第7話 近藤勇の虎徹

「今宵の虎徹こてつは血に飢えておる」

 このセリフで有名な新選組局長近藤勇の虎徹であるが、幕末当時には人気の名刀であることからして、贋作がんさくが非常に多かった。「虎徹を見たら偽物と思え」とさえ、ささやかれていたほどである。

 それでは、近藤勇の虎徹はどうなのか、というと、今日では源清磨きよまろの作刀だったとする偽物説が支持されている。

 江戸初期の新刀最上作、虎徹は正宗と並ぶほどの絶大な人気を誇っていた。時代が下り、江戸後期ともなると、最上大業物として大名などの上流階級が所蔵する「大名差し」の代物しろものになっていく。

 幕末の文久年間(一八六一~一八六四)頃になると、正宗で百両から二百両、虎徹は五十両前後で出来のいいものは八十両に達したという。無論、江戸市中の刀屋などでは滅多にお目にかかれない稀代の名刀である。

 文久三年、近藤勇は徳川将軍家茂いえもちの上洛警固をつとめるにあたって、この虎徹を佩刀したいと思い立った。近藤から「虎徹を」という注文を受けた刀屋は、困りきった。虎徹で一儲けしたいのに、現物が市中のどこにもないのである。

 そこで刀屋は最後の手段に出た。

 吟味した無銘の二尺三寸五分(約七〇・五センチ)の一振りを懇意の刀工のところに持ち込んで、「長曾祢虎徹興里おきさと」の銘を切らせたのだ。

 近藤勇は、竹刀しない剣法では桂小五郎などにどうしても勝てない腕であったが、真剣による喧嘩剣法では滅法強かったといわれる。実戦は場数を踏んだほうが強い。

 この「虎徹」は、池田屋事件などの激闘の渦中でも折れることなく、郷里の養父に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と手紙で書き送った。

 近藤はあくまでも自分の佩刀は、虎徹と信じきっていたのである。そこで、江戸に下向した折、この虎徹を手配してくれた刀屋に礼をすべく、五両の心付けをはずんだと伝わる。

 以上は、司馬遼太郎の『新選組血風録』や刀剣書に見られるエピソードだが、それにしても、無類の刀剣好きであった近藤勇が真贋を見誤ることはあるのであろうか、と筆者は考える。 

 東京国立博物館で刀剣室長をつとめた小笠原信夫氏は、明治維新後もしばらく現存していた勇の遺愛刀は、間違いなく虎徹であったと語っている。そのことからして、あながち偽物と決めつけるのも、いかかがなものかと思う。

 なお、勇の「虎徹」の行方は現在、ようとして知れない。

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