◆5
翌朝、僕は相川の家で、ぼうっと庭を眺めていた。背後では相川が、畳に突っ伏している。
笹山のいる病院からの帰り、一日三本しかない葉月村行のバスはとうに逃し、タクシーを使った。村に着いたのは夜九時頃、空はすっかり真っ暗だった。
一夜が明けて、日が差す居間。僕は畳で膝を抱えて座って、相川はぐったり寝そべって動かない。相川は一見眠たそうだが、目はしっかり開いている。僕もそうだ。体が疲れているのに、寝ても休まらない。目を閉じると、笹山がトラックに跳ね飛ばされたあの場面がフラッシュバックする。おかげで浅い眠りと突然の目覚めを繰り返してしまって、寝不足なのだ。
畳に頬をくっつけている相川に、僕は言った。
「谷口も笹山も様子が変だし、森本は呪いだなんて言うし。遠子のお母さんは、誰も行方を知らない。なにか、おかしいことが多い」
「うん。気味が悪いよな」
相川が低い声を出す。そうなのだ。気味が悪い。森本も言っていたように、このまま追いかけ続けてたら、いずれ後戻りができない危険な領域に踏み込んでしまう気すらする。
しかし、消えた遠子のお母さんだけは、捜し出したい。遠子を死なせたのは僕だ、その罪悪感に苛まれ続けてきた。許されることではないけれど、せめて、罪を認めさせてほしい。その使命感が。僕を突き動かす。
だというのに、唯一の手がかりだった笹山が意識を失ってしまった。これではまた手詰まりだ。どうしたものか。膝を抱えて考える僕の背中に、相川の間延びした声が届く。
「日和。お前、少し休め」
「休んでるよ」
「そうじゃなくてさ。ちょっと焦りすぎだと思う。遠子の母ちゃんに会いたい気持ちはよく分かったけど、なんか妙なことが続くし、昨日なんてあんなショッキングな現場に居合わせたんだし。俺、疲れたよ」
でも、と反論しかけて、僕は言葉を呑んだ。たしかに、ここ二日で身体的にも精神的にもどっと疲労が溜まった。
思えば元々、タイムカプセルを開ける一日のためだけにこの村を訪れたのだった。それがいつの間にやら予定が変わって、もう二泊も相川の家の世話になっている。相川も彼の家族も僕を受け入れてくれるから、すっかり甘えてしまっている。それもこれも、奇妙な現実を目の当たりにしたせいだ。
「ごめんな相川、僕の用事に付き合わせて」
「なに、急に」
うつ伏せの相川が呻く。僕は改めて、彼のつむじに言う。
「遠子のお母さんに会いたいの、僕の勝手なのにさ。相川も倉田も一緒に手がかり捜してくれるから」
「本当だよ」
相川はごろんと寝返りを打って、仰向けになった。
「だからさ、今日は久しぶりに体と心を休めよう。焦ったってろくなことないぞ」
本当はすぐにでも、遠子のお母さんを捜したい。でも相川の言うとおり、こんな精神状態では、なにをしても上手くいかない気がする。相川の提案に載って、今日はリフレッシュしようか。
僕はのっそり、畳から腰を上げた。
「じゃあ、料理でもしようかな。ここのところ、相川のおばさんに食事を用意してもらってばかりだからさ、たまには僕が作ってご馳走するよ」
「え、それは気にしなくていいのに。母ちゃんも日和がいるのは歓迎してる」
相川はそう言うが、世話になりっぱなしでは僕の気が済まない。
「おばさんに相談してくる」
僕は相川を居間に残して、おばさんのいる居室へ向かった。
*
数時間後、僕は手にはいっぱいの夏野菜を抱え、炎天下で汗を垂らしていた。
おばさんは相川同様、「気にしなくていいのに」と言ってくれたが、話し合った結果、今日は僕がカレーを振る舞うことに決まった。それと隣の家へ回覧板を回して、村の商店と郵便局へのお遣い、庭の草取りなど諸々の雑用も言いつけられた。さらに相川のおじさんが世話をしている畑で農作業の手伝いもする運びになり、今に至る。収穫した夏野菜を、おじさんの軽トラに積み込む。
「いやあ、日和くんがいい働きっぷりで助かるよ」
角刈りの頭にタオルを巻きつけて、おじさんが豪快に笑う。
「それに比べ、うちのバカ息子は。畑の手伝いに友達が来てくれてるってのに、あいつはなにしてんだ」
相川はというと、居間で昼寝している。僕が畑仕事へ借り出されると決まったとき、おばさんが相川も同行させようとしていたのだが、相川は畳に倒れて返事をしなかった。本当に寝ていたのか寝たふりだったのか、僕には分からない。
軽トラの荷台のコンテナにトマトを入れて、ひとつ大きく息をつく。瑞々しい真っ赤なトマトが夏の日差しを照り返して、きらきら潤んで見える。
「野菜、どれもおいしそうですね」
「おう。この村には山から湧き水が流れてるからな、良い水で育つ野菜は実がしっかりして甘くなるんだ」
おじさんがコンテナを運ぶ。
広々とした青空と農地、眩しい緑を眺めていると、胸が換気される心地だった。暑い中で汗を流している間は、余計なことを考えなくていい。呪いの恐怖からも、笹山の事故の衝撃からも、今は解放される。
おじさんがコンテナを軽トラに詰みながら。徐に問いかけてきた。
「日和くんは大学生だっけか。都会でひとり暮らしだって?」
「はい。大学では福祉の勉強をしてます」
「はあ、立派だな。うちの修平なんか『勉強すんのやだ』っつって進学しなかったし、農業を継ぐつもりもないし、結婚する宛てもないし……」
おじさんが冗談めかして息子にため息をつく。僕は苦笑いで聞いていた。結婚の宛てがない、というならば、おじさんは相川と倉田の想いは知らないのだろうか。なんて、お節介なことを考える。
野菜を運ぶおじさんの太い腕に、血管が浮かぶ。
「君は、こういう田舎に住むつもりはないのか?」
「今のところは考えていません。過ごしやすい、良い村ですが」
「そうかあ」
おじさんは半ば残念そうに、それでいて少しほっとしたような口調になった。
「そうだなあ、そのとおりだ。この村は住むより、たまに遊びに来るくらいがちょうど良いのかもな。村の住民が次々に引っ越していくのも当然だ」
おじさんの言葉で、僕は村を出た谷口や、遠子のお母さんを思い浮かべた。そういえば相川も、進学やら就職やらの転機で村を出て行く若者は多いと話していた。おじさんの横顔から、汗が滴る。
「この村は、昔ながらの村社会的な考え方が強く根付いてる。村の仲間は家族同然だが、ひと度反感を買ってしまうと、途端に生活しづらくなる」
ぽつりとそう零したあとで、彼は晴れやかで豪快な笑顔を僕に向けた。
「なんて、そんなこと滅多にないけどな! うちなんかも、ご近所さんによくしてもらってる。日和くんも気が向いたらここで暮らしたらいい! なんならうちの子になるか?」
「あはは、それも楽しそうですね」
冗談に笑ってから、僕は慎重に訊ねた。
「……村を出て行った人の中には、暮らしにくくなって追い出されてしまった人もいるんですか?」
「さあな。俺にはなんとも言えない」
おじさんは、ただそうぼかすだけだった。僕はさらに問いかける。
「僕らのクラスメイトだった、谷口って奴、覚えてますか?」
「いや」
「遠子のお母さん……早坂さんって方は?」
「さあ」
短くて曖昧な返事をするだけで、おじさんはそれ以上話さない。僕は一旦言葉を呑み、質問を変えた。
「この採れたての野菜、今夜のカレーの具にしてもいいですか?」
「お、いいな! 夏野菜の具沢山カレー。旬の野菜は栄養たっぷりだからな、楽しみだ」
おじさんはまたおしゃべりになって、明るく笑ってみせた。
*
農作業の帰り、僕はおじさんと別れて農道を歩いていた。おじさんは野菜を積み込んだ軽トラで僕を送ってくれようとしたのだが、僕はお遣いの買い忘れを思い出し、寄り道したかったので、彼の申し出を断ったのである。
買い忘れていたたまごを買って、相川宅への帰路を急ぐ。午後の傾いた日差しが眩しい。山岳の谷間を飛んでいく大きな鳥の影を眺めていると、ふいに、頭上から声が降ってきた。
「ね、ねえ」
僕は立ち止まって周囲を見渡した。農道には僕の他に人影はなく、トウモロコシ畑が風に吹かれているだけである。ぐるっと一周辺りを見て、それから顔を上げ、ようやく声の主を見つけた。
僕が立っているすぐ脇の民家の、二階だ。古い木造建築のその建物の、半開きの窓から顔を覗かせる、痩せた男がいる。ぎょろっとした三白眼でこちらを凝視するその顔に、思わず肩が強ばった。男がまばたきひとつせず、僕を見下ろしている。
「ひ、ひ、日和くん。お、覚えてる? お、俺だよ。小野寺、信介」
彼のどもりがちな名乗りに、僕はハッとした。
「小野寺!」
小学校で同じクラスだった、そして今は引きこもりの、小野寺だ。驚いた、小野寺は部屋から出てこなくて、家族ですら何年も顔を見ていないと聞いている。だというのに、今、窓からその顔を見せているではないか。僕は驚きながらも、片手を上げて会釈した。
「久しぶりだな。元気にしてた?」
折角顔を見せたのだ、下手に刺激してまた引っ込まれてしまってはいけない。僕は野生の獣に近づくような気持ちで、そうっと接した。
「会えて嬉しいよ。今、たまたまこの村に遊びに来てたんだ」
「し、知ってる。たまに、窓から見えた、から」
「そうだったんだ。だったらもっと早く声かけてくれたら良かったのに」
すると小野寺は、フヒッと引き笑いして、窓から手招きした。
「玄関、開いてる。は、入って」
「え!?」
二度目の大声が出た。まさか家へ上げられるとは。引きこもって出てこない小野寺が、自ら、自分の城である部屋へ僕を招待するなんて。僕は困惑しつつも、頷いた。
「分かった。お邪魔します」
チャンスだ。彼の家族の悩み、小野寺の引きこもりを解消できるかもしれない。その役目がなぜ僕なのかは全く分からないが、断る手はない。
僕は深呼吸して、小野寺家の引き戸に手をかけた。小野寺の言うとおり、鍵はかかっていない。彼以外の家族の気配もない。
初めて入った家で、誰からも迎えられず、靴を脱ぐ。なんだか空き巣に入ったみたいな罪悪感と緊張感がある。入ってすぐ、二階へ続く階段があった。古い木の階段に足を踏み込むと、ギシッと軋む音がした。ギシ、ギシ、と一段ずつ上り、二階に上がる。三つある扉の内ふたつは半開きになっていたが、ひとつだけぴったり閉ざされている。その物々しい雰囲気に、僕は余計に肩が強ばった。閉まっている扉を、恐る恐るノックする。中からざらついた声がした。
「開いてる」
「入るよ」
僕はドアノブを握り、その扉を押し開けた。そして、中に広がっていた光景に、息を呑んだ。
電気の点いていない薄暗い室内に、煌々と光る五つのモニター。壁を埋め尽くすパソコン機材がずっしりと部屋を圧迫し、床には無数の雑誌やゴミが散乱している。部屋のいちばん奥のモニターの前に、細い男のシルエットが浮かぶ。
「ようこそ……」
小野寺の口角が吊り上がる。僕は妙に緊張して、部屋の一歩手前で硬直していた。小野寺がぼそぼそと低い声を出す。
「扉、閉めて。外の光が廊下の窓から入って、ま、眩しい、から」
「あ、ごめん」
僕は促されるまま、部屋に入って扉を閉めた。廊下の窓の光がなくなると、カーテンの閉まった室内はより暗くなり、モニターの明かりだけが光源になる。
機材の唸る音が狭い室内に篭る。この山中の村の、昔ながらの木造住宅には、ギャップのある光景だ。ゴミだらけのせいか、小野寺自身が風呂に入っていないのか、鼻につんとくる匂いが漂っている。暗くて足元が見えず、動けない。黙って座っている小野寺に、僕から会話を切り出した。
「小野寺。僕が村に来てたの、よく気づいたね」
「うん、外を歩いてる人の声、け、結構、響くから。相川くんと倉田さんの声がして、もうひとり、声がしたから、ま、窓から覗いて……」
この辺りも、相川と倉田と一緒に訪れている。僕からは気にもとめていなかったが、小野寺はこの部屋から僕の姿を見ていたのだ。
背中にモニターの光を背負った小野寺は、逆光となって顔が翳って見える。枝のような細い腕のシルエットが、微かにカタカタ揺れている。久々に人と会話をして、緊張しているのだろうか。突然彼と会う僕だってぎこちなくなるので、お互い言葉に詰まり、会話がいまいち続かない。
壁を覆う機材が、ブーンと回転音を立てる。まるで外から来た僕を拒んでいるみたいに感じる。いきなり小野寺に「外に出よう」と誘えば、森本や倉田の二の舞になる。僕は当たり障りのない話題を探した。
「この部屋、すごいな。機械がいっぱいあってさ。小野寺、機械に強いんだな」
「この村、通信環境、わ、悪いから。いろいろ揃えてたら、普通より、多くなって、ふ、フヒヒ」
「機械を使いこなせる人、この村では珍しいんじゃないか。すごいよ。SEとかになれるんじゃない?」
「しゅ、趣味、だから、そこまでじゃない」
「このモニターは、なんで五つもあるんだ?」
「こ、これが、げ、ゲーム用、こっちはゲームしながら、他のユーザーとチャットする用。こっちのモニターでは掲示板の書き込み見て、こっちは作業BGM用の動画を流すPC、こっちのは、小説のバックアップ用のPC……」
小野寺がもそもそと、つっかえながら話す。僕は話を半分聞いて、もう半分でどうやって彼を外へ誘い出すか、どう会話を繋げるかと思考を巡らせていた。
「小説? 小野寺が書いてるのか」
「うん、そう……小説の、投稿サイトで、へへ……」
「すごいじゃないか。機械に強いだけじゃなくて、小説も書けるんだな。じゃ、SEじゃなくて小説家になりたいのか?」
「こ、これも、趣味みたいなもん、でも、書籍化したら……フヒ」
小野寺は痩せた足で貧乏ゆすりを始めた。僕はまた、話題を探る。
「ゲームができて、小説も書けて、快適そうだな。たしかに部屋から出たくなくなっちゃうよな」
思い切って、本題に踏み込む。
「聞いたよ、小野寺、もう何年もこの部屋に引きこもってるんだって?」
「そ、そんなことないよ。廊下に置かれた食事、取るために、扉、開けるし、トイレとか、行くし。か、家族がいない時間に、だけど」
「そうか。皆、心配してるぞ。たまには元気な姿見せてやったら? 今こうして、僕には会ってくれてるんだしさ」
外へ出るように促してみる。そう簡単には聞いてくれないだろうが、なぜか僕はこの部屋に入ることを許されたのだ、交渉だけはしておく。しかし攻めすぎたか、小野寺は下を向いてしまった。僕は咄嗟に次の言葉を探す。
「あ、いや。無理に出てこいっていうんじゃないよ。ただ、皆も会いたいんじゃないかなって思っただけ。僕も会いたかったし、会ってもらえて嬉しかったし……」
「引きこもっていれば、安全だから」
小野寺の貧乏ゆすりが、激しくなる。
「ここにこうして篭っていれば、こ、殺されないでしょ。お、俺は弱いから、こうでもしないと、身を守れない」
「……なに、言ってるんだ?」
ガタガタガタガタと、椅子が大きく振動する。
「あのね日和くん、俺なんかが、こ、こんな話したら、気持ち悪いって、思われるかもしれないけどね。実は俺、り、理沙ちゃん……み、宮崎さんのこと、好きだったんだよ」
「えっ。そうだったのか」
唐突な告白、機械の唸る音、蒸し暑さ。貧乏ゆすりから伝わってくる、微かな床の揺れ。異様な情景に、僕は冷や汗をかいた。
「だから、ね。理沙ちゃんの死を、許すわけにはね、い、いかないんだ。だから、生き残らなきゃならない。でも弱いから、戦えないから、こうして、ここに閉じこもってるしかできない……」
「弱いとか戦うとか、どういう意味? 誰も小野寺を殺したりしないよ」
僕は、はは、と引きつった笑顔で言った。急に、小野寺の貧乏ゆすりが止まる。
「日和くんだったら、助けてくれると思った。村の外の人だから」
『村の外の人だから』。同じ言葉を、笹山も口にしていた。
「だから、君だけがひとりでいるときを狙って、声かけた……」
小野寺は俯いたまま、妙にはっきりした声で言う。
「日和くんなら、この呪いを、止められるかも、って」
「呪い?」
その単語に、どきりとさせられる。
小野寺は伏せた顔を上げ、フヒッと喉の奥で笑った。
「携帯、貸して」
「え……」
僕は困惑しながらも、ポケットから携帯を取り出した。他人に手渡すのは躊躇するが、ここで下手に小野寺を拒絶してもまずい気がする。携帯を差し出すと、小野寺はなにやら操作を始めた。僕の携帯の明かりに照らされて、小野寺の痩せこけた顔が浮かび上がる。
数秒もすると、彼はがりがりの腕を伸ばして、僕に携帯を突き返した。
「はい。ブックマークに、俺の小説、入れた。よ、読んでね」
「え、小説?」
先程話していた、投稿サイトだろうか。僕が戸惑っているうちに、小野寺が立ち上がる。
「フヘ、相川くんから、着信入ってたよ」
「え! マジ?」
僕は返された携帯の画面を見た。たしかに、数十分前に相川から電話が入っていて、メールも数件届いていた。全然気づかなかった。小野寺は僕の脇から部屋の扉を開け、僕を押し出した。
「じゃあね、日和くん。小説、読んでね。ぜ、絶対だよ。書籍化したら、さ、サイン本、あげる」
僕を廊下に閉め出し、彼はまた部屋に篭った。ドアノブを捻ってみたが、もうすでに内側から鍵がかけられていた。急に部屋に呼んだと思ったら、今度はこれだ。なんて身勝手なのだろう。できれば部屋の外へ誘い出したかったが、それは聞き入れてもらえそうになかった。それどころか、こちらの誘いなど殆ど聞き流すばかりで、一方的に意味不明な発言ばかり立て並べていた。一体なんのつもりで僕を入れたのだろう。
しばらく悶々としていたが、とりあえず相川からのメールを確認する。チャット画面の相川のアイコンから、「今どこ?」「親父と母ちゃんが心配してんだけど」と吹き出しが並んでいた。「ちょっと寄り道してた。今から戻る」と返信して、僕は小野寺の家をあとにした。
*
急いで相川の家に帰り、夏野菜カレーを作った。相川によれば、僕の帰りが遅いせいでおばさんが心配し、軽トラで送らなかったおじさんが叱られてしまったらしい。あわや夫婦喧嘩といったところだったみたいだ。相川曰く、いつものことだそうだが、僕は自分が携帯を見ていなかったのを反省した。
その夜、僕が布団を敷いていると、風呂上りの相川が問うてきた。
「で。お前、どこまでたまご買いに行ってたの?」
「遅くなったのは謝ったろ」
「寄り道してたって言ってたけど、この辺に寄り道したい場所なんかないだろ」
問い詰められて、僕は敷布団の淵を握ったまましばし逡巡した。小野寺に会ったことは、まだ相川を含め誰にも話していない。夕飯時にさらっと話しそうになったが、思い止まったのだ。
『日和くんだったら、助けてくれると思った。村の外の人だから。だから、君だけがひとりでいるときを狙って、声かけた……』
小野寺がああ言ったのだ、相川と倉田がいないときでないと、僕を呼べなかった。理由は聞けなかったが、同じく「村の外の人だから」僕との面会を許した笹山は、相川と倉田がいたのを知って激怒した。そうならば僕が今日彼に会ったことも、村の中の人である相川には言わない方がいい気がする。僕は敷布団の淵を畳に着地させた。
「村を歩いてたら、懐かしくなってね。散歩したくなっただけ」
「嘘くさいな。ま、別にいいけど」
相川はそれ以上聞いてこなくなった。
僕は布団に枕を置き、携帯を手に取った。そういえば、小野寺が僕の携帯になにやら登録していた。たしか、彼が書いた小説だったか。たしかに、僕の携帯からインターネットに接続すると、ブックマークに見慣れないページ名が増えていた。
アクセスしてみると、小説投稿サイトの中の、作品ページが表示された。どうも一般ユーザーが誰でも自由に小説を書いて投稿できるサービスのようで、小野寺は『オノデラ』というユーザー名でアカウントを取っていた。表示されている彼の作品のタイトルに目をやる。
「『タイムカプセル』……」
あらすじは書かれておらず、どんな内容かも想像できない。ひとまずページを捲る。舞台は田舎の小学校、主人公はそこに通う六年生の少年だ。最初のページでは、彼のクラスの様子が描写されている。が、正直、読めたものではなかった。ともかく、文章としてまとまりがない。登場人物が一気に出てきて、台詞がごちゃごちゃに配置されて誰が話しているのか分からないし、単純に誤字脱字が多い。
一ページ目を読むだけでも四苦八苦していると、横に布団を敷いた相川が喋り出した。
「カレー、美味かったけどさ。本当、気を使わなくていいんだからな。うちの親父と母ちゃんは、日和が来て喜んでる。なんかこう、孫が会いにきたときのジジババみたいな感じ」
「そうか? まあでも僕としては、世話になってるんだから今日は遣ってもらってむしろ気持ちが楽になったよ」
話しながら、携帯に映っていた投稿サイトを閉じる。
「相川にも、そのうち恩返ししないとな。こうして部屋を間借りしてるだけでなく、遠子のお母さん捜しも付き合ってもらってるんだから」
「ああ、そうだなあ」
相川は枕を抱き、にっと笑った。
「そんじゃ、いつか俺が東京に遊びに行ったら、日和の部屋に泊めてよ」
「お、いいね」
「日和が俺の部屋に泊まった日数と同じだけ連泊するからな。そんで東京を案内してよ。いろんなとこ、連れていって」
「あはは、なんかそれ恩返しっていうより、僕も楽しみだな」
炎天下で体を動かしたおかげだろうか、その夜は、ぐっすりよく眠れた。明日からまた気持ちを切り替えていけそうな気がする――この夜までは、そんなふうに思っていた。
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