第3話

 窓から見える夕暮れは、何処か妖しいほどに綺麗だと思えた。

 徐々に帰宅の途に着く生徒を視界の端に捉えながら、読書ブースの机の隣の席で数学の公式と格闘している彼女加奈をチラリと見る。


「……そろそろ閉館時間かな……参考書、元の場所に戻してくるよ」


「……うん……あ、こうしたら解けるかも!」


 自分なりに解法を見出したのか、SATの過去問を解くのにのめり込む姿が微笑ましい。


 図書館の書架に参考書を戻して、ふと図書館を見渡すと先程はまで疎にいた人影も見えなくなっている。


「あれ?……加奈がいない……」


 さっきまでいた、読書ブースの机がある辺りを見ると過去問と格闘していた加奈の姿が消えていた。


「別の書架で、参考書を探しているのかな?」


 奥まった書架に移動して探すも見つけられない。


「帰った訳じゃないと思うけど……」


 怪訝に思ったとき、背中に柔らかいものが当たると同時に、か細い白い腕が脇から回されて腹の前で組まれ抱きしめられた。


「捕まえた!」


「えっと……加奈……?」


「ビックリした?」


 戸惑う俺に、加奈は横から顔をぴょこんとだしながら悪戯っぽく微笑う。


「どうしたの?」


「うん……なんとなく……疲れちゃって……」


 そう零すと俺の背中に額を当ててながら、俺を抱きしめる腕に力を入れる。


「少し……こうしてて良い?」


「良いよ……」


 甘えるような声とともに、俺を抱きしめる手に力を入れるのを感じ、そっと手を重ねる。


 ビクリと震える加奈を背中に感じる。

 どれくらいそうしていただろうか。


 急に加奈は、手を解くとぴょこんと俺の前に移動する。


「えへへ……ごめんね……なんか進路のことで色々あって……塁君成分が欲しかったんだ。」


 照れながら、手をスカートの前で絡ませてモジモジする加奈の姿に愛おしいと思った。


 気がついたら、加奈を正面から抱きしめていた。


「ふぇっ!?……る、塁……く……ん」


「加奈……少し……こうしてても……良い?」


「う……うん……いい……よ」

 

 抱きしめた華奢な身体は、最初、ビクリと震えたものの、制服越しから伝わってくる体温にどこか安心したかのように身を委ねてくるのを全身で感じた。


「加奈……好きだよ」


「塁君……私も……好き」


 間近に寄せた頬を重ね、お互い囁くように気持の吐露した後、ゆっくりとお互いの唇を重ねる。

 重ねた唇を啄むように、優しく何度も触れる。


「……こういうキスって……フレンチキスっていうんだっけ?」


「……確か、そんな表現だったかな……」


 目を潤ませながら、俺に身を委ねる加奈に囁くように答えたあと、フレンチキスを続けると加奈は、そのか細い腕を俺の背中に回してぎゅっとしがみつく。


「……誰もいない図書館でするキスって……ドキドキするね」


「……そうだね」


 紅潮した頬を俺の頬に合わせると、俺の耳に唇を寄せて熱い吐息を吐くように囁く。


「……このまま、愛して欲しいな」


「……このままは……」


 ふと、今朝の進路指導の時に銀髪の担任セラ先生から釘を刺されたのを思い出した。


『あ、それと……校内で不純異性交遊したらダメだぞ!』


『しませんって!』

 

「あ……セラ先生から、校内での不純異性交遊はダメって言われてたんだ」


「えっ!?……セラちゃんの……いぢわる……」


 少し拗ねたように表情を浮かべると、加奈は俺の背中に回した腕を解く。

 ぴょんっと後ろに飛ぶと、両手を後ろに回して、潤んだ瞳のまま、上目遣いで俺を見つめる。


「じゃあさ……塁君の家で……続き……しよ!」


「……そうだね……」


 少し照れながら、視線を逸らすと図書館の読書ブースの机の上に数学のノートと、SATの過去問が広げたままになっているのが視界に入る。


「……今日も、勉強を教えてくれてありがとうね。塁君と同じ大学に進学できたら、大学でもいつも一緒だね!」


「……加奈は、理解するのが早いから、俺なんかより勉強出来ると思うよ。だから、加奈は第1志望の大学に合格出来ると思うよ。」


「やった!……嬉しいな……塁君と同じ大学で、今よりもずっと仲良くなりたい。」


「……そう思ってくれて、俺も嬉しいよ……ただ……」


 ブー ブー ブー ブー ブー


「あ!……電話……塁君、ちょっと待ってね……はい。お待たせしました……あ、本田さん?……はい……はい……」


 本田さんは、加奈のご両親がオーナーとなっている、睦月グループを取りまとめる有能な人だ。

 

 加奈によると専務っていう偉い役割をになっているんだとか。


 睦月グループは、北米連合が人工幻夢大陸ネオ・アトランティカを建造する際のメガ・フロートを積層する方式を提案したことで知られている。

 

 確かどこかの財閥系商社が倒産の危機に瀕した際、救済を行ったんだっけ。

 うろ覚えの知識を思い出す。その商社の立て直しに本田さんと一緒に派遣されたのが、俺の父さんだと聞いた。出向という形ではあったが。

 

 本田さんと父さんは、救済した商社で一番赤字を垂れ流していた造船事業の立て直しを行う一環で、当時は使用用途が限定されていたメガ・フロートの新しい用途を提案したことで、今ではドル箱事業となったらしい。


『君の父上の手腕があったからこそ、今の睦月グループがあるともいえる。本当に感謝しているんだ。困ったことがあったら何でも相談してくれ。』


 睦月グループの社長。佳奈のお父さんとは、俺が人工幻夢大陸ネオ・アトランティカに避難してきて、1ヶ月後にお会いした。本田さんの仲介で。

 

 開口一番、父さんの仕事について賞賛された。

 初めて知る父さんの仕事ぶりに、俺は誇らしいと思った。

 家では、だらしなく寝る姿に母さんが怒っていたことしか印象に残っていなかったけれど。


 『ああ、そうだ。私にも塁君と同じぐらいの娘がいるんだ。一緒の学校に編入できるよう手配するから、良かったら仲良くしてやって欲しい。』


 何回かお会いして、俺が人並の生活を送れるぐらい落ち着いてきた頃、加奈のお父さんから切り出された。これが加奈と出会うきっかけになったんだ。


 加奈の電話が長引きそうな気配だったので、読書ブースの机の上のノートや過去問の片付けをする。

 

「……えっ!?……お母様とお父様が!?……はい……どちらの病院ですか?直ぐに向かいます!……えっ?今ですか?まだ、学校に残っていて勉強を……あっはい。迎えに来ていただけるなら待ってます。はい……では、校門前でお待ちしています……」


「……加奈……どうかしの?」


「……うん……お母様とお父様が怪我をなされて、今、病院で手術中って……」


「えっ!?……大変じゃないか……直ぐに向かわないと……」


「うん……ごめんね……この後、塁君と愛し合いたかったけど……今日は……」


「大丈夫だよ!加奈とは、いつでも会えるんだからさ。」


「うん!ありがとう!……本田さんがこの後直ぐに校門前まで迎えに来てくれるらしいから、今日はここでお別れでいいかな?」


 上目遣いで、瞳を潤ませる加奈に微笑で頷く。


「もちろん。じゃあ、また、明日ね。」


「うん。また明日」


 鞄を持って、急いで走ろうとするもピタッと立ち止まる。

 怪訝に思っていると、小走りで近づいてくる。


「どうしたの?」


「あー……また、逢えますようにっていうおまじない……したいなって……」


 加奈は俺に近づくと鞄を床に置く。


「おまじないって……」


 言葉を遮るように、腕を俺の首に回すと俺の唇を自分の唇で重ねる。


「!?ッ」


 俺の口に柔らかいものが侵入してくる。

 ひとしきり俺の口内を蹂躙すると、加奈はパッと俺から離れると鞄を拾い後ろ手で持つと、頬を紅潮させてはにかむように微笑する。

 

「えへへ……フレンチじゃなくて、ディープキスでした……またね……バイバイ」


「……うん……また……明日……」

 

 予想外の加奈の行動に心臓が激しく鼓動を撃っている。


『俺が惚れた女を掻っ攫って行ったお前が、最後まで責任を果たすなら俺は何も言わない。進学先、考え直せよ。』


 呆けていると、ふと、智也の声が脳裏を過ぎる。


「……進学先……加奈と同じ大学にするって道もあるのかな……」


 独り言ち、ギュッと拳を握りしめた。

 

『……止めはしないけれど……復讐のための人生って悲しいだけだよ……』


 そして、今朝のセラ先生の言葉が、頭の中でリフレインする。


「……あの時とは違うってことなのかな……」

 

 揺らぎ出した決意を再確認するように、俺は呟くと図書館の窓から外を見た。


「……明日、加奈に進学先について、俺の考えていることも含めて話してみるかな。」

 

 先ほどまで茜色だった夕暮れの空は、もう暗くなり始めていた。

 読書ブースの鞄をもって、図書室を出る。

 校舎から出て校門に向かって歩き出しながら、頬を紅潮させてはにかむよう加奈の表情と言葉を思い出す。


『えへへ……フレンチじゃなくて、ディープキスでした……またね……バイバイ』


「……そうだな……明日、加奈と同じ目線で考えてみようかな……」


 揺らいでいた決意が、再度、方向感を得たのを感じ、鞄を持つ手を握りしめる。

 








 ……でも、翌日、加奈が学校へ登校することはなかった。


◇◆◇

◆◇◆◇


「今日は、お知らせがあります。睦月加奈さんですが、今日付けで、転校となりました。転校先は……北米連合のインターナショナル・スクールってことです。」

 

 翌日、朝のホームルームでのセラ先生からの発表に、クラス中が凍り付いた。

 

「転……校?」


「そ、そんな……加奈が転校なんて……私……聞いてない」


「な、何かの間違いじゃ……」


 セラ先生の発表内容に、騒めきがそそかしこで広がり始める。

 

 俺は頭が真っ白になって、セラ先生が何を言っているのか理解できなかった。

 

「セ、セラちゃん!加奈が転校ってどういうことだよ!」


 俺の代わりに、智也がセラ先生を問い詰めているのを、どこか他人事のように聞いていた。


「……私もわからないのよね……何せ、今日の朝に一方的に通知が来てたんだよね。あと、メッセージアプリとかのIDも削除されていて加奈ちゃんに確認できなんだ……」

 

 銀髪と同じ色の形のいい美麗な眉を寄せながら、セラ先生は智也に困ったとばかりに両手を上げて降参のポーズを取る。


 セラ先生の言葉に、慌ててスマホのメッセージアプリで加奈とやり取りしていたメッセージを探すも『このユーザーは存在しません』と表示されていた。


 智也も同じ状況だったのか、頭を抱える。

 

「……そこまでの状況かよ……うーん……事情を知ってそうなのは……」


 思案気に呟く智也は、視線を彷徨わせ俺の方を見つめる。


「えっ……」


 智也だけでなく、セラ先生や他のクラスメイトの視線を一身に浴びて、俺は一瞬、怯む。


「塁……お前、何か知っているんじゃないか?」


「……いや……俺も初めて聞いて戸惑っている……」


 俺の返事に、智也は絶句する、ハッと何かに気づいたように顔を俺に向ける。

 

「塁!お前、加奈のスマホの連絡先知ってるんじゃないか?」


「あ、そういえば……教えてもらっていたな……かけてみるよ……」


 震える手でスマホの連絡先から『睦月加奈』という文字列をタップして表示されるTelNoをタップした。


 プルルルル


「塁!スピーカーにしてくれ。」


「あ、ああ……」

 

 智也の指示に従って、震える手でコール中のスマホのスピーカーをオンにする。

 

 ガチャッ

 

『お客様がお掛けになった電話番号は、現在、使われておりません……』

 

 電話会社の機械音のような音声が無機質に流れ、クラス中がシーンと静かになる。


 繰り返し流れる電話会社の機械音のような音声に、俺は、昨日までつながっていた加奈との繋がりが突然切れてしまった事実に愕然としていた。

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