■■-■■ 『と或る少女の苦悩③』 Side:Ivy
そうして彼に案内された部屋は、
(うーん、何ていうか……)
殺風景?な、特に特徴の無い部屋だった。
端っこの小窓から差し込む光と、天上に吊るされた蛍光灯だけが部屋を照らしている。
中央にマルチモニターのパソコンが一台置かれているが、椅子は無い。
私の座っているゲーミングチェアは、このパソコン用なのだろうか。
パソコンの画面は付きっぱなしになっていた。
一つのスクリーンには文字列がずらーっと並んでいて、もう一つのスクリーンには何やら変な記号が表示されている。
(ん……?これ、プログラミングだ)
独学だが勉強していた私には、目の前に並んでいるプログラミング言語を理解する事が出来た。
でも、どこか違和感がある。
私はその違和感の正体を目で追った。
(あ、ここと、ここ、打ち間違えてる……あと、ここも)
何やら打ち間違いの多い文章だった。
ここも、ここもと間違いを見つける度、無意識に私の両手はキーボードを打ち、気がつけば全部の間違いを直していた。
カチッとEnterキーを押す音が響いてから、やっと自分が無許可でパソコンをいじっていた事に気がつく。
「あ……すいません、……パソコン、勝手にいじってしまって……」
「あ?……あぁ、パソコンか。どうせ俺には分からないから気にすんな」
それより、とジキルさんが近づいてきて、パソコンの置かれたテーブルの上に右手を置いた。
じっと画面を覗き込んでいるようだ。
彼の顔の近さに、思わず椅子に座ったまま数歩下がる。
「お前、この……ぷろぐらみんぐ?出来んのか?」
「は……はい、独学ですけど、勉強してたので」
「じゃあ、ハッキングは出来るか?」
「兄がホワイトハッカーを目指していた時期もあったので、多少は」
「そうか」
とだけ短く言い残し、ジキルさんはパソコンから数歩離れた。
考え事をするかのように壁際をグルグルと歩く。
カツカツという靴音がジメジメとした地下室の中に反響する。
数秒してから、彼はふと私を振り返った。
「白愛」
「は、はいっ」
「お前、帰れる家はあるのか?」
「……え?」
叱られると思って身構えた私は、彼の一言に虚をつかれた。
「つまりだな、どうしてあのビルの屋上に居たのか聞いてんだ」
「家族は……居ます、家も、あります」
一言一言を絞り出すように、考えながらゆっくりと喋る。その間も、ジキルさんはじっと待っていてくれた。
「屋上に居た理由は、……よく分かりません。無意識だったので。でも、家に帰りたくなかったのは、よく覚えています」
「どうしてだ?」
理解出来ないと言うように、ジキルさんが首を傾げる。
あの屋上での感情をどう説明したものか。
私は脳内から必死にそれらしき言葉を引っ張り出した。
「こんな事言ったら、贅沢、かもしれないんですけど……何ていうか、親の期待とか、友達の視線とか、そういうの全部ひっくるめて、毎日が……」
「窮屈になった、か?」
「……はい」
どうして分かったのだろう。そう思ってジキルさんの方に視線を向けると、彼はどこか懐かしい物を見るような、憐れみのこもった優しい目つきをしていた。
「ジキルさん?」
「あぁ。すまん、ちょっとぼーっとしてた」
スーッと深く息を吸って、覚悟したようにジキルさんが腕を組む。
「……白愛、もしも家に帰る気が無いんなら、俺たちと一緒に働く気は無いか?」
「働く?」
「そうだ。『何でも屋』ジキルとハイドの、専属ハッカーとして」
「……やります」
家族だとか勉強だとかについて深く考えるよりも早く、答えは出た。
誰かが私を本気で必要としてくれている。
信頼しようとしてくれている。
昔から人の頼みを断れない私には、それだけで充分だった。
でも、これはいつもの友達や親からの『頼み』とは違う。
心の奥底でそう思っている私が居る。
何というか、上手く言語化は出来ないけれど、期待という枷がかけられてないだけで、随分と気が軽くなった気がした。
それに、彼らは私を助けてくれたのだ。
いい人とか悪い人とか関係なく、恩を返さなければ。
「本当か!?」
オッケーを貰えるとは思って居なかったのだろう、ジキルさんは目を丸くして驚いた。
自分から聞いておいて、変な人だ。
私は心の中でクスッと笑う。
「じゃあ、これからよろしくな、白愛」
彼が右手を差し出すと、スッと空気が変わった気がした。後ろの窓から日光が差し込み、彼を照らす。今の彼はまるで、絶望のどん底に現れた救世主に見えた。
「はい!」
「んー……」
「どうかしましたか?」
握手した状態のまま、突然ジキルさんは考え込んだ。
彼の大きな手の感触に少し懐かしさを覚える。
「いや、さっきからなんか違和感があって……あ、分かった」
ジキルさんが一歩踏み出す。人一人分くらいだった私達の距離が、さらにぐっと縮まった。
「な、なんです、か……?」
彼の顔の近さにたじたじになり、思わず数歩下がる。
これまで同年代の異性とここまで近づいた事など無かったのだ。
心臓のバクバクという鼓動がどんどん大きくなっていく。
「敬語」
「は、はい??」
「敬語は使うな。タメ口で良い」
「……分かり、ました、じゃなくて!……分かっ……た」
それでいい、というようにもう一度ジキルさん……じゃなかった、ジキルが笑う。
こうして、私の『第二の人生』は、薄暗い地下室から始まった。
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