◆2

「なあなあ、ひよ……なんだっけ、ヒヨコくんだっけ。お前、都会から来たんだって?」

 小学五年生の夏休み明け。転校して早々、鬱陶しい奴に話しかけられた。

「俺、この村から出たことないんだ。あ、っつっても、バスで山の麓のモールには行くけどな! なあ、都会ってモールみたいなでっかい建物がいっぱいあんのか? ヒヨコくんの家もでっかい? そうだ、ヒヨコくん今日の放課後、うちに来いよ。モールで買ってもらったレアカード見せてやるよ」

 返事をする間を与えられずに一方的に喋られ、僕は困惑していた。すると、前の席からくすくすと笑い声が洩れてきた。声の主がこちらを振り向く。

「相川くん、ヒヨコくんじゃなくて、日和くんだよ」

 肩に着かないくらいのボブカットに、痩せた童顔。遠慮がちなはにかみ笑いで、相川をそっと窘める。

 その少女が、早坂遠子だった。

 遠子は大人しくて控えめで、声の小さい女の子だった。体も小さくて細い。運動は苦手だ。そして荒い言葉を遣わない、優しい子だった。

 座席が前後だったせいもあるが、彼女は、転校して間もない僕をなにかと気にかけてくれた。人懐っこい相川も初対面とは思えないくらい仲良く接してくれて、それからしばらくして倉田も一緒に遊ぶようになった。僕たちはいつも、遊んでいたのだ。

 

「タイムカプセルを埋めようって提案したの、遠子だっただろ」

 僕はヘアピンを握り締めて、地面に掘った穴にスコップで土をかけた。空き缶となったタイムカプセルが、地面に佇んでいる。

「それなのに、卒業式にはもう、遠子はいなかった。だから、代わりに僕が遠子の分を埋めたんだ」

 遠子は、六年生の夏、この世を去った。夏休みのある日、忽然と姿を消し、翌日、川の下流で遺体で見つかった。

「タイムカプセル、埋めようよ。大人になったら掘り返しにくるって、約束しよう。どこにいてもなにをしてても、その日は必ず、四人でここに集合するの。そうすれば、また会えるでしょ?」

 ヒマワリ畑で笑った彼女は、もうここにはいない。必ず会おうと約束したのは遠子だったのに、八年も前に約束を破ったのだ。だから僕は、タイムカプセルに遠子のものを入れた。

 タイムカプセルの空き缶を抱え、僕は踵を返した。スコップを担いだ相川と、ブレスレットを握った倉田がついてくる。

 ヒマワリのヘアピンは、八年前の八月、遠子の誕生日に僕がプレゼントしたものだ。今見ると幼いセンスというかちょっとダサいが、当時の僕はこれを麓のショッピングモールで見かけ、真っ先に「遠子に似合う」と直感した。衝動的に、少ないお小遣いを叩いて買って、遠子の誕生日に手渡したのだった。

 校舎の裏門から学校を出て、僕は裏山に向かった。五分も歩くと、山の斜面にずらりと並ぶ墓石が見えてくる。

 相川と倉田が言葉をなくしている。気持ちは分かる。これまで当時一緒に遊んだ話とか、クラスの奴らの話題で盛り上がったのに、遠子の名前は誰も口にしなかった。相川とのメールでのやりとりでも、大学で倉田と顔を合わせたときも、遠子は話題に上ったことはなかった。僕からも口にしない。あんなに一緒に過ごしたのに、誰も触れなかったのは、お互いに封印していたからだ。

 緩やかな斜面を登って、墓地に入る。振り向けば、田園の広がる葉月村の景色が見える。さほど高い場所ではないものの傾斜の上にあるおかげで、ここから村を一望できるのだ。緑豊かな土地に、ところどころ黄色い区画が広がる。村の自慢のヒマワリ畑である。

 並ぶ墓の中の、いちばん脇の墓石の前に立つ。「早坂家之墓」と刻まれたそれに、僕は手を合わせた。今日は花のひとつも持ってきてやれなかったが、次に来るときはヒマワリを持っていこうと思う。

「……敢えて言わないようにしてたのに」

 相川が力なく笑う。

「遠子が死んじゃってから、日和はまた転校初日に戻ったみたいに無口になっちゃってさ。今日も、せっかく久しぶりに会えるのに、遠子を思い出したらしんみりして暗い雰囲気になるかと思って……」

「うん、そうだよな。でも忘れたふりして、いなかったことにしたらだめだよな」

 僕は手を開いて、ヒマワリのヘアピンに目を落とした。

「僕がタイムカプセルにこだわったの、これを埋めてたからなんだ。また絶対、四人で会おうって、遠子と約束してたから。知らない工事業者に掘り返されたらたまったもんじゃないだろ」

 無事に遠子との約束を果たせてよかった。僕の手元を眺め、倉田がぽつりと言った。

「遠子ちゃん、ヘアピンなんて着けてたっけ?」

「いや、着けてるところは一度も見たことがない。これ、僕が遠子の誕生日にあげたものなんだ。次に遊ぶときに着けてくるって言ってたんだけどさ……」

 その前に、彼女は川で亡くなった。遺体を隠して行われた、お通夜を思い出す。狭くて人口の少ないこの村では住人全員が顔見知りなので、遠子が死んだときも、彼女の小さな家に代わる代わる、村の人たちが弔問に来た。僕もその中のひとりで、両親と一緒に訪れた。遠子のお母さんが部屋の隅で小さくなって、ひとりひとりにお辞儀していたのを今でも覚えている。

 遠子の家は、母子家庭だった。唯一の家族である娘を亡くした母親は、どれほどの感情を抱えていたのだろうか。当時の僕には、いや、今の僕にだって、想像できない。想像できる範囲を超えている。

 そんな中、僕はこのヒマワリのヘアピンを遠子のお母さんから返された。僕がこれを渡してから、遠子はとてもご機嫌だったという。とても大事にしてくれていて、川の水の中で冷たくなった遠子の手に、しっかりに握られていたそうだ。

「遠子は日和くんのこと、好きだったみたい。だからこれ、あなたが持っていてあげて」

 泣きながらそう言った彼女のお母さんは、このヘアピンを僕に託した。

 倉田がそっか、と呟く。

「遠子ちゃん、『日和くんからプレゼントを貰った』って喜んでたよ。でも私が『見せて』って言っても照れて隠しちゃうの。これがそのプレゼントだったんだね。ようやく見れた」

 僕が知らないところで、そんなやりとりがあったのか。遠子がこれを宝物にしてくれていたのだと思うと、胸にこみ上げてくるものがある。

 遠子の遺体が発見されたのは、彼女の誕生日の翌々日だった。葉月村の端を流れる川で、溺れ死んでいた。見つかったのはうんと下流だったそうだが、この村で溺れてそのまま流されてしまったのだろう。

 遠子は大人しい性格だったので、川に入って遊ぶような子ではなかった。だから多分、川にかかっている葉月橋から転落した事故だったのではないかと言われている。目撃者は誰もいなかったから、想像でしかないが。

 あの日を思い出すと、僕は罪悪感で死にそうになる。彼女を殺したのは僕だったのではないかと、そんな心当たりがあるせいで。

「僕、このヘアピン、遠子のお母さんに返そうと考えてるんだ」

「え、そうなのか」

 墓と向き合っていた相川が、目だけこちらに向ける。僕は小さく頷いた。

「僕にとっても遠子の形見だから、名残惜しいけどね。やっぱり家族の下にあるべきかなと思うんだ。遠子もお母さんの傍にいたいだろうし」

 それに、彼女の母親に会って、謝りたいことがある。

「そうか。でも遠子の家って……」

 相川は、いかんせん難しい顔をしていた。僕を挟んで反対隣の倉田も、眉を寄せる。

「引っ越しちゃったんじゃなかったかな。今はもういないと思う」

「え?」

 僕はまた、背後を振り返った。裾野に広がる村の景色に目を走らせ、遠子の家があった辺りを確認する。何度か彼女を家まで送ったから、場所は間違えないのに、どこにも見当たらない。遠子の家があった場所は、きれいに更地になっていた。

 唖然とする僕の横で、相川がスコップを杖にして姿勢を崩す。

「中学の頃だったかな、気がついたらあのとおりだったよ。娘の遠子が亡くなった村にいたくなかったのかな……」

「マジかよ。会って話したかったのに」

 この村に来た目的のひとつがそれだった。連絡先が分からなかったから突然の訪問になってしまうが、そのつもりで来ていた。

 ぽかんとして立ち止まっていた僕だったが、気を取り直して墓の前をあとにした。

「どこへ引っ越したんだろう。村役場に行けば記録が残ってるかな」

「仮に記録があったとしても、親族でもないのに住所教えてなんてもらえないだろ」

 相川の癖に正論だ。僕は斜面を下りつつ、考えた。

「それにしても、『気がついたらいなかった』って妙だな。この狭い村で、そんなことあるか?」

 面積が狭くて人口も少ない葉月村は、住民同士の関わりが濃い。なにかあればすぐ噂になり、あっという間に村じゅうに知れ渡る。僕が引っ越すときだって、まだ僕が話す前からすでにクラス全員が知っていた。

「なにか引っかかる」

「そうかあ? 遠子の母ちゃんが誰にも言わずに引っ越したんだとしたら、そういうこともあるんじゃねえの」

 相川はそう言うが、僕にはどうにも納得がいかなかった。


 *


 墓地をあとにした僕らは、再び相川の家に戻ってきた。畳の敷かれた居間に上がり、考える。ひとまず、手がかりになりそうなものがないか、思い出してみる。

「役場もあとで行ってみるとして、誰か知ってそうな奴、いないかな。遠子のお母さんと仲が良かった人とか……思い当たらないな……」

 考え込む僕の横で、相川が不思議そうに首を傾げた。

「そうまでして返したいのか? 日和が形見として持っていればいいじゃん」

「そうだけどさ、遠子のお母さんに謝りたいんだよ」

 僕は相川の顔に目をやった。

「遠子がいじめられてたの、知っててどうにもできなかったから」

『トロ子』。それが当時の遠子のあだ名だった。あの頃の日常を思い出すと、今でも息苦しくなる。遠子は、クラスメイトからいじめを受けていた。

 大人しくて物静かな個性の子は、往々にして、いじめの標的になりやすい。当てはまる遠子も、例外ではなかった。学校という狭いコミュニティの中で、遠子は、他の子供たちのストレス発散のためのおもちゃにされていた。無視は当たり前、上靴や体育着は隠され、汚されてゴミ箱に突っ込まれているのが見つかる。クラスみんなの前で笑い者にされたかと思うと、見ていないところで陰湿な嫌がらせもされる。だが臆病な遠子は、反撃なんて絶対しない。ただ受け入れて、汚された服を水道で洗っていた。

 僕はそれを知っていながら、止められなかった。クラスメイトを一喝していじめをやめさせるくらい強ければよかったのだが、僕にはそんな力も勇気もなかった。先生だって見て見ぬふりをしているのに、一介の小学生、しかも他所から引っ越してきた新参者にそんな権力はない。ただ遠子の傍にいて、一緒に汚れを落としてやるくらいしかできなかった。『トロ子』とからかう奴らに対抗して、僕はわざと、彼女を下の名前で「遠子」と呼んだ。それくらいしか、してやれなかった。

 それに、遠子にとどめを刺したのは僕かもしれない。

 僕はそれをふたりに話そうかと迷い、結局、言うのをやめた。

「お通夜で会ったきり、遠子のお母さんには会えてない。遠子がつらい思いしてるのに、傍にいたのにどうにもできなかったのを、謝れてないんだ。だから、改めてちゃんと会いに行きたい」

 蝉の声がする。障子戸の向こうの庭に顔を向けると、遠い入道雲が僅かに形を変えながら、ゆっくり流れているのが見えた。僕の決意を聞いて、倉田がうん、と呟いた。

「分かった。協力するよ。私も一緒に、遠子ちゃんのお母さんを捜す」

「ん、仕方ない。俺も付き合うよ」

 倉田が協力すると聞いて、相川も続いた。このふたりも多分、僕と同じ気持ちなのだ。あの教室で遠子がひとりで受けてきた仕打ちの数々を知っていながら、なにもできなかった。いじめに加担こそしないが、助けてやらなかったのは、いじめるのと同罪だ。

 遠子の家の周りを思い浮かべる。たしか、隣がクラスメイトの谷口の家だった。村の人の多くが早坂家の引越しに気がつかなかったとしても、隣人ならさすがに気づくはずだ。

「谷口に訊いてみるか。どこへ引っ越したのか知ってるかも」

「えっ! 日和お前、谷口と仲悪かったじゃん」

 相川が素っ頓狂な声を出す。僕はうーんと唸った。

「あいつのことは嫌いだったよ。でもそうも言ってられないだろ」

 クラスでいちばん力が強くて暴力的だった、谷口竜治。あいつは、正直苦手だ。谷口も僕を嫌っていたから、お互い様である。相川が宙を仰ぐ。

「でも谷口も、高校入学の年に引っ越したよ」

「あいつも引っ越したのか」

「田舎なんてそんなもんだよ。進学とか就職とか結婚とかで、皆、出て行っちゃう。いつまでもこんな村に残ってる若者の方が、珍しいんだよ」

 まあそれはそうか。こんな不便な村にいるよりも、山をひとつふたつ越えれば、進学先も就職先も充実している。村を出て行く方が自然なのだ。

「相川、谷口の連絡先知らないか? お前は別に仲悪くなかっただろ」

 訊くと相川は、一瞬固まってちらっと倉田の顔を見た。倉田は黙って彼を見つめ返す。やがて相川は、ジーパンのポケットから携帯を取り出し、電話をかけはじめた。

 僕と谷口の関係こそ良好ではなかったが、人懐っこい性格のおかげでどこにいてもなんとなく馴染む相川はそれなりだった。クラスの人数が少ない分、友達を選べるわけではない。同じやんちゃ坊主だったふたりは、僕が越してくる前までは結構よく遊んでいたという。

 電話を耳に当てて応答を待っていた相川が、背筋を伸ばす。

「あ、谷口。久しぶり。急に連絡してごめ……いや、待て。切るな」

 通話が繋がった相川を、僕と倉田はそわそわ眺めていた。倉田が遠慮がちに言う。

「でも、谷口くんが知ってるかなあ……。谷口くんて、ほら、その……」

 言い淀んでいるが、言わんとすることは察した。僕は小さく頷く。

「うん、谷口は遠子をからかってばかりだった。あんな奴だから、遠子のお母さんがどこに行ったかなんて、興味ないかもしれないな」

 僕は手の中のヒマワリを、ぎゅっと握った。

「でも、だからこそ気にしていてほしい。生きてた頃の遠子にあれだけ嫌がらせしたんだ。罪悪感を持ってたら、隣の家の様子くらい気にかけるだろ」

 谷口は、運動が苦手な遠子にわざとドッヂボールで集中攻撃し、怖がる彼女をロッカーに閉じ込めたりしていた。遠子の机にムカデを置いたこともあった。遠子は怯えて泣くだけで抵抗しないから、面白がられて何度もそういう目に遭った。

 僕が谷口を嫌う最大の理由がこれである。こんないじめを許せなくて、僕は遠子に代わって谷口を注意した。だがそれが面白くなかったらしく、谷口の攻撃は止むどころか激化した。遠子と仲がいい僕も気に入らなかったようで、ランドセルに水を入れられる嫌がらせをされた。まあ、僕は谷口が望むような反応をしなかったからか、それ以上いじめられることはなかったのだが。

 電話中の相川は何度も通話を切られそうになっているようで、度々大きい声を出していた。

「日和が遠子の母ちゃんの引越し先を気にしてて……いや、そうじゃなくて! 違うって、怒るなよ。切るな、待て」

 なかなかケリがつかないやりとりに痺れを切らし、ついに僕は相川の携帯を横から奪った。

「谷口、久しぶりだな。単刀直入に訊く。遠子のお母さんがどこに引っ越したか、なにか知ってるか?」

 すると電話越しに、男の声が返ってきた。

「……もうやめてくれ。お願いだ。もう関わらないでくれ……!」

「えっ?」

 漏れ出すその声は、僕が想像していた谷口の声とは全く違った。あの元気なガキ大将の大声からは想像できない、消え入りそうなほどの弱々しい声だった。あまりにらしくない声だったので、僕は耳を疑った。

「お前、谷口か?」

「日和……?」

 電話の向こうで、谷口が声を震わせる。

「やめろよ、なんでこんな日に、なんで電話なんてかけてくるんだよ。許してくれよ。いや、許されないかもしれないけど、解放してくれたっていいだろ。俺はもう、誰も俺を知らない場所でやり直してるんだ。お願いだから、関わらないでくれ。切るぞ」

「谷口! 切るな」

 ぶつっと、電話が切れた。ツー、ツー、と虚しい音だけが、無機質に流れている。僕は表示されている番号にしつこくかけたが、応答はない。やがて何度かけても、コール音すら鳴らなくなった。

「着信拒否された」

 僕はため息をつき、携帯を相川に返した。

「なんだあいつ。僕の知ってる谷口とはすっかり別人だった」

 子供の頃の谷口は、とにかく騒がしくて叱られてもへっちゃらな、やんちゃ坊主だった。それがあんな、怯えきった震え声を出すなんて、想像すらしたことがない。困惑する僕に、相川が言う。

「中学に上がってしばらくして、あんな感じになっちゃったんだよ。引っ越してからは、村との関わりを断ちたがってて……今の住所も、教えてもらってないんだ」

「なんだそれ。どうして急に」

 あの谷口が、そんなになるまで追い詰められる出来事があったというのか。相川と倉田が顔を見合わせる。倉田がしゅんと目を伏せた。

「私たちも、なにも知らないの。なにがあったんだろう」

「ともかく谷口があんなだから、遠子の家のこと、知ってたとしても訊き出すのは難しいぞ。もう諦めよう」

 相川はそう言うが、僕はまだ、引き下がりたくはなかった。

「じゃあ宮崎はどうかな。あいつ、たしかお父さんが役場に勤めてて、やたらと情報持ってただろ」

 宮崎理沙は、華やかで派手好きで、噂話が好きな女子だった。流行やおしゃれに敏感なだけでなく、クラスメイトはもちろん、村の人たちのあれこれにも詳しい。役場勤めのお父さんがぽろっと零す話を学校で言いふらす、お喋りが絶えない性分である。宮崎なら、遠子の母親がどこへ行ったのか知っているかもしれない。

 ただ、宮崎も遠子をいじめていたひとりである。おしゃれな宮崎からすれば、地味で物静かな遠子は暗く見えて不愉快だったのだろう。遠子を指差してひそひそと笑ったり、孤立させて面白がったり、谷口と変わらないくらいのいじめぶりだった。むしろその陰湿さは、谷口以上に精神を蝕む。

 嫌な奴ではあるが情報源としては機能する。宮崎本人が知らなくても、役場勤めの父親が足がかりになるかもしれない。

 しかし相川と倉田は、途端に暗い顔をした。谷口の名前が出たときと同じように顔を見合わせ、言いにくそうに下を向く。やがて倉田がおずおずと口を開いた。

「宮崎さん、死んじゃったんだ……」

「は!?」

 僕は目を見開き、勢い余って前のめりになった。

「宮崎が死んだ?」

「うん。日和くんが引っ越してすぐだったから、中学一年の春。家が火事になって、家族全員……」

 そんなの、全く知らなかった。呆然と立ち尽くす僕に、倉田が続ける。

「春の異動で、お父さんが仕事をなくしちゃったらしくて……一家心中じゃないかって、聞いた」

 これほど衝撃的な話なのに、今まで相川も倉田も僕に教えてくれなかったのか。ああでも、火事は七年も前だ。僕と相川が連絡を取り始めたのはそれよりあとだったし、倉田と再会したのももっと先だ。わざわざ話題に上げるきっかけもなかったのだろう。

「じゃあ、笹山は?」

 僕は宮崎の腰巾着、笹山舞奈の名前を出した。宮崎と仲が良かった、というか子分だった笹山も、宮崎からの又聞きの情報をみんなに話すスピーカータイプだった。宮崎は面白い噂話を仕入れると、真っ先に笹山に共有する。

 もちろん、遠子をいじめるときも、ふたり一緒だった。笹山はひとりではなにもできない奴だったが、宮崎の行動に乗っかって嫌がらせをする。さしずめ虎の威を借る狐といった性分で、見ていた僕は笹山の姑息さがすごく嫌だった。

 そんな笹山だが、宮崎からなにか聞いているかもしれない。しかしこれにも、相川と倉田は顔を曇らせた。

「笹山は宮崎が死んだショックで塞ぎこんで、その……おかしくなった」

 相川が難しそうに言葉を探す。倉田も、苦しそうに顔を歪めた。

「だんだん情緒が不安定になっていって、急に癇癪起こすことが増えたの。それでついに、カッターを振り回してお母さんを怪我させちゃったんだって」

「そう。それがきっかけで、村の外の精神病院に入院した。それっきり、戻ってきてない」

 相川は語尾にため息を交え、そう締めくくった。

 僕はしばし、言葉を失った。谷口は人が変わったようになにかに怯え、宮崎は火事で死んだ。笹山は精神を病んでしまった。遠子をいじめていた三人が、それぞれこんな結末を辿っている。まるで、罰が当たったみたいだ。

 しばらく思考が止まったが、僕はまた、クラスメイトを思い浮かべた。

「あとは森本と小野寺か」

 このふたりは、例の三人のように激しく遠子をいじめたりはしなかった。僕や相川、倉田と同じで、分かっていてもなにもしなかった側の者たちだ。

 学級委員の森本早苗は、絵に描いたような委員長タイプの少女だった。規則を実直に守る彼女は、不真面目な谷口や、授業中もお喋りをやめない宮崎と笹山を注意できる気の強さがあった。しかしなぜかいじめに関してはノータッチである。折角谷口たちに抵抗できるだけの発言力があるのに、止めてくれなかった。当時の僕はそれにやきもきさせられていたが、自分もなにもできなかったから森本に文句を言える立場でははない。

 小野寺信介はというと、物静かでなにを考えているのか分かりにくい、ちょっと不気味な男子だった。変わった奴ではあったが、彼は自分の世界を持っているタイプだったから、良くも悪くもあまり周りに干渉しなかった。目の前でいじめが起きていても、参加もしなければ止めもしない。完全な傍観者だった。

 相川が胡坐をかく。

「ふたりとも、今もこの村に住んでるよ。森本はおばあちゃんの介護しながら、ここから通える大学に通ってる」

「小野寺は?」

「あいつもこの村にいるけど、自分の部屋に引きこもって出てこないよ。家族すらもう何年も顔を見てないんだ、話を聞きたくても出てきてくれないだろ」

 ひとまずふたりとも、無事だったのは安心した。小野寺は心配な状況ではあるが、それは僕にはどうにもできない。仮に話せたとしても、元からひとりでいることが多かった小野寺は、遠子の家の事情にも興味ないだろう。

 僕は腕を組み、天井の木目を仰いだ。

「とりあえず、森本に会いたいな。なにか聞いてるかも」

 相川と同じくなにも知らないかもしれないが、折角だし、会うだけ会いたい。倉田も、ぽんと手を叩いて微笑んだ。

「私も久しぶりに、森本さんと話したい」

 そういえば、倉田と森本はわりと仲が良かった。といっても、宮崎や笹山と性格がかけ離れている分、倉田と森本は比較的性格が近く、一緒にいることが多かったという程度だが。

 僕はちらりと、腕時計に目をやった。時刻は午後六時近くを指している。

「あ、倉田、そろそろ両親が帰ってきてるんじゃないか?」

「本当だ! もうそんな時間だったんだね」

 倉田が甲高い声を出し、慌てて鞄を掴んだ。

「相川くん、お邪魔しました! 私、お父さんたちに会ってくる!」

「待て待て、送るよ」

 相川も畳から腰を上げ、僕も立ち上がった。

 相川の家の玄関を出ると、西の空の端がほんのり赤らんできていた。田畑に囲まれた村の道を、三人で歩く。照りつける夕日の下を、鳶の影が横切る。畑の青臭い匂いがする。

「倉田はこのまま、実家に帰省?」

 相川が訊くと、倉田は頷いた。

「そうだね、家族も久しぶりだから、喜んでくれてる」

 この村を出た倉田は、東京でひとり暮らしを満喫している。僕も今は家を離れ、ひとりでアパートを借りているから、似た境遇にある。

 相川は今度は、僕の方を見た。

「日和はうちに泊まるよな」

「うん。よろしくな」

「いつまでいてくれてもいいぜ! 日和がいれば退屈しないからな」

 相川がにっかり笑うと、倉田も楽しげに言った。

「いいなあ、ふたりがずっとこの村にいるなら、私もこっちに住んじゃおうかな」

「いいじゃんいいじゃん。このままガキの頃に戻って、アイス買って、畳で昼寝してゲームして神社でかくれんぼしようぜ」

 相川がバカみたいな冗談を言い、倉田もいいね、なんて笑っている。そんなやりとりが小学生だった僕らを髣髴とさせて、なんだか懐かしくて、僕も噴き出した。

「いや、僕は夏休みが終わるまでに東京に帰るからね?」

「つれねーなあ! 今夜は飽きるほどゲーム三昧だからな」

 相川がまた、子供の頃のままの笑顔で言った。

 数分歩くと、ぽつぽつ並ぶ民家の中に、ひと際大きな木造の屋敷が現れた。倉田がそこで立ち止まる。

「じゃあね、ばいばい。明日また、森本さんに挨拶に行こう」

「おう、またな」

 相川が手を振る。重たそうな門を通り抜けていく倉田を見送り、僕はぽかんとしていた。

「……倉田、こんなでっかい家に住んでたんだ」

「は!? 知らなかったのか!?」

 相川がびっくり顔で振り向く。

「倉田ん家、この辺の地主だぞ。お嬢様なんだぞ、あいつ」

「そうだったのか」

「マジかよお前……」

 相川は驚いているが、僕だって驚きだ。思えば、倉田の家に遊びに行ったことは一度もなかった。彼女とは仲は良かったが、遊ぶときは大抵、学校から近い相川の家に集合していたから、行く機会もなかったのだ。倉田自身も、お嬢様然とした振る舞いをしないで、僕らと一緒に外を駆け回っていた。こんなの気づくわけがない。

 相川の家への帰路につき、僕は虚空を見上げた。

「地主ってことは、遠子のお母さんがどこへ越したかも把握してたりして……」

「どうだろう。土地の権利を持ってるってだけだから、土地から離れた人がどこに行ったかまでは関係ないんじゃねえの?」

「そうなのか。でもそうだよな。もし分かりそうだったら、倉田が真っ先にそう言ってるはずだもんな」

 空がオレンジ色に染まっていく。僕らのぱさついた足音が、静かにテンポを刻んでいる。ふいに、相川が言った。

「あのさあ、谷口のことだけどな」

「うん」

「あいつ、昔はあんな、遠子をいじめるような奴じゃなかったんだよ」

 どこか寂しげな、相川らしからぬ口調だ。

「日和だって覚えてるだろ、お前が引っ越してきたばかりの、五年生の頃。あの頃は、誰も遠子を『トロ子』なんて呼んでなかった」

 言われてみれば、そうだ。出会った当初の遠子は、その頃から大人しくはあったものの、いじめられてはいなかった。いつからだろう、彼女が『トロ子』になったのは。

 神社でかくれんぼをした日を思い出す。あれは五年生の冬だ。あの頃の遠子はまだ、自然体だった。でも六年生の春には、遠子の新品の上履きが汚された事件があったのを覚えている。はっきりと境目を思い出せるわけではないが、多分、その辺りからなにかが変わった。

 相川が目を伏せる。

「日和のいうとおり、俺は、目の前でいじめが起きてたのにどうにもできなかった。谷口とはそれまで仲良かったから、俺の立場からどうにかできたかもしれないのに」

「……うん」

 実はそれは、思わなかったわけではない。ひょうきん者で場の空気を和らげるのが上手い相川なら、なんとかしてくれるのではないかと、心のどこかで期待していた。でも、相川だって人間だ。

「ごめん。俺も怖かったんだ。次は自分かもしれないって思うと、怖かった」

 相川だって、なにも考えていないみたいな顔をして、怖いものは怖い。保身もする。自分より弱い遠子を見殺しにして、今でも、それに胸を痛めている。

「僕もそうだよ。だからせめて、謝りたいんだ」

 それから僕はひとつため息をついて、空を流れる雲を眺めた。

「むしろ、遠子が死んだのは、僕のせいかもしれない」

「はあ? 助けなかったから? だからって日和のせいではないだろ」

 相川が怪訝な顔をする。これは八年間、ずっと誰にも言わなかったことだ。言えなかった。言ってしまったら、確実に僕のせいになってしまう気がして。

 でも、言わなかったらこのまま、自分の中に隠し続けることになる。それはそれで苦しい。相川には、話しておこう。

「実は僕、あのヘアピンを渡した日、遠子に告白されたんだ」

「ふうん。……へ、え!?」

 相川が大きく目を剥いた。

「なんだそれ、知らなかった! 聞いてない!」

「言ってないから」

 いじめに苦しんでいた遠子は、僕を好きでいる気持ちで日々を乗り越え、学校に来てくれていた。そんな僕からヘアピンのプレゼントを貰って、嬉しかったのだろう。彼女は勢いに任せるようにして、僕に「好き」と言った。

「で、どうしたの? お前ら付き合ってたの?」

 勢いづいて捲くし立ててくる相川に、僕はやや身を仰け反らせた。

「いや。断った」

「なんでだよ。日和だって、遠子と仲良かったじゃん」

「仕方ないだろ、まだ分からなかったんだよ。遠子のことは友達だと思ってたから、それ以外の関係になるなんて、想像できなかった」

 あのとき僕は、すごく驚いた。幼すぎた僕は恋愛なんて考えたこともなくて、遠子が僕に向ける感情がそれだったとも気がつかなかった。だから僕は、即座に断ってしまった。遠子は臆病なのに、勇気を出して告白したのに、僕は熟考するでもなくその場で即答したのだ。

「遠子は『そっか』って笑ってくれたけど、本当は傷ついたに違いない」

「そりゃそうだろ」

「だからさ、遠子が死んだのは、僕のせいかもしれないんだよ」

 僕は深く息を吸い、腹を決めた。

「僕が傷つけたせいで、自殺したかもしれない」

 田畑がざわざわ、風に吹かれる。

「……は……?」

 相川が立ち止まる。僕も足を止めて、相川に顔を向けた。相川が愕然とした顔で、僕を見ている。

「遠子が川で溺れたのは、事故だろ?」

「そういうことになってる。でも、現場を見た人はいないんだろ。だったら、自ら身を投げたのかもしれない」

 いじめに苦しんでいた彼女に、僕がとどめを刺した。真相はそうだったのではないかと、悶々と考え続けていた。でも、僕が言わなければ誰も僕のせいにはしない。だから、胸の中にずっと隠していた。誰にも知られてはいけないと思っていた。

 だけれど、当時からうすうすと感じていた。遠子のお母さんだけは、気づいているのではないかと。お通夜の席で、あの人は言った。「遠子は日和くんのこと、好きだったみたい」――あの人は、娘の恋を知っていた。直接僕には言わなかったけれど、遠子の死は僕のせいだとも知っていたのだ。だから僕に、あのヘアピンを返した。僕を責めはしないが、一生忘れるなと。そういうメッセージだったのではないか。

「遠子のお母さんに会いたいって言うのも、それが本当の理由なんだ。当時、僕のせいだって言えなかったから、今度こそ、ちゃんと謝りたい」

 謝ったところで遠子が帰ってくるわけでも、お母さんの心の傷が癒えるわけでもない。時が止まったままの遠子を差し置いてのうのうと生きている僕に、憎しみさえ湧くかもしれない。でも、このままでは終わらせたくなかった。

「だから、これは僕の問題なんだ。相川と倉田まで付き合せちゃって、ごめんな」

 僕が言うと、相川はひとつ、まばたきをした。

「それ、ずっとひとりで抱えてたのか」

 彼はゆっくりと、一歩、踏み出した。

「言い出しづらかったろ。話してくれてありがとな」

 夕暮れ空が僕らを見下ろしている。八月の始まり、彼女が亡くなって、七回目の夏だった。

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