女は、申し訳なさそうに下を向いた。

「それなのに、私は……ごめんね。一瞬、疑っちゃった」

 倉田は自身の左手首に下がるブレスレットに、そっと右手を添えた。

「あなたが優しい人なの、よく知ってるつもりなのに。なんで疑っちゃったのかな」

 倉田はそう言うと、少し、僕に身を寄せた。数秒無言のままいると、やがて彼女は僕を覗き込んだ。

「相川くんを追いかける?」

「いいよ、放っておこう。頭冷やして反省して、倉田に謝るまでは許してやらない」

 相川のことだ、すぐにけろっとした顔で戻ってくるだろう。……あいつは僕と秘密を共有しているのだ。決裂してなどいられないことくらい、いくらバカでも分かるはずだ。

 倉田はまた少し困ったような顔で微笑むと、ゆっくり立ち上がった。くるぶしまである長いスカートが、僕の目の前を横切っていく。

「相川くんいなくなっちゃったし、ゲームどころじゃなくなっちゃった。私もそろそろ行くね」

 倉田が居間を出る。どうして倉田は、僕が昨日潮鳴島にいたのを知っていたのだろう……それはとうとう、訊けずじまいだった。

 僕も居間をあとにして、寝泊りさせてもらっている相川の部屋へと向かった。床で膝を抱えて、ひとり反省会を始める。

 今回の件は、急にトリップした相川が悪い。僕を庇おうとしたのは分かるが、それと倉田に濡れ衣を着せるのは別問題だ。謝れと言った僕は間違っていない。だが、言い方が悪かったかもしれない。相川が戻ってきたら、そこは謝ろう。僕たちはふたりで殺人を隠蔽したのだ、もっと足並みを揃えなくてはならない。

 ふいに、僕は部屋の棚に置かれた小さな封筒に目がいった。あれは相川のタイムカプセルに入っていた、八年前の彼が書いた手紙である。見られたくないと言って倉田から必死に守っていたくせに、無用心にあんなところに置いている。僕は床を立ち上がり、封筒を手に取った。相川はどこかへ出かけているし、今の内にこっそり覗いてしまおう。

 封筒を開けると、ちぎったノートの一ページをふたつ折にした手紙が出てきた。小学生の相川の拙い文字が、元気よく並んでいる。

 それを読んだ僕は、ふっと、顔が緩んだ。


 *


「困ったねえ、修平ったら、どこほっつき歩いてるのかしら」

 キッチンに立つおばさんがため息をつく。僕はおばさんの料理を手伝いつつ、壁の時計を見上げた。時刻は七時半。相川は、夕飯時を過ぎても帰ってこない。

「携帯に電話しても出ないし。日和くん、なにか知ってる?」

 おばさんに言われ、僕は素直に打ち明けた。

「その、ちょっと喧嘩してしまって……。でもすぐ戻ってくると思って、追いかけませんでした。ごめんなさい」

「なんだ、そんなこと。へそを曲げて出て行ったくらいなら私らでも追いかけないわよ。先にごはんにしましょうかね」

 おばさんはあっけらかんとして笑ったが、僕はいよいよ不安になってきていた。いくらなんでも、流石に帰りが遅すぎる。

 今の相川は、これまでの彼とは違う。人を殺して、しかもその罪を隠しているのだ。明るい素振りを見せているだけで、精神的に限界なのだ。死体が見つかったニュースを観て、改めて自分の犯した罪の重さを再認識し、その重みに耐え切れなくなったのかもしれない。

 瞼の裏に、昨夜の光景が蘇る。返り血を浴びて、血のついた蛸壺を両手で持って、怯えた目をしていた、僕の友人。加害者は他でもない彼なのに、自分自身に怖がって震えて、涙を流して、僕に救済を求めた。

 そうだ、死体を前に、「死にたい」なんてのたまっていた相川だ、変な気を起こしかねない。

「……すみません、僕のせいです。捜してきます」

 たまらず、僕は外へと飛び出した。おばさんが大声でなにか呼びかけてくるが、耳に入ってこなかった。それよりも募ってくる嫌な予感が、僕を突き動かす。

 空はまだ夕焼け色である。眩しい真っ赤な西日に見下ろされ、僕は走った。何度も、相川の携帯に電話をかける。しつこくコールし続けると、留守番電話に繋がった。僕は息切れの合間で、静かな怒号を叩き込む。

「どこにいる。出ろ!」

 あいつのことだ、多分どこかで昼寝して、寝過ごしているだけだ。きっとそうだ。そうでないと、嫌だ。

 よく一緒に遊んだ神社、葉月商店、学校と、村の中をくまなく捜し回る。それでも、相川の姿は見当たらない。

 煌々と照らす西日を浴びて、ヒマワリ畑が燃えるように光っている。太陽を見上げる黄色い花々の間に通った砂利道を、僕は必死に駆け抜けた。

「日和くん!」

 僕を呼び声に振り向くと、倉田と森本が駆け寄ってきていた。僕の傍で足を止め、倉田は腰を折り曲げて、ぜいぜいと肩で息をした。

「おばさんから連絡があったの。相川くんが、うちに来てないかって」

「私のところにも。あいつ、まだ帰ってないの?」

 森本も額の汗を拭って、怪訝な顔をした。

「全く……ガキなんだから。警察にはもう連絡してあるの?」

「それなら、相川くんのお母さんが連絡したみたい」

 倉田が答える。森本はそう、と頷いた。

「日和くん、まだ捜してないのはどの辺り?」

 僕は乱れた呼吸を整えた。

「村の中は、大体全部当たった。学校の中とか、建物の中までは見てないけど」

「そう。じゃ、日和くんはもう一周村を見てきて。入れ違いになってるかも。倉田さんは学校の中をお願い。私は村の外れの方を見てくるわ」

「分かった!」

 森本に仕切られるとおりに従って、倉田が学校の方へ駆け出した。まだ立ち止まっている僕をひと睨みし、森本が眼鏡の位置を指で直す。

「なによ」

「いや……さっき、僕と相川を人殺し呼ばわりしたくせに、協力してくれるんだなと思って」

 あれだけ警戒されたのだし、もう助けてもらえなくてもおかしくなかった。倉田も、相川にあんなに失礼な態度を取られたのに、真剣に心配して、彼を捜してくれている。

 森本はため息をついて、腕を組んだ。

「別に信用はしてないけど、それはそれ、これはこれでしょ。この村はそうやって住民同士で助け合って暮らしてるの」

 森本と話していると、少しだけ冷静になれた。なにも考えずに無我夢中で捜し回っていたが、こうして頼れる人がいる。落ち着いて、事態と向き合おう。

「森本、相川が家を出て行ったとき、追いかけてたよな。あのあとどうなった?」

「捕まえたわよ。あいつ、足は速いからなかなか追いつかなかったけど、途中で落し物をしたの。私がそれを拾ったら、律儀に立ち止まってこっちに来た」

「なにを落としたんだ?」

 僕が質問を重ねると、森本ははっきりと答えた。

「ヘアピンよ。ヒマワリの花がついてた」

「……あ」

 遠子のヘアピンだ。そういえば、潮鳴島で血のついた服を捨てたとき、着替えとして相川に僕の服を貸し出した。あのとき貸した服のポケットに、ヘアピンが入っていたのだ。

「相川くん、それを見てハッとして、落ち着いたのよ。『これ、日和に返さなきゃ』って」

 森本が真剣な顔で答える。

「でもまだ悶々としてる様子だったから、一旦うちに上がってもらって愚痴を聞いてあげたのよ。そのあとは知らない。てっきり、日和くんのところへ戻ったものと思っていたわ」

「そうだったのか……」

 相川はヘアピンに気づいて、僕に返そうとしていた。ちゃんと、戻ってくるつもりだったのだ。だったら、最悪のケース――自暴自棄になって自ら命を絶ったということはないだろう。そう思ったら少しほっとした。

「だとしたら、森本の家から相川の家に戻ってくるまでの途中で、なにかあったんだな」

 村自体は狭いから、ふたりの家は歩いて十五分程度である。真っ直ぐ帰ってこなかった理由は、この道のどこかにある。

 森本が僕に背を向けた。

「じゃあ、さっきのとおり日和くんは村の中の捜索をお願い。私は学校の裏山の方を見てくる」

「うん」

 森本を見送ろうとして、僕はふと、気になった。森本の背中に呼びかける。

「なあ、相川の愚痴を聞いたって言ってたよな」

 まさかとは思うが、あいつ、森本に谷口殺しを怪しまれるような発言を零していやしないだろうか。一瞬そんな不安が過ぎったのだが。

「『日和は俺と違って都会っ子だから、垢抜けててずるい』ってさ」

 森本は呆れ顔で振り向いた。

「『本当はただぼーっとしてるだけのくせに、アンニュイな顔で憂いでるように見える。俺がついていてやらないと心配なくらい、鈍感のくせに』とか。全く、大きなお子様ね。この辺りは街灯がないから、暗くなる前に見つけないと。さっさと行くわよ」

 森本はもうひとつため息をついて、裏山の方面へと駆け足で去っていった。

 僕はしばらく、呆然と森本の後ろ姿を眺めていた。相川はかなり追い詰められているように見えたが、案外、大丈夫かもしれない。「俺がついていてやらないと心配なくらい、鈍感のくせに」……そうかもしれないな、なんて、口の中で呟く。

 だから、頼む。無事でいてくれ。

 僕は再び、ヒマワリ畑の道を駆け出した。森本に指示されたとおり村を回ろうとしたが、傾く西日を見上げ、向かう方向を変えた。森本も言っていたとおり、この村には街灯がない。民家の明かりが遠いほど暗くなるのが早いから、明るいうちに山や林を見に行った方が良さそうだ。学校の裏山は、森本が見に行っている。僕はその反対側の、麓の町へ続く山道へと向かった。

 バス停を横目に見て、さらに奥へと進む。道路を挟む林が揺れ、ツクツクボウシの悲しげな声が降り注いでくる。周囲の自然のざわめきの中、僕の足音が浮いて聞こえる。

「相川」

 名前を呼んでみたが、まるで響かない。日が翳ってきている。山の斜面を登って、奥へ奥へと進んでいく。

 道路を逸れて、脇道に入っていく。人がひとりやっと通れるほどの狭い道は、登るにつれてさらに狭く細り、凹凸が激しくなって足場の不安定さが増していく。僕はただただ、木々の隙間を辿った。相川がこんなところまでくるとは思えないが、なんだか胸がざわざわして、引き返せない。獣道とも言えるような隘路を踏み分け、やがて少し開けた岩場に出た。土砂崩れの跡が崖になっており、足場は湿った雑草でぬめっている。

 その雑草に、ちぎれた跡がある。

 なんとなく、嫌な予感がした。

「……相川?」

 心臓が、どくんどくんと音を立てる。僕はちぎれた草の根に手をついて、そっと、崖の下を覗き込んだ。

 そして崖の底に落ちていたそれに、頭が真っ白になった。

「あ、い……」

 岩だらけの湿地に寝そべる、若い男の背中。僕は弾かれたように崖を降りた。岩場を這って、全身を泥まみれにして、下へと降りていく。滑って落ちたら自分も怪我をする、とか、どうやって道に戻るかとか、そんなところにまで頭が回らない。

 ようやく降り立った崖の底で、僕はごつごつした岩に躓きながら、男の下へ駆け寄った。

 見間違えるはずもない。そこにいたのはたしかに、僕の親友「だったもの」。

「相川……」

 名前を呼んでみた。

 返事はない。

 くしゃくしゃに乱れた髪と泥だらけの背中を、夕焼け空が赤く照らしている。光のない目をうっすらと開けて、その目を濡らすように、顔を血で染めていた。

 部屋にあった、ノートの切れ端に書かれた手紙が、脳裏に蘇る。


 未来のオレへ。

 こんにちは、元気ですか。立派なそうりだいじんになっていますか。

 大人になっても、ひよりと友だちですか。

 あいつはどんかんで、ぼけっとしてて、たよりねーけど、ジジイになるまでなかよくしてやってください。

 オレより。


 なんで今、あの手紙を思い出したのだろう。


 僕のものに比べてやや小さな手が、緩やかに結ばれている。その指の隙間に、黄色い花弁が見えた。僕はそっと、その手に触れた。冷たく硬直した手から、小さなヒマワリが転がる。大事に握り締めていたのだろう、花弁が少し折れ曲がっていた。

 僕はヒマワリと一緒に冷たい手を握り締めて、もう一度名前を呼んだ。でも、喉で絡み付いて、声にならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る