◆4
「はあ、舞奈のお友達、ですか」
玄関を開けて僕らを迎えた青年は、驚いた顔で言った。僕に代わって、倉田が頭を下げる。
「突然の訪問ですみません」
「いや、君は倉田さんの娘さんだよね。覚えてるよ、妹と同じ学年だった。立ち話もなんだから、どうぞ、上がって」
青年――笹山舞奈のお兄さんは、僕らを家に招き入れた。
笹山の家は、村の東側にある。葉月商店から十分ほど、まだ高い太陽に向かって歩いて、ここへ辿りついた。比較的新しいきれいな一軒屋で、庭には広い花壇があったが、手入れはされておらず枯れた花がらがそのまま植わっている。
笹山のお兄さんは、弘幸さんと名乗った。僕らを居間に通し、お茶の仕度を始める。
「あの、こっちが急に来たんだからお構いなく」
僕が言うも、彼はキッチンからにっこり微笑んで返した。
「ううん。久しぶりに若い人が訪ねてきてくれて嬉しい。舞奈のこと、心配してくれてるのもありがたいよ」
居間はそれなりに広いものの、どこか生活感がなかった。壁際に埃の積もったオルガンがあり、部屋の脇には押し込まれるように座布団が詰まれている。長い間使われずに眠っているのだと、ひと目で感じ取れる。ふと、オルガンの上に飾られた写真立てに目が留まった。若い夫婦と幼い兄妹が写った家族写真が収まっている。ただ、その写真立ての表面を覆うガラスにはひと筋のひびが走っていた。
「ああ、これ?」
グラスの入った麦茶を運んできた弘幸さんが、僕の視線に気づいて写真立てを見た。
「これね、舞奈が癇癪を起こしたときに割っちゃったんだ。ごめんね、お見苦しいところをお見せして」
「あ、いえ。すみません」
僕はつい写真から目を逸らし、咄嗟に謝った。
ここに来るまでの道中で相川から聞いたのだが、この写真の中の父親は、娘の癇癪を理由に離婚し、村を出て行っているそうだ。娘の舞奈は中学に進学した頃から入院しており、今はこの家は、母親とこのお兄さんしかいない。母親は娘の入院費を稼ぐために昼も夜も働いていて、村では殆ど姿を見ないという。家庭の事情が筒抜けになる村の社会にぞっとしつつ、僕は妙な同情を抱えてその話を聞いていた。
弘幸さんが座布団に腰を下ろす。
「それで、今日はどうしたの?」
「はい、笹山……舞奈さん、今どうしてるかなって」
僕は慎重に、言葉を選んだ。
「僕は小学校卒業時に引っ越してしまって、昨日久しぶりにこの村に来たんです。そしたら舞奈さんが入院中だって知って。不躾で申し訳ないんですが、様子を知りたかったんです」
呪いだとかは触れずに、事情を説明する。弘幸さんは少し、嬉しそうに頬を上げた。
「そうだったんだ。そっか、舞奈、こんなに優しい友達を持っていたんだなあ」
本当はそんなに仲が良かったわけではないが、弘幸さんにはそう聞こえたらしい。彼はひと口、麦茶を啜って、ゆっくり話した。
「舞奈の体調は、生憎なかなか良くならない。僕が面会に行っても、下を向いてしまって殆ど話ができない。まあ、最初の頃なんか面会室に来てすらくれなかったから、それでも良くなった方だけれど。そんな状態で、もう八年くらい経つ」
相川が目を丸くした。
「そうか、中学に入学した年に入院して、今もずっとそのままなんだから、もう八年か。八年も病院にいたら、逆に精神をやられそうじゃないか? 俺だったら、広くて空気のおいしいところで自由にさせてほしいけど」
「もちろん、舞奈をこの村に連れ戻せないか、医者と相談しているよ。この自然豊かな村でのびのび過ごしたら、舞奈の心も軽くなるんじゃないかって」
弘幸さんは息をつき、窓の外の庭木に目を向けた。
「でもだめだった。『村に帰りたくない』って、泣いて拒絶する。よっぽど、理沙ちゃんの死がトラウマになってるんだろう」
彼の話を聞きながら、僕は冷たい麦茶に口をつけた。笹山はこうなったのは、親友だった宮崎の死に強いショックを受けたからだと聞いている。無理もない、この狭い村の中、近くで育った友人だ。笹山にとって宮崎がどれほど大きな存在だったかは、想像に難くない。
「僕も舞奈のところへ見舞いに行って、本人から話を聞こうとした。けれど『もう許して』って泣いてるばかりでね。なにを後悔しているのかは分からないけど、誰も責めてないよって宥めても、『でも理沙は死んだ』と叫んで、震えてる」
『もう許して』? なにか引っかかる。友人の死に心を傷めているというより、まるで次は自分の番かと怯えているような、そんなふうに聞こえる。
弘幸さんが宙を仰ぐ。
「母から聞いた話では、理沙ちゃんは舞奈と遊びに行く約束をしていた前日に亡くなったらしい」
「そうだったんですか」
僕は下を向いて、麦茶に浮かぶ氷を見つめた。遊ぶ予定だった友人がその日にはこの世にいない、突然の出来事に、笹山はどれほど衝撃を受けたことだろう。遠子をいじめていた笹山はやはり嫌悪感を拭いきれないが、それはそれとして、彼女の境遇にも胸が痛くなる。弘幸さんは、麦茶のグラスを口元で傾けた。
「なんでも、ふたりで遠くまで出かけるつもりだったんだとか。小学校の頃同じクラスだった女の子の、お母さんに会いに行くだとか……」
「え!?」
弘幸さんの言葉に、僕は思わず背筋を伸ばした。
「同じクラスだった女の子……それって、遠子ですか!?」
僕らのクラスは九人で、さらに女子に絞ると五人しかいない。そのうち宮崎と笹山を除き、さらにこの村にまだ家族が住んでいる倉田と森本もないとすると、消去法で遠子しかいない。弘幸さんがこくっと頷く。
「そうそう、そんな名前だった。遠子ちゃんのお母さんはもう引っ越してこの村にはいないそうだけど、理沙ちゃんが引越し先の住所を突き止めたんだって。なんでわざわざ会いに行くつもりだったのかまでは分からないし、舞奈に訊いても言わないんだけどね。理沙ちゃんが亡くなって、当然予定もパアになったし……」
彼ののんびりした語り口を聞きながら、僕は驚きと興奮で今にも立ち上がりそうになっていた。宮崎と笹山は、僕らと同じく遠子のお母さんに会いに行く予定を立てていたのだ。しかも宮崎は、遠子のお母さんの家を特定している。村役場のお父さんを使ったのかなんなのかは不明だが、ともかく、その場所へ行くつもりだったのだ。
つまり、一緒に行く予定だった笹山も、場所を知らされている。
僕らの面持ちを見回し、弘幸さんはそうだ、と切り出した。
「君たち、舞奈に会いに行ってくれないか?」
彼は座布団から立ち上がり、棚の上に詰まれていた封筒をひとつ、持ってきた。病院からの書類が入っていたらしいそれには、笹山の入院先の住所がはっきり記載されている。
「仲が良かった友達がお見舞いにきてくれたら、舞奈がまた元気を取り戻してくれるかもしれない。もちろん、君たちさえ良ければだけど」
「行きます」
僕は条件反射のごとく素早く反応した。
「ぜひ、会って話したいです」
「ありがとう。きっと舞奈も喜ぶ」
弘幸さんは封筒に書かれた住所をメモ用紙に書き写し、僕に持たせてくれた。
*
「宮崎と笹山、遠子の母ちゃんの引越し先を知ってたんだな」
笹山の家をあとにして、畦道を歩く。相川が僕の手の中のメモ用紙を睨んだ。
「なにしに行くつもりだったんだろう。遠子をいじめてたこと、謝りに行こうとしたのかな」
「分からない。とにかく、笹山に会って遠子のお母さんの居場所、聞き出そう」
僕はメモに書かれた住所に目を落とした。葉月村と同じ山梨県内ではあるが、電車を使って片道一時間くらいの距離だ。
倉田が携帯で、病院のホームページを確認している。
「心療内科の入院患者さんは、私物は着替えくらいしか持ち込めないみたい。当然、携帯も持ってないみたいだね。事前に連絡なくいきなり行くことになるから、びっくりさせちゃうかも」
「うーん、病院に先に連絡しとくか。看護師さんから笹山に伝えておいてもらえれば、心の準備しといてくれるだろ」
僕はそう言って、自分の携帯をジーパンのポケットから取り出した。弘幸さんのメモには、住所と並んで電話番号も書かれている。
突然病室を訪ねて、怖がられてもいけない。なにせ、あの優しい雰囲気のお兄さんでさえ怯えられて、まともに会話できないというのだ。僕では顔を合わせてもらえるのか、会ったところで話せるか、それすら分からない。でも、行かない手はなかった。遠子のお母さんに辿りつく、大きなヒントなのだ。
見舞いに行く理由はそれだけではない。笹山の家の枯れた花、娘がいた頃のまま時間が止まっているような室内、あの家の家族は、今や寝に帰っているだけなのだろう。お兄さんも相当疲れている。突然訪ねてきた僕らを家に上げたくらいだ、妹の舞奈を少しでも気にかける存在に、安心しているように見えた。少し話しただけなのに、同情の念が湧いてくる。
自分に笹山を元気にする力なんかないが、なにもしないのは嫌だ。遠子のお母さんや、呪いとか、自分が気になっていることを抜きにしても、病気の笹山を放ってはおけない。
「いつ行く?」
倉田が訊いてくる。僕は病院に電話しかけた手を止め、答えた。
「今から」
「行動が早いね」
「だって、明日以降にする理由はとくにないだろ。夏休みは短いんだ、できるだけ駆け足で行動するに越したことはない。一応、病院の都合は聞くけど」
「片道一時間だしね。お昼は出先で食べようか」
そうと決まればあとは行動に移すだけだ。僕は弘幸さんのメモを見て、病院に電話をかけた。相手はすぐに応答した。
「はい、つきとじ病院です」
「はじめまして、そちらに入院している笹山舞奈さんのお見舞いに伺いたくてお電話しました。日和と申します」
それからいくつか質問を受けた。小学校の同級生であることと、兄の弘幸さんの紹介であるとも説明すると。笹山にとって悪い刺激にならないと判断されたようで、面会を許された。電話の向こうで、看護師らしきその人が笑う。
「笹山さん、いつもは面会を嫌がるのだけれど、相手が日和さんだって聞いたら、会いたいって言ってくれました。よほど大切なお友達なんですね」
正直、耳を疑った。僕と笹山はそれほど接点がない。彼女が「僕だから」許す理由が、全く見当たらない。しかしあっさり許可してもらえたのはありがたいので、とりあえず良かった。時間等打ち合わせをしていると、横で黙って待っていた倉田が、ふと顔を上げた。
「あ、森本さんがいる。おーい」
見晴らしのいい村の道の先に、森本の姿を見つけたようだ。僕もそちらに顔を向けると、木造の二階建ての家の前に、白いミニバンが停まっているのが見えた。そこに森本らしき姿と、杖をついたおばあちゃんが佇んでいる。ミニバンには、介護施設らしき名前が刻まれていた。
「デイサービスのお迎えが来たんだね」
倉田が森本のいる方へと駆けていく。僕と相川は、その背中を眺めていた。電話を終えた僕が携帯を下ろすと、相川がぽつりと呟いた。
「森本、倉田には頭上がらないだろうな。この村でやっていけるのも、ああいう施設の支援を受けられるのも、倉田ん家のおかげだからな」
「そうなのか?」
僕が相川を振り向くと、彼は小声で続けた。
「うん。深夜徘徊とかすごくて、一時、村の人からかなり偏見の目を向けられてたんだけどさ。倉田のお父さんが会合で村の人たちを説得して、みんなの理解を得たんだよ」
「へえ。流石、人望があるんだな」
「施設の利用にも、利用者の健康状態とかお金の問題とか、いろいろ条件があるらしいんだけどな。森本の家のおばあちゃんは本当は微妙に基準を満たしてないんだよ。でも、ここいらの地主である倉田の家が融通利かせてる部分があるとかないとか……」
それを聞いて僕は、改めて、昨日見た倉田の実家を思い出した。子供の頃にもちゃんと見ていなかったし意識もしていなかったが、倉田は結構なお嬢様で、実家の権力は僕が思う以上に強いみたいだ。相川がちらと僕を一瞥する。
「笹山の兄ちゃんがあっさり俺らを家に上げてくれたのも、多分、倉田がいたから。この村の人たちはみんな、倉田ん家にお世話になってんだ」
「倉田ってすごいんだな……」
倉田の実家の力もすごいが、それを鼻にかけず、明るく朗らかな倉田自身の人柄も尊敬する。家の権力云々を差し引いても、倉田を好きになる人は多いのではないかと思う。例えば、相川とか。
森本の家の前からミニバンが走っていく。倉田は森本と話しはじめ、僕らの声は届いていない。僕は徐に、相川に問うた。
「相川。僕が引っ越していなくなって、倉田はこの村にいた頃、なにか進展はあったのか?」
「は!?」
相川がいきなり大きい声を出した。僕はそのままのトーンで続ける。
「まあ、付き合ってる様子もなければ玉砕した様子もないし、平行線だったんだろうけど」
「いやいや、なに言ってんの。そんなまるで、俺が倉田を……」
照れ隠しなのか、相川が早口になる。それが面白くて、僕はさらに煽った。
「だけじゃなくて、倉田も相川のこと好きなんじゃないか。子供の頃だって、よくじゃれあってただろ」
神社でかくれんぼしたとき、隠れていた僕に気づかずに、ふたりだけで内緒話をしていた。僕は未だにそれを覚えている。相川はかあっと顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。
「バカ。鈍感のくせに、分かったような口利くな」
「鈍感は認めてもいいけど、バカは相川の方がバカだろ」
「それはそうだけど……」
そんなやりとりをしていると、倉田が戻ってきた。
「お待たせ。なんか盛り上がってたね。なんの話してたの?」
「相川がバカだって話。倉田の方こそ、森本となに話してたんだ?」
僕が訊くと、倉田は森本の家の方に目をやった。
「森本さんのおばあちゃんの具合の話。あ、あと小野寺くんの話もちょっと」
「小野寺?」
小学校の頃の同級生のひとり、小野寺信介。今もこの村にいるが、たしか自室に引きこもって出てこないのではなかったか。倉田が頷く。
「森本さん、小野寺くんのおじいちゃんと話す機会があったらしくてね。小野寺くんが出てきてくれるように説得してくれーって泣きつかれたって」
「なんで森本に頼むんだよ」
「家が近いのと、森本さんがしっかり者だからかな。おじいちゃんにそう言われるの、もう挨拶みたいなものだって」
森本も大変だ。真面目だから、近所の人たちから一目置かれるのも分かる。倉田は苦笑いで続けた。
「以前、私からも小野寺くんに部屋から出てきてくれるように呼びかけたんだけどね。全然だめ。途中から返事もしてくれなくなったの」
それを受けて相川が腕を組む。
「俺だったら、倉田に呼ばれたら出てきちゃうな」
「まあ相川ならそうかもな」
僕は妙に納得して、上手く思い出せない小野寺の顔を思い浮かべた。小学校の頃から陰気な印象の奴ではあったが、まさかここまで重い引きこもりになっていたとは。
相川がすたすた歩き出した。
「小野寺なんかどうでもいいけど。それより、そろそろ昼のバスの時間だぞ。バスは一日三本しかないんだ、これを逃したら今日じゅうに笹山の見舞いに行くの厳しくなるぞ」
「そうだった。急ごう」
村の端っこの唯一のバス停に向かって、僕らは夏の農道を走り出した。
*
バスで二十分山を下り、小さな無人駅から四十分。携帯の地図アプリを頼りに、ようやく辿りついた。僕は弘幸さんから貰ったメモと、病院の外壁の看板を見比べた。
「『つきとじ病院』。ここで間違いない」
寂れた街道の一角に、それは建っていた。広い敷地を持った四階建てのその建物は、よく見ると一部の窓に鉄格子が嵌っている。僕の横では、相川が駅で買った焼きそばパンを頬張っていた。
「村を出るからにはもっと都会の景色を見られると思ったんだけど、ここの結構田舎だな。葉月村ほどではないけど」
相川が求めるような高い建物のある景色は、電車で通り過ぎた。倉田が不安げに言う。
「会わせてもらえるかな。お兄さんの弘幸さんだって、最初の頃は会えなかったって言ってたよね」
「病院にアポイントの電話をしたら、すんなり許可してもらった。きっと大丈夫だ」
やっとここまで来た。笹山は、遠子のお母さんの行方を知っている。彼女が教えてくれれば、僕は目的の場所へ行けるのだ。そう考えたら、妙にどきどきしてきた。
病院の物々しい佇まいをしばし見上げ、エントランスへと向かう。受付では、僕らを待っていた事務員に驚かれた。見舞いに来るのは僕ひとりだと思われていたようだ。言われてみれば、電話をしたとき、僕は「三人で行く」とは話していなかった。だが相川と倉田も、僕と同じく同級生だ。問題はない。
受付を済ませると、面会室に通された。部外者は入院患者の病棟には入れないらしく、患者の方が面会室に来る形を取るそうだ。面会室は、大きなテーブルがひとつあり、それを囲む形で椅子が並んでいる。僕らは各々椅子に腰を降ろし、笹山が来るのを待った。やがて扉が開き、その向こうに看護師ともうひとり、僕らくらいの歳頃の女性が姿を表した。看護師に肩を支えられているその人は、ぼさぼさに乱れた黒い髪を後ろでひと束に括り、桃色の草臥れたパジャマを着ている。大人になってすっかり見た目が変わっているが、すぐに分かった。
「笹山。久しぶり」
僕は椅子から立ち上がって、彼女に会釈した。会ってくれて良かった。面会を拒否されてもおかしくなかったのに、受け入れてもらえて良かった。
しかし、安心したのも束の間だった。
「……どうして」
肩を掴まれている女――笹山が、青い顔になる。
「裏切ったの!? 酷い!」
「えっ!?」
突然絶叫した笹山に、僕はびくっとたじろいだ。相川と倉田も、笹山を連れてきた看護師も、声を呑む。笹山は面会室に入りたがらず、ドアの手前で肩をいからせていた。
「酷い、酷い! 私を殺すつもりね。酷い」
「どうしたんだ笹山。違う、僕はただ……」
僕は笹山を宥めようと、彼女の方へ足を踏み出す。だが余計に警戒させてしまったようで、笹山は看護師を突き飛ばし、廊下を駆け出した。
「来ないで!」
「くそ、なんでだよ」
僕は半ば椅子を蹴飛ばすようにして、面会室を転がり出た。尻餅をついて立ち上がれずに居る看護師に代わって、笹山を追いかける。笹山は足を絡ませながら、もたもたと廊下を走っていた。
どうしてこうなった。笹山は、僕の名前を聞いて、会いたいと言ってくれたはずだった。それがどうして急に、会った途端この態度か。意味が分からない。
入院生活が長い笹山は、運動不足もあってかすぐに追いついた。僕は手を伸ばし、笹山の痩せた腕を掴む。
「なんで逃げるんだよ!」
「放して!」
「怖がらせたなら謝る。でも、どうして怖かったのか教えてくれ。僕は笹山を殺しにきたんじゃない」
今の笹山は精神的に不安定だから、急に僕が怖くなったのかもしれない。まずは冷静に、話せる状態になってもらいたい。なんとしてでも、遠子のお母さんの居場所を聞き出したい。
僕に腕を掴まれた笹山は、しばし震えながら僕を睨んでいた。怯えてひいひいと音を立てて激しい呼吸を繰り返している。彼女はやがてくたっと膝を折り、床に座り込んだ。
「騙したのはそっちじゃん……」
「騙した?」
「あんたは、日和は村の外の人だから、もしかしたら、って思ったのに」
震え声を出す笹山を見下ろし、僕は呆然としていた。
「ひょっとして、相川と倉田を連れてきたのが嫌だったのか」
後ろから足音が聞こえる。看護師が立ち上がって、こちらを追ってきたようだ。僕は笹山の怯えた目に言った。
「先に言わなかったのは悪かった。騙したつもりはないんだ」
「じゃあ、どういうつもりなの」
「どうもこうも、ふたりも笹山が心配で見舞いに来たんだよ。そういえば笹山、村に帰りたくないって言ってるそうだな。でも相川も倉田も、連れ戻しにきたんじゃない。だからそんなに怖がらずに……」
そこへ、僕の背中の向こうから、倉田の声がした。
「笹山さん」
彼女の優しい声に、笹山の腕に力が入る。看護師も追いつき、僕に代わって笹山の体を支えた。倉田が僕の横にしゃがむ。
「急に訪ねてきて、驚かせちゃったね。ごめんね」
子供に語りかけるような、柔らかな声色だ。だというのに、笹山の顔はみるみる青ざめていく。
「ごめんなさい。理沙の分まで私が償うから……一生、私のせいでいいから」
理沙。宮崎の名前を出して、笹山は小さくなった。倉田がまた、優しく語りかける。
「大丈夫だよ。私、ただあなたに会いに来ただけ。元気かなって、ちょっと話したかっただけなの」
倉田を見つめる笹山は、徐々に呼吸が落ち着いてきた。彼女を背中から支える看護師も、少しだけ安心した顔になる。
「笹山さん、少し休みましょうね。お見舞いの皆さん、すみません。笹山さん、今は容態が安定しないみたいなので、申し訳ないけれど今日はもう……」
「はい……」
僕は大人しく項垂れた。折角ここまで来たのだから、話をしたかった。でも笹山の体調が最優先だ。この様子では遠子の名前を出すのすら危うい。彼女が話せる状態にないのなら、仕方がない。笹山は看護師に寄りかかって、おぼつかない足取りで入院病棟へ戻っていく。その丸まった背中を見届け、僕も踵を返した。今日はもう、諦めて帰ろう。遠子のお母さんの件は、後日改めて、笹山の調子がいいときに訊こう。
エントランスに戻り、病院の出入り口へ立った、そのときだった。
「待って! 誰か! 捕まえて!」
看護師と思しき女性の声が響いてくる。振り向くと、廊下に倒れている看護師とそれを介抱する別の看護師がいた。傍には金属製のポールが横たわっている。そしてそこから、こちらに向かって走ってくる、桃色のパジャマの影があった。
看護師が叫ぶ。
「笹山さん!」
逃げた笹山は、大声で喚いた。
「もう嫌なの。怖いのは嫌! このまま、一生このままなんて!」
桃色のパジャマは、僕が立つ出入り口のガラス戸を通り向けた。僕が手を伸ばしてももう遅い。彼女はぼさぼさの髪を振り乱し、病院の外へと飛び出していく。
絶句する僕より先に、相川が動いた。笹山を捕まえようと駆け出す背中が遠くなっていく。
笹山の背中が道路に飛び出す。倉田が息を呑み、相川が叫ぶ。
「危ない!」
直後、パーッとクラクションの音が鳴り響き、道路を走るトラックが笹山の体を宙に跳ね上げた。
勢いよく飛ぶ彼女の体が弧を描き、再び道路に叩きつけられる。急停車したトラックが変な角度で道路に佇み、場は静まり返った。コンマ一秒間に合わなかった相川が、呆然と立ち尽くしている。
僕は、病院のガラス戸の脇で凍り付いていた。倉田も口を両手で押さえ、固まっている。道路には、笹山の体が突っ伏している。ほんの一瞬だっただろう。でも、長い間、時間が止まったみたいだった。
僕の横を、看護師や医者が抜けて、外へと出て行く。その気配にハッとして、僕もその場を駆け出した。相川の横を通り抜け、笹山の方へと駆けていく。倉田も追いかけてきた。
医者が道路に横たわる笹山の前で跪く。
「笹山さん、笹山さん!」
汗を握った僕も、歩道からその姿を覗き込んだ。笹山は頭から血を流し、首をぐったり逸らせている。どろっと閉じかけた目をこちらに向けて、血を滴らせた唇を開く。声になっていない、殆ど吐息でしかない声が、ひゅう、と漏れ出す。
「やっぱり、あなたは、かみさま」
それだけ搾り出して、笹山はふっと深く息を吐き、動かなくなった。
*
帰りの電車の中で、相川がぼやく。
「もう少し早く動ければ……」
「相川のせいじゃない。僕なんて、動けなかった」
あの面会のあと、病棟に戻されようとしていた笹山は一時大人しくなっていたという。しかし途中で過呼吸を起こし、廊下にあった点滴のポールを掴んで看護師を殴打、隙を突いて逃走した。「一生このままなんて!」――そう叫んで、笹山は病院を飛び出した。あとは僕らも見ていたとおりだ。
トラックにはねられた笹山は、病院で応急処置を受けて救急車で運ばれた。一命は取り留め、かろうじて心臓は動いている。しかし頭を強く打っているため、まだ意識は戻らないそうだ。
間近で見ていた僕たちは警察や病院から事情を訊かれ、それぞれ受け答えに追われた。見ていただけでどうにもできなかった自分が情けない。ようやく解放された頃には、日が沈みかけていた。
電車に揺られ、倉田がため息混じりに細い声を出した。
「誰も悪くないよ。きっと、誰も……」
それから、ひとつまばたきし、力なく微笑む。
「大丈夫、生きてはいるんだもの。また目を覚ましてくれるよ」
そうだ。笹山まで死んだら、遠子のお母さんの手がかりがなくなってしまう。倉田のいうとおり、笹山が目を覚ますのを祈るしかない。
車窓の外にうっすらと星が見える。ガラスには、疲れた顔をした僕たちが映っていた。僕の横で、倉田がぽつりと口を開く。
「……これも、呪いなのかな」
「遠子の?」
そんなこと考えている気力もない。倉田はおずおずと頷いた。
「宮崎さんの分まで償う、とか。一生このまま怖いのは嫌、とか。笹山さんの目には、遠子ちゃんが見えてるのかな」
倉田の言葉を聞いて、相川が青い顔をする。
「トラックにはねられたのも、遠子の呪いか……。病室にいれば安全だったのに、村から来た俺たちが、呪いを引き連れてきちゃったとか」
「そ、そうなのかな。私たちが来たらあんなに怯えたのは、そういうことだったのかな」
ふたりの会話を聞き、僕は下を向いた。本当に呪いなのか。遠子は自分を苦しめたクラスメイトに復讐すべく、呪いで苦しめているのだろうか。だとしたら。
「なんで僕からじゃないんだよ」
遠子をいちばん傷つけたのは、僕だったはずではないか。
僕の呟きを聞いて、倉田がこちらに顔を向ける。
「日和くんはきっと、恨まれてないよ」
「いや……」
そうだ、倉田には、僕が遠子を振ってしまった話をしていない。相川には話したのだ、倉田にも言うべきか。しかし僕が話し始めるより先に、倉田はすっと、左腕を掲げた。その細い手首で、きらっと、青い石のブレスレットが煌めく。これはたしか、タイムカプセルに入っていたものだ。
「覚えてる? このブレスレット。私と日和くんが初めて話したきっかけが、これだったんだよ」
「え、そうだっけ?」
「案の定忘れてる……」
倉田は懐かしそうに、ブレスレットを眺めた。
「このブレスレット、お父さんから買ってもらって、自慢げに学校に着けてきたんだけどさ。先生に見つからないように外したら、そのままどこかになくしちゃったの。放課後に捜し回ってたら、日和くんが一緒に捜してくれたんだよ。完全下校時刻を過ぎちゃって、ふたりで先生に怒られちゃった」
そうだっただろうか。全然覚えていない。相川がちらっと、ブレスレットに目をやる。
「それ、タイムカプセルから出してから、ずっとつけてるよな」
「そうだったのか」
それすら気がつかなかった僕は、間抜けな声で言った。倉田が苦笑いする。
「相変わらず鈍いね」
「ごめん」
「とにかくね、これは大事なものなんだ。日和くんと友達になれたから、相川くんや遠子ちゃんとも遊ぶようになった。このブレスレットは、私にそのきっかけをくれたもの」
ブレスレットが蛍光灯の光を反射する。
「これを見ると思い出すの。日和くんって鈍感だしちょっと抜けてるし、そのくせ変なところで強引だけど、困ってる人を放っておかない、優しい人なんだよなあって」
倉田は少しいじわるく僕を貶したあと、柔らかに言った。
「そんなあなたのいいところを、遠子ちゃんも知ってるはず。だから、日和くんは恨まれてなんかない。私が保証する」
面と向かって言われると、なんだか胸がもぞもぞする。僕は顔を伏せて、無言を貫いた。改めて、倉田はすごい。村の人たちの生活を支えている地主の家で育ったからだろうか、人を見て、褒めて、元気付ける力がある。相川や森本を含め、村の人々から愛される理由が分かる。村の人たちにとっては、神様かもしれない。
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