◆1
八月の始まり、大学の夏休みの真っ最中。山梨県北部、山間にひっそりと佇む集落、葉月村。東京都心から四時間、電車とバスを乗り継いでようやく辿りついた。葉月村入り口の停留所でバスを降りる頃には、すでに移動の疲労で体が重かった。
僕を出迎えたのは、広がる田園と真夏の昼の湿った青空、遠くまで埋め尽くす山脈の青。八年ぶりなのになにも変わっていない、葉月村の景色だった。
走り去ったバスを見送り、固まった体をほぐそうと大きく伸びをする。そこへ背中にどんっと、重い衝撃が走った。
「日和ー!」
「うわっ」
振り向くと、背中にしがみつく男と目が合った。こいつとも八年ぶりだが、すぐに誰だか分かった。
「相川。びっくりした」
「へへ、そろそろ来る頃だと思って、停留所の裏に隠れて待ってた」
無邪気に笑うこの青年、相川修平は、小学校五、六年生の頃の同級生だ。
「お前なあ。人違いだったらどうするつもりだったんだよ」
「成長して顔が変わっていようが背が伸びていようが、この俺がお前を間違えるわけないだろ。俺は日和のいちばんの親友だぞ」
それを自称してしまうのが、この相川という男だ。
そんなやりとりをしていると、脇からため息が聞こえた。
「相変わらず元気だね、相川くん。見た目は二十歳でも、言動が小学生のまんまじゃん」
「く、倉田!」
相川が目を見開いて、僕から飛びのいた。
「倉田も相変わらず美人……っていうか、当時よりもっときれいになった!」
「また調子のいいこと言って!」
そう言って吹き出す彼女は、なんだかんだいって嬉しそうだ。
倉田南海。彼女も、この村で僕らと一緒に小学生時代を過ごした同級生だ。ただ彼女は、この村に残っていた相川とは違い、僕と同じく上京している。偶然にも同じ大学で同じ学科を専攻しており、今日も一緒にここまで来た。
相川は僕の方に再び顔を向けた。
「でも本当、久しぶりだな。倉田は中学三年以来だから六年ぶりだし、日和なんか小学校卒業と同時に引っ越しちゃったから八年ぶりだもんな」
「直接会うのは久しぶりだけど、しょっちゅうメールしてたからな……あんまり懐かしい感じしないな。倉田とは大学で毎日のように会ってるし」
「おいおいおい。俺はずっと日和にも倉田にも会いたかったぞ」
相川が暑苦しく再会を喜び合おうとする。でも、実際昨日までもメールしていたから、久々に会った気がしないのである。
僕と倉田は上京して大学に通っているが、一方で相川は、高卒で就職したという。村から通える地元企業で現場作業員をしており、今は職場の盆休み中だそうだ。
相川が改めて言う。
「それにしてもふたりとも、フットワークが軽いよな。大学が夏休み中だからって、まさか連絡した次の日にもう来るなんて」
相川の言うとおり、僕らがこの村へ来ると決まったのは実に昨日のことである。僕はそりゃあ、と返した。
「相川が急に、『小学校が取り壊されるらしい』なんて言うから」
「それがまた意外だった。日和、タイムカプセルなんかすっかり忘れてるかと思ったよ」
そうなのだ。僕、日和圭太がこの村に戻ってきた目的は、ほかでもない。この村の小学校に置いてきた、タイムカプセルを開けるためだ。
中学進学と同時に引っ越して以来、この村とはご無沙汰だったが、相川のメールで小学校の取り壊しを知り、慌てて駆けつけたのだ。村の少子化の影響で廃校になったのは聞いていたが、更地にされてしまうとまでは思っていなかった。
小学校の卒業式の日、僕らは校舎裏の欅の下にタイムカプセルを埋めた。親の都合で転勤族だった僕や、いつかはこの村を離れるであろう友人たち、たとえばらばらに散ってしまっても、このタイムカプセルを開ける日には必ず全員で集まろうと約束した。なにを入れたかはお互いに秘密にして、開けたとき初めて見せ合おうと決めた。
約束の日は今年の三月、卒業式から八年後の予定だった。全員が二十歳になった年ならば、開けた帰りに酒を飲めるからだ。しかし小学校取り壊しの一報で事情が変わった。工事業者はこの夏に入り始めるらしく、そうなったら僕らは校庭に入れなくなる。地盤調査なんかで、業者の手でタイムカプセルが掘り出されて捨てられてしまうことも有りうる。だから予定を早めて、今日開ける。四月一日生まれの相川はまだ十九歳だが、この際仕方がない。
倉田がちょっと呆れ顔をした。
「私も、日和くんから急に『明日、葉月村に行こう』なんて連絡が来たからびっくりしたよ。まあ、どっちにしろ夏休み中のどこかでは実家に帰る予定だったから、いいんだけどね」
「だよなあ。あ、倉田、まずは倉田の家に挨拶に行く?」
相川が問うと、倉田は首を横に振った。
「ううん、今訪ねても、お父さんもお母さんも仕事でいないから、夜に帰るよ」
「そうか。倉田の家の人、いつも忙しそうだもんな」
相川が頭の後ろで腕を組む。
「じゃあ、早速タイムカプセルを開けに行こう。学校、こっちだったよな」
僕が学校に向かって歩き出すと、相川が腕を掴んで止めてきた。
「待て待て、先に昼飯! 工事業者が来るのは今日に今日じゃないんだ、飯のあとでもいいだろ」
相川はにんまり笑って、僕らを先導して踏み出した。
「腹減ったろ。母ちゃんがフライいっぱい揚げたんだ、たくさん食べてくれ」
今日の昼飯は、相川の家でご馳走になることになっている。なんなら夕食もその予定だ。村に遊びに来ると決まったら、相川が勢いづいて「泊まってく?」なんて言い出したので、そのままそんな流れになったのだ。
先を行く相川に、僕と倉田も続く。見渡す限りの田んぼと畑、それに寄り添うようにしてぽつぽつと建つ古い民家。どこからともなく、ステレオで聞こえるアブラゼミの声。前を行く相川の背中を追いかけるのも、まるで小学校のあの頃みたいだ。倉田も同じく当時を思い浮かべたようで、懐かしそうに村を見回していた。
「あっ、葉月商店! まだやってるんだ」
「うん、店のばあちゃんもまだまだ元気だぜ」
道の脇に建つ小さな店を指差し、倉田と相川が盛り上がる。
「よくあのお店でアイス買ったよね」
「買った買った。サイダーも」
「当たりが出たら、お店まで走って交換してもらってさ。懐かしいなあ。あ、あのおうち、高木さんの家だ。よくトウモロコシお裾分けしてくれたよね」
倉田はよく覚えている。言われてみれば、僕もいろんなことを思い出す。追いかけっこした畦道、相川が落っこちて泥まみれになった田んぼ。この村を歩いていると、思い出が蘇ってくる。相川や倉田たちと入道雲を見上げて畑の一本道を走ったのが、まるで昨日のことのようだ。
相川が懐かしそうに言う。
「日和、転校してきた日、すんごく緊張してたよなー」
「仕方ないだろ。親の都合で引越しが多くて、この村に来たのも五年生の秋っていう、中途半端な時期だったんだから」
僕がこの村を出て行ったのも親の都合だったが、やってきたのもそのせいだった。しかもこの村はこんな田舎だから、クラスメイトは僕を含めても九人しかいなかった。僕以外全員、この村で生まれ育った生粋の葉月村っ子である。すでにできあがっている人間関係の中に急に放り込まれても、仲良くなれる気がしなかった。いっそのこと友達を作らず卒業まで我慢してしまおうかと考えたほどだったが、そんな僕に声をかけたのが相川だった。
「なあなあ、ひよ……なんだっけ、ヒヨコくんだっけ。お前、都会から来たんだって?」
よく言えばフレンドリー、悪く言えば不躾に、相川は僕のテリトリーに踏み込んできた。最初こそ戸惑ったけれど、明るくて元気な相川が近くにいてくれたおかげで、僕はクラスに馴染むことができた。そのうち倉田も加わって、いつの間にか、いつも一緒にいる仲良しグループみたいなものの輪に溶け込めたのだった。
相川の家に向かう途中で、神社の前を通った。僕はあっと声を出す。
「この神社、かくれんぼしたよな。そういえばあのとき……」
思い出したことを口にしかけて、僕は途中で口を結んだ。
いつものメンバーでかくれんぼをしたのは、たしか五年生の冬の放課後だった。鬼だった倉田から隠れて、僕は木の上に登り、木の葉の中に上手く身を消していた。やがて倉田に見つかった相川が彼女と一緒に僕を捜しに来たのだが、ふいに、ふたりは僕のいる木の根元で立ち止まり、なにやら話しはじめた。僕が見ていると気づかずに、内緒話を始めたのである。声が小さくて内容までは聞き取れなかったが、やけに至近距離だったのを覚えている。倉田がふふっと微笑むと、いつも冗談ばかりの相川が珍しくしおらしく目を伏せた。
あれを見た日から、僕は自分の知らない人間関係にようやく気づいた。ああ、このふたり、お互いを好きだったのだと。子供だった僕は恋愛なんてずっと先だと思っていたが、この友人たちの態度を見てぴんと来た。だがふたりが付き合っていた様子はない。もちろん本人たちから聞いていないし、小学校にいる間に噂になったこともない。僕が引っ越したあとにどうだったかは知らないが、今現在の相川と倉田を見た感じ、やはり付き合ってはいなそうである。かといって気持ちが冷めているのでもないのか、相川が倉田と目が合うとどぎまぎして逸らすし、倉田もはにかみ笑いをする。もしかして僕はお邪魔だろうか。僕の鈍感な性分も、小学生の頃のまま、成長していない。
この村で過ごした一年半は、短くても濃い時間だった。狭いコミュニティの中で築いた友情、初めて意識した恋という感情。それらがこの、田舎の風情ある景色を背景にして、僕の中に刻まれている。ここは、僕にとって心の故郷のような場所だ。
相川の家に着くと、彼のお母さんが歓迎してくれた。
「日和くんも南海ちゃんも、大きくなって! ご飯できてるよ、遠慮しないで食べてね」
「お世話になります」
幼い頃に「おばさん」と呼んでいた彼女も、あの頃のままの明るい肝っ玉母ちゃんだった。彼女が大量に揚げてくれたフライをご馳走になりながら、僕らはまた、思い出話に花を咲かせた。
「そうそう、谷口っていつも遅刻しててさ。そのくせ堂々としてて、クラスでもなぜか威張ってたよな」
「うん、それで学級委員の森本さんに毎度怒られてた!」
相川の言う谷口は、所謂ガキ大将だった。体が大きくてやんちゃで不真面目なところもある奴だったが、クラスでよく目立った分、中心人物的な存在だった。そんな谷口にも物怖じせず注意できたのが、倉田の話す森本である。生真面目で几帳面な女の子で、谷口とはまた別の意味でクラスのリーダーだった。
「谷口くんが学校サボって、家にもどこにも見つからなくて、学校じゅうで皆で捜したの覚えてる?」
倉田が可笑しそうに笑う。そういえば、そんなことがあった。
「たしか、学校の近くにある鉄工所で、職人のおじいちゃんに匿ってもらってたんだよな。あいつ、あのおじいちゃんと仲良しで、学校サボってそこで遊んでた」
「そうそう。そのうち谷口くんと職人のおじいちゃんも両方まとめて森本さんに叱られたの。ふたりともしゅんとしちゃって、面白かったあ」
八年も前のことなのに、僕らの記憶は鮮明に蘇った。
「合唱のとき、宮崎が泣いちゃって、仲良しだった笹山がめちゃくちゃ怒ったよな」
「そのとき小野寺くんも宮崎さんを庇ったんだよね! 小野寺くんっていつも大人しかったから、驚いたなあ」
「そうだったな。クラスが大騒ぎなのに、成瀬先生は見てるだけでなんにもしてくれなかったよな」
九人しかいなかったクラスメイトは、顔も名前もはっきり思い出せる。担任の成瀬先生の、うだつの上がらないぬぼっとした感じも、よく覚えている。
昼食を終えた僕たちは、再び村の畦道へと繰り出した。目指すは、僕らの思い出が詰まった場所。小学校である。相川は家の納屋から農具のスコップを持ってきて、それを肩に掲げている。
田んぼから蛙の声が聞こえる。不規則な蝉の声が僕らを包み、暑さを増幅させる。それでも、山から下りてくる風が気持ちよくて、コンクリートジャングルよりは幾分か涼しく感じた。
数分も歩くと、古びた木造校舎が見えてきた。僕が五、六年生の短い青春を過ごした場所、葉月小学校である。否、その跡地と言うべきか。ここは三年ほど前に廃校になっており、今はもう、朽ち欠けの校舎が無意味に佇むだけである。児童のいない学校は眠っているように静かだったが、見た目は当時のままである。
門は取り除かれて、敷地が解放されている。ここへきて今更だが、勝手に入ったら怒られるだろうか。なんて僕は少し躊躇したが、隣にいた倉田は駆け足になって、グラウンドへ入っていく。
「わあっ! 懐かしい。欅の木、こっちだったよね!」
躊躇いのない彼女に続いて、相川も門を越えた。
「毎日見てるけど、入るのは卒業以来だ。なんか、小学生の頃はでっかく見えてた建物も、今は小さく感じるなあ」
グラウンドを駆けていくふたりの背中が遠くなっていく。僕もその背中を追いかけて、校舎裏の欅を目指して駆け出した。
ずっしりと暗い色の木目を携えた校舎を横切り、体育館との間の通路を抜ける。もぬけの空の飼育小屋を横目に見て、さらに数メートル。見上げるほどの大きな欅の木は、今もそこで緑の木の葉を揺らしていた。
「よーし、掘るぞ」
相川がスコップの先を欅の根元に突きたてる。固まっていた土がぼこっと盛り上がって、掘り返されていく。八年前、小学生だった僕らにはさほど深く穴を掘ることはできなかった。数分も掘り進めると、相川のスコップの先がコン、と固い音を立てた。相川がお、と呟き、スコップを放ってしゃがんだ。僕も思わず膝をつく。残りはふたりで素手で、土を掻き分ける。ほぐれた土の中から、銀色のクッキー缶が顔を出した。
「あった!」
相川が缶の端を両手で掴み、引っ張りあげた。土の塊を落としながら出てきたそれは、間違いなく僕らが埋めたタイムカプセルだった。
子供だった僕らが隠した、それぞれの想い。八年間の眠りから、今覚まされる。蓋を開ける手は、興奮と緊張で僅かに震えていた。
密封されていた缶の中に、夏の光が差し込む。中には三つ、マッチ箱くらいの小さな箱と、封筒と巾着袋が入っていた。
「この巾着、私の」
倉田が真っ先に手に取る。巾着の中から出てきたのは、青いビーズが並んだブレスレットだった。見て思い出したが、幼い頃、倉田はこのブレスレットを大事に身につけていた。肌身離さず持っていたのに、こんなところに埋めていたのか。
封筒は相川のものだ。彼は中の手紙を見て照れ笑いした。
「十一歳の俺からの手紙だ。はは、恥ずかしいや」
「へえ、見せて!」
倉田が手を伸ばすと、相川は大袈裟に叫んで仰け反った。
「だめ! 恥ずかしいって言ってるだろ!」
「いいじゃん、見せてよ!」
「だめ! プライバシーの侵害!」
ぎゃあぎゃあやりあうふたりの横で、僕は残りのひとつ、小さな箱を手に取った。
夕日に照らされた、あの子の笑顔を思い出す。
「タイムカプセル、埋めようよ。大人になったら掘り返しにくるって、約束しよう。どこにいてもなにをしてても、その日は必ず、四人でここに集合するの。そうすれば、また会えるでしょ?」
箱の淵に爪を立てて、口を開く。中からするりと出てきたそれが、僕の掌に落ち着く。相川と倉田がこちらを向いた。
「なあに、それ」
倉田が間の抜けた声で問う。
僕の手の中のそれは、ヒマワリの花を模した飾りがついた、ヘアピンだった。放射状にぴんと伸びた花弁は、太陽を思わせる。それでいてギラギラしていない、包み込むような優しい黄色。夏の空を見上げる花は、可憐で、健気で、彼女に似ていると思った。
久しぶり、また会えたね。と、僕は口の中で呟いた。
相川がピンを覗き込んでくる。
「ヘアピン? これ、倉田の?」
「私のじゃないよ、私のはこのブレスレットだもん」
「でも日和がヘアピンなんて……」
相川が首を傾げる。僕はヒマワリのヘアピンを掲げ、言った。
「これ、遠子のだよ」
「……遠子?」
まだ呆然としている相川と倉田に、僕はゆっくり繰り返した。
「早坂遠子。六年生の夏に死んだ、遠子だよ」
偶然か、運命か。今日、僕らが集まったこの日は、遠子の命日だ。
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