04-03 『夢』 Side:Ivy
「お母さん、みてみて」
いつもより、視界が低い。
踏み出した一歩が、いつもの何倍も小さい。
何が起こっているのか。
理解出来ないまま、私の体は操られたように淡々と動き続ける。
小さな手のひらで母親に差し出したのは、山のように積まれた桜の花びらだった。
「まぁ、綺麗ね」
母親が嬉しそうに顔をほころばせる。
しかし、その顔を、なぜか目視する事が出来なかった。
まるで、誰かが「見るな」と言っているかのように。
「白愛はまだまだだな」
威張ったような少年の声。
振り返って見れば、兄が塀の上から私を見下ろしていた。
「■■、そんな所に立ったら落ちるわよ」
母親の声が兄を優しくなだめる。
その言葉に観念したのか、兄が片足を出して――塀から飛び降りた。
1.5メートルの高さほどあったのに、「よっ」と軽々しく着地する。
「ほら見ろ、白愛」
誇らしげに兄が差し出したのは、両手いっぱいに広がる春の花々だった。
アザミ、ナノハナ、エリカ、タンポポまである。
まるで、手のひらの上に花畑が広がっているようだ。
「わぁ、きれい……!」
目を輝かせる私の横で、母親が眉間にシワを寄せる。
「それ、どこから取ってきたの?」
しかしそんな母親に対しても、兄は誇らしげに胸を張った。
「庭師のおじさんがくれた。聞いたら、取ってっていいよって」
「……そう」
とだけ言って、母親は私たちから視線を逸らす。
その横顔が、とても悲しそうな色を帯びていた。
……
私は、この後の展開を知っている。
これは、私の過去だ。
今となってはもう戻ってこない、『白愛』の過去。
捨てた筈なのに、まだこうして夢に見るのは……きっと、
きっと、まだ未練が残っているから。
視界がゆっくりと暗転して、場面が切り替わる。
先程よりも視界が高くなっている。
辺りを見渡してみると、そこには見慣れた景色が広がっていた。
山のように本が積まれた本棚。
勉強机の上にはデスクトップのPC。
懐かしい。
ふとそんな感情が芽生えた自分を鼻で笑う。
つい数ヶ月前まで住んでいた部屋じゃないか。
爆音で音楽を流し続けるワイヤレスイヤホンを耳から取る。
「どうしていつも貴方はそうなの!?」
「だから、違うって言ってんだろ!!」
耳鳴りと共に襲ってきたのは、もはや日常茶飯事と化した罵倒の声。
兄と母親が喧嘩していない日は、片手で数えられるほど少なかった。
体育座りした膝の合間に額を埋める。
うるさい。
うるさいうるさいうるさい。
全部消えて静かになればいいのに。
そう騒ぐ心を押さえて、私はそっと目を閉じた。
どうせ夢なのだから、騒いだって意味がない。
そう、これは……
いつか終わる夢だ。
コンコン、と部屋の扉がノックされる。
「白愛?」
しんとした部屋に響くのは兄の声。
久しぶりに聞く、優しい声に涙が出そうになって、必死に吐息を堪える。
膝の合間に顔を埋め続けながら、兄を無視し続ける。
「白愛?居るんだろ?」
ズキズキと心が痛む。
これがもし現実なら、今すぐにでも扉を開けて兄に抱きつきたい。
久しぶりだねって、言いたい。
なのに……
体が動かない。
両手を目元の高さまで上げれば、ブルブルと震えていた。
返答の無い私を不審に思ったのか、ギギッ……と音を立ててドアが開いた。
僅かな光が部屋の中に溢れる。
「入るぞ……って」
部屋に入った兄は、早速目を見開いた。
それもその筈、私はドアに背を向けて、椅子の上で体育座りをしていた。
ドアをノックすれば、普通に聞こえる距離だ。
「どうした?大丈夫か?」
肩に兄の両手が触れる。
温かい、安心できる手だ。
「……いや、別に…………」
ドクン、ドクンと心臓が鼓動するのを感じる。
「……ごめんな」
ボソリと、兄が申し訳無さそうに呟く。
「え?」
振り向くと、兄が私の背中に顔を埋めていた。
「ごめん、いつも一人にさせて」
「……お兄、ちゃん」
何が起こっているのか信じられなかった。
今、私に向かって謝っている人は誰だ。
――兄は、私の前では勿論、母や友達の前でも弱音を吐く事は滅多に無かったのに。
目の前にいる人物は、兄であって兄でない。
そんなもやもやとした違和感が、心を覆い尽くしていく。
しかし。
気付けば私は両手を伸ばして、目の前の人物を抱きしめていた。
両腕の中に落ち着く温度が広がる。
「……」
目の前に広がるのは夢かもしれない、だけど。
「会いたかったよ、お兄ちゃん」
兄に会えた事を、喜んでいる自分が心のどこかに居た。
「白愛……お前……」
驚いた表情の兄に頬を拭われて、いつの間にか涙を流していたことに気がつく。
泣いて、と兄の唇が動くが、声にはならなかった。
「ううん、」
慌てて目頭を押さえる。
「嬉し涙だよ」
私がそう言うと、兄は安心したようにフッと笑った。
先程よりかは少しだけ和んだ雰囲気の中で、私の意識は再び暗転した。
そして舞台は切り替わる。
何倍も残酷で、救いのない場面に。
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