02:花嫁の魔法使い

たった一つのまほろば -It's an only Magical World-


 第一章 たった一つの主人公


 優しかった世界はどこへ行ってしまったのだろう。死にたくない。まだ死にたくなんてない。


 甘い果実の香りに満ちた樹海で、全身が灰色に塗り潰された大きな悪魔から僕は逃げていた。


 今はどれだけ引き離せているのだろうか。後ろから迫る脅威を視界に映す。


 何度見ても恐ろしい姿だった。追いつかれれば、鈍器のような豪腕によって立ち所に潰されてしまうのだろうか。それとも、炎のように形の定まらない頭部に飲み込まれてしまうのだろうか。


 何であるにしろ結末は決まっている。でも、それならどうして僕は逃げているのだろう。終わりを少し先延ばしすることに意味を見出せなかった。


「ははっ……」


 乾いた笑いがこぼれる。そもそも生きる意味さえ考えたことのない僕がそれを考えるのは、今更の話ではないだろうか。


 体力の限界は刻々と近づいている。だけど、それよりも先に心が折れてしまいそうだ。きっと、その時こそがあの悪魔に追いつかれてしまう瞬間なのだろう。そして、殺されるのだ。


 名すら持たない僕は所詮、この世界という物語の端役でしかない。誰に見とがめられるわけでもなく、ひっそりと命を落とす。それが僕の、何の意味も持たない役所だ。


 この世界には十二の魔法使いが居ると言われている。それは誰もが知る共通認識だ。主人公というのはきっと、その魔法使いを指す言葉なのだろう。


「そんなの卑怯だ……」


 この感情は魔法使いに対する嫉妬だった。そして、僕はこれが何に起因するものなのかを考えてみる。


「そうか……」


 僕は主人公になりたかったんだ。


 だけど、それは決して叶わない。主人公の資質を僕は持たないのだから。


 落ちている枝を踏むと乾いた音が響く。立ち止まって足元を見ると、その枝は真ん中でポッキリと折れていた。


 もう駄目だ。もう走れない。奇跡でも起きない限り僕の死は決定しているのだから、これ以上走っても意味がない。


 ……だけど、やっぱり死にたくなんてなかった。


 死を決意したはずなのに、僕は未だにそう思ってしまう。


 それでも、結局はこの危機を打開する術を持たないのだから、できることといったら奇跡にすがるくらいしかなかった。


「助けて……僕を助けてよ。主人公ってそういうものだろう!」


 優しさに満ち溢れた素晴らしきこの世界がいつまでも続きますように──いつだったか誰かがそう言っていた。


「誰かの声……? あの子……灰の悪魔に襲われているようです」


 冷静な声が一つ。


「まずはあたしが足止めするわ。あんた、もう少しだけ頑張りなさいよ」


 もう一つの声は多分、僕に呼びかけているのだと思う。


 そして、淡紅色の花びらが僕と悪魔の間を割って入る。その正体が桜柄の羽織だと気づいた時、美しい花をまとう黒髪の少女が細身の湾曲した刀を目にも留まらぬ速さで鞘から抜いた。


 一呼吸の瞑想を置いて、片手に構える剣を横に一太刀。斬撃は水しぶきを上げ、白く波打つ水の刃を飛ばす。それは悪魔の脚を綺麗に両断した。


 歩行手段を失った悪魔はなす術もなく倒れる。失った脚の先からは墨汁のような黒い液体が溢れ出した。


「ぼぉぉああああぁぁぁぁああ」


 悪魔が苦痛の叫びを上げた。


 ああ、僕は助かった。本当に奇跡が起きたんだ。


 悪魔の脚を断ち切った水の刃。あれはどう見ても魔法によって生み出されたものである。つまり、この少女こそが魔法使いであるに違いない。いや、剣を携えるから魔法剣士と呼ぶべきだろうか。


「あんた、大丈夫なの?」


 魔法剣士は僕の身を案じてくれているのだと思う。だけど、その口調は少し怒っているようにも聞こえた。


 この森が甘い果実の香りに満たされていることを思い出す。


 そう、僕は安堵してしまったのだ。だけど、本当はまだ戦いは終わっていなかった。


 魔法剣士の背後から手のような形の黒くて大きな何かが迫る。


 緊張を解いたせいで、気づくのに遅れてしまった。だから、魔法剣士に危険を伝える猶予は微塵も残されていなかった。


 黒い何かとは悪魔の切断された両足から溢れる黒い液体だった。それが一本の腕のような物を形成している。


 その手が魔法剣士を鷲掴みすると、悪魔の黒い腕よりも遥かに太い樹木に魔法剣士を叩きつけた。


「かはぁ……!」


 魔法剣士の表情は苦痛に歪む。この一撃で彼女は気を失ってしまった。


 今度こそお仕舞いだ。


 考えてみれば、いくら魔法が使えたって生身の人間があんな化け物に敵うはずないじゃないか。一度や二度ならまぐれで勝てるかもしれないけど、一瞬の判断ミスをたったの一度でもすれば負けてしまうのだから、次も勝ち続けられるなんて道理はないんだ。


 悪魔は魔法剣士への興味を失い、再び僕に狙いを定める。悪魔の両足から伸びる黒色の腕が握り拳を振りかざした。


 今度こそ生への執着を諦めた僕は怖くなって目をつぶる。


「結局、この世界に主人公なんて居ないんだ……。だから、僕が主人公になれないのも仕方ないや……」


 その時、何かの弾ける音とそれから真夏に吹く風のような熱を持った空気が押し寄せる。


 僕は閉じた目を再び開いた。


 土煙の中に大きな棒状の物を持った人影が映る。視界が晴れると、そこには魔法使いが立っていた。


「あなたは主人公になりたいのですか? それなら、なればいいのではありませんか」


 僕は初め、どうしてウェディングドレスを着た花嫁がこんな森の中に居るのだろうと思った。


 純白の長髪に真紅の瞳。透き通るような白い肌。そして、鈍器にも見える大きな杖を構えている。この少女もまた魔法使いなのだと察した。


「……だけど、僕じゃ魔法は使えない。特別なものを持ってないんだ。……だから、なりたくてもなれないよ」

「魔法使いじゃないと主人公になれないのですか? 昔読んだ小説で“誰もが自分という物語の主人公である”と言ってました」

「そんなのは嘘だ! 僕自身が僕の物語に納得できないんじゃないか! こんなのが主人公だなんて認められないんだよ!」

「そうですか」


 再び動き出した悪魔の黒い腕に魔法使いは赤い小石のような物を投げつける。空気がわずかに歪んだ直後、爆発が悪魔の黒い腕を吹き飛ばした。


「一度だけでなく何度でも蘇るのですね。跡形もなく消す必要がありそうです」


 魔法使いが杖の先端を地面に触れさせると、そこを中心に時計のような模様の魔法陣が広がった。


「生は死へ。そして有は無へ。輪廻の歯車は加速する。微々たる命の数々よ。今こそ浄化の時間です。さあ、土に還りなさい!」


 魔法使いを囲う魔方陣と同じものが悪魔の周りにも現れる。だけど、それ以上の変化はない。唱えた魔法が悪魔にどんな影響を与えているのか一見しただけでは分からなかった。


「小説の主人公だって悩んだり立ち止まったりします。そういう時、主人公も自分という物語に納得してないんだと思います。あなたもきっと、今はそれと同じ状況なんじゃないですか」


 そんなのは詭弁だ。それが最初に浮かんだ言葉だった。


 だけど、僕は一度も納得のいく物語のエピローグでさえ始められていなかった。


 物語の途中で諦めるのなら、少しはその物語に納得いくのかもしれない。でも何もしていない僕は彼女の言う状況に立てていないどころか、スタートラインさえ越えていないことを理解する。


「……僕でも……主人公になれるの?」

「可能かどうかではありません。何かを願ってしまった時点で、もうそれを叶えるしか道はないのです」


 悪魔の本体である灰色の体が少し前よりも明らかに小さくなっている。体が地面に吸い込まれているのだ。そして、悪魔は成す術もなく地面の中に姿を消した。


 やっぱり魔法使いこそが主人公なんだ。だけど、欲を言うならもう少し派手な倒し方が良かったな。


「さあ、もう大丈夫ですよ」と魔法使いが僕に手を差し伸べる。 


「ありがとう……ございます。でも、自分で歩けるから平気。それよりも、あの人は大丈夫なのかな」


 僕たちは魔法剣士の元へと向かった。


「大丈夫ですか?」と魔法使いが魔法剣士の肩を揺さぶる。


「……ごめん。気を失ってたのね」

「とりあえずは大丈夫そうですね。それならよかったです。本当に……」


 魔法使いの瞳が一瞬だけ潤んだ気がした。


「あたしは大丈夫だから泣かないの。ただ、少しだけ休ませてちょうだい」

「な、泣きませんよ。ただ、あの反撃には気づいていましたが、出遅れてしまったばかりに……」

「いや、どう考えてもあたしの油断のせいでしょ」


 今度こそ、本当に助かったんだと僕は安堵する。


 何かを願ってしまった時点でもうそれを叶えるしか道はないと、魔法使いはそう言った。僕は主人公になりたいと思った。


「……そもそも、主人公ってなんだろう。死ぬ間際でふと思ったのがそれで。だけど、その定義が分からないよ」

「そうですね。正直に言えばわたしは主人公になりたいと思ったことがないので分かりません」

「だけど、君は僕を助けてくれた。僕は君を主人公だと思ったんだ。そこに答えがある気がするんだよ」

「あ、ありがとう……ございます……」


 魔法使いは赤くなった顔を杖で隠す。肌が白いせいで、感情の変化はとても分かりやすかった。


「君はどうして僕を助けてくれたの? どうして灰の悪魔と戦うの?」

「“ミナの魔法はみんなの魔法”──わたしの大切だった人が残した言葉です」

「……みんなの魔法」

「はい、わたしには魔法があります。あなたが言うところの“特別”を持っています。ですが、この魔法はわたしのものであると同時に、わたしだけのものにしてはいけないと思っています」

「だから、君は魔法の力で灰の悪魔と……世界の脅威と戦うんだね。それが君の使命と言わんばかりに」

「使命……いいえ違います。そうしたいと願ってしまったからです」

「願ってしまったから、もうその道しかない……?」

「はい、願いや望みは大きければ大きいほど呪いのように付きまといます。やらなければ後悔する。やって失敗しても後悔する。それならもう、成功させるしか道はないんです」


 魔法使いが言うように、なるほど願望というのは呪いのようだ。


 僕にとってただ一つの納得できる結末は主人公になること。それ以外にないのだろう。


「まず僕のすべきこと……それは……」


 僕は魔法使いが両手に持つ大きな杖を見詰めていた。でも、何がそんなに気になるのか自分でも分からなかった。


 杖を見てると不思議にも腹が立つ。この苛立ちはなんだろう。誰に対する憤りなのだろうか。


「この杖がどうかしましたか? ああ、先端の装飾が少し大きいのが気になりましたか。これを振り回して武器にするためなんです」

「そ、そうなんだ。でも……そうじゃなくて僕は自分がまず何をするべきかわかった気がするんだ」

「あら、そうでしたか。それは喜ばしいことだと思います。わたしにも手伝えることはありますか?」

「あ、うん。えっと……無理にとは言わないんだ。もちろん、危険なのも承知してる。できたらそうしたいってだけで……。その、出会ったばかりの僕がどうしてって思うかもしれないけど……あの……」


 別に愛の告白をするわけでもないのに何だか照れ臭い。断られたらどうしようという不安だってある。


「少し落ち着いて下さい。深呼吸です。わたしは逃げませんから、自分のペースで大丈夫ですよ」


 その時、僕は枝葉をかき分けるような音を耳にした。


「……この音……それにこの匂いはなんだ……?」


 僕は魔法使いよりも鼻が利くし耳もいい。いわゆる野生の勘というものを持っている。だから、いち早く気づくことができた。まだ戦いは終わってなかったんだ。


 それはまばたき一つにも満たない一瞬の出来事だった。魔法使いに向けられる殺意。だけど、何かが来ることに気づいた僕はその殺意が届くより早く魔法使いに体当たりする。


 魔法使いの真紅の瞳が大きく見開く。僕の方に手を伸ばしてくれるけど、あと数センチという距離が僕と彼女の手を阻んだ。


 そして、灰色の殺意が僕の小さな体を貫いた。


 体の内側が燃えるように熱い。だけど、この熱は体を貫かれた痛みだけのものではなかった。


 先ほど植物が燃える匂いを嗅いだのだ。それを判断材料にすれば、例えば炎を操ることのできる、先ほどのとはまた別の悪魔が現れたと考えられる。


 体を内側から焼く激痛が僕の意識を一瞬で奪っていった。最後に浮かんだ言葉は“優しさに満ち溢れた素晴らしきこの世界がいつまでも続きますように”という誰かの願いだった。

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