2-4 ミナとリタ

 それは一昨年の、暑い夏の日であった。


 リタ=ターリベルは、買い物を終え、自宅を目指し、トリスタリアの商業区を歩いていた。


 今年のトリスタリアは、例年と比べてもかなりの酷暑であるらしい。

 石畳みの道路からはうだるような熱気がゆらめき、周辺の空気には生ぬるい風が滞留している。

 そんな中を進む人々の歩みも、目に見えて気だるげであった。


 こんな日に外出など普通ではないし、本音を言えば屋内に引きこもっていたい。


 しかし、外せない用事とは唐突に飛び出してくるものであり、待ったをかけてはくれないものである。


「あーもう、なんて日なの……。よりによって今日、魔導機が止まっちゃうなんて……」


 パタパタと手のひらで顔をあおりつつ、もう片方の手にぶら下げた買い物袋を見る。


 中身は、数枚の特殊な魔術を施された布切れの束。

 食品や水など、運ぶのも大変な重い買い物の類ではなく、バッグ片手に運べる程度の軽い買い物だ。

 その点は幸いと言えば幸いであるのだが。


 とりあえずこの『魔法陣』の束をもって、暑さで意識を失う前に家に帰り着くことが急務である。



 ──さて、この世界の魔法には、主に二種類の発動方法がある。


 一つは、呪文の詠唱による発動だ。

 こちらは主に魔術師が使う手段で、伝統的でオーソドックスな方法と言えるだろう。


 だが、この方法はいろいろと応用が利くかわりに、魔術師として鍛錬を積んでいない者には扱うことが難しい。

 自身の魔力や、場合によっては大気のマナを必要とし、その出力にも制御にも多大な練度を要するのだ。


 二つ目は、魔法陣による発動だ。


 こちらは前者のようなプロ向けの発動方法とは異なり、リタのような魔術の素人でも扱えるのがメリットである。

 あらかじめ特殊な布や紙に魔術の発動式を刻んでおき、あとは魔力を流すだけで効果を発揮できる。


 弱点としては、呪文詠唱よりは遥かに規模の小さい魔術しか扱えないし、決まった結果しか得ることはできない。

 プロの魔術師たちにとってはいささか物足りないだろうが、リタのような一般人にはそれで充分である。


(とりあえず余分に買っておいたし、当分はこれで足りるわよね)


 今回買い足したのは、飲み物用の氷を作るための冷属性の術式が刻まれた魔法陣や、硬い氷を割るための鋼属性の術式が刻まれた魔法陣。


 魔法陣は、それ自体を身につけ、魔力を通して使用することもできるが、我が家には最近仕入れた、魔法陣をセットして使うタイプの、専用の魔導機がある。

 多少であれば魔力を貯めて置けるため、日々の使用に適しているのだ。


 ただ、魔法陣の方は何度か使用すると効果がなくなるため、定期的な補充が必要になるのだが──、間抜けなことに、その補充を失念していたのだった。


 そのため、こんな地獄のような太陽の下、商業区の魔道具店に買い出しに行く羽目になったのであった。


「それにしても、本当酷い暑さだわ。汗ごと脂肪も流れ落ちそう。最近体重気になってたし、これなら痩せれるかしら、うふふふ」


 長い前髪の奥の額に、たらりと汗が落ちる。

 まあ、当然そんなうまい話はないのはわかってはいるが、軽口でも叩かなければ、この地獄のような日差しの中ではやっていけない。



 ──そんなとりとめのないことを考えながら、少し日陰を通ろうと、近道である細い路地に入ったときだった。


「あら……?」


 細道の隅、路地の端。


 狭く煤けた地面の上に、小さくうずくまっている人影があった。

 レンガの塀に背を預けるようにして、地面に座り膝を抱え込んでいる。

 小柄な背丈から推察するに、まだ若い女の子のように見える。


 熱中症だろうか。

 具合が悪いのなら助けてあげなければ。


 リタは特別おせっかい焼きな方ではないと自負しているが、少なくとも目の前で倒れている人を見て何もしないほど薄情ではない。


 とりあえず運良く持参していた水筒を手に取り、そのうなだれている少女に近寄り話しかける。


「あの、大丈夫?お水飲む?」


 その言葉に反応したのか、少女は伏せていた頭を動かし、小さく顔を上げた。


(あら可愛い)


 リタは思わずにこりと笑顔を浮かべる。

 困っている相手を前に不謹慎だとは思うが、少女は贔屓目に見てもなかなか整った顔立ちをしていた。

 切りそろえた黒髪の隙間から見える綺麗な瞳が、うつろな色を湛えてリタを見つめている。


 だが、随分とやつれているようで、目の下には酷いクマができており、目つきも厳しく、こちらに対する警戒心もあらわだ。


 少女はリタの方を見ると、小さく口を開く。


「……いえ、大丈夫です。べつに気にしないでください。わたしに関わらないでください」


 何もかもを諦めたようなその表情。

 全てに対して思考することを放棄したようなその姿を目の当たりにし──、



 リタは、ふん、と鼻を鳴らして目尻を上げ、堂々と腰に手を当てた。


「ダメです。関わります」

「………え?」

「ほら、ちゃんとお水飲んで!そんなふらふらな体じゃ本当に倒れちゃうでしょ!」

「え?あ、ちょっと………?!」

「服も髪も泥だらけじゃない。ちょっとうちに来なさい。一緒にお風呂に入りましょう!うちにはシャンプーハットもあるから大丈夫」

「いや、わたしそんな子どもでは……!」


 戸惑う少女の手を引きながら、自宅への道のりを急ぐ。

 固く強ばった少女の手は、しかしとても柔らかい掌だった。



****************************



 少女が来ていた服はずいぶん見慣れない服装であったが、とりあえず全部剥いで洗濯用の魔導機につっこむ。


 次いで、リタは自宅の浴室へ、すっぽんぽんになった少女を連れ込んだ。


 本来は薪をくべ、湯をわかしてから入るのだが、のんびり待っている暇もない。

 少々値が張るのでもったいないが、非常用の湯沸かし魔法陣で瞬間的にお湯を沸かす。


 少女の泥だらけの頭に、適温にしたお湯をかける。


 二、三度ほど繰り返すと、今まで冷たくこわばっていた表情が、温かく柔らかいものへと解けていくのがわかった。

 膝の上で握りしめていた手のひらが緩められ、かちこちになっていた背中が丸まっていく。


 やがて、ようやく安心したのか、少女の固く結ばれていた唇から、啜り泣く嗚咽の声が漏れ始めた。



「う………ぐすっ………」


 体を洗ってあげるうちに、少女は鼻をすすりながらも、ぽつりぽつりと事情を話してくれた。


 自分はニホンという国の生まれだということ。

 たまたま通り道で入った路地を抜けると、いつのまにか気を失い、気がついたらこの街に来ていたということ。


 目の前に広がる見たこともない建物に、自分とは異なる外見の人間たち。

 そんな未知の光景に混乱し、逃げるように路地裏で二日を過ごしたこと。


 つらつらと、淡々と、少女は事実だけを述べていく。

 そんな少女の言葉を、リタは彼女の体を流しつつ黙って聞いていた。


 数分ほど話し続けた後、少女は話を終えて、口を閉じる。


 そして、リタに振り返り、「ありがとうございます」とお礼を言って頭を下げ、少女はぎこちない微笑みを浮かべてみせた。

 笑顔は苦手なのだろうが、これが彼女なりの誠意なのだろう。


 リタは少女に笑顔を返すと、再び彼女の背中を流す。

 少女も、今度は安心したようにリタに背中を預けてくれた。




 だが──、リタは、聞き漏らさなかったのだ。

 その後に彼女がぽつりと漏らした呟きを。


 誰にも聞き取れないくらいの小さな声。

 誰にも聞かせるつもりのないほどの微かな声。

 おそらくそれは、本人すら無意識で漏らしてしまった弱音だったのかもしれない。




 ──帰りたい。






 リタはそんな少女の背中にそっと触れる。


 助けてくれた相手に、そんな言葉を聞かせたくなかったのだろう。

 か弱い背中なのに、芯のある強い子だ。


 なんだか、とたんに愛おしくなり、少女をぎゅっと抱きしめてやると、少女は「ひゃっ」と小さく声を上げた。


 必ず、この少女を元の家に帰してあげよう。

 それまでは私が、この子の親のかわりになり、この子を大事に育ててあげるのだ。


 そう、思った。


 どうやら自分は自分で考えている以上にお節介焼きだったのかもしれないと、リタは内心苦笑いしてしまうのだった。

 


******************************


「ていうのが、私とミナの馴れ初めなんだけど──、って、アーニャちゃん!?」

「うあ゛あああ……っ、わたしそういう話ダメなんだってぇ……っ!………からかってごめんミナぁああ!」

「なんか鼻水と涙で人の顔とは思えない状況になってるわよ!顔面が体液とけだしたグールみたいになってるわよ!」

「エルフですぅうう、ずびび!」


 ひとしきり体液を噴き出し終えたアーニャを見届け、リタは続ける。


「まあ、それからは仲良くなって、この店でミナが働きだしたり、ミナの国の料理を伝聞で再現してみたり、本当いろいろあった二年間だったわね。ハーフエルフ人生の中で一番大変で充実してたかも」


 思い返すようにリタが遠くを見る。


 その横顔を眺めつつ、アーニャは思った。

 ミナはたしかに不運であったが、リタと出会えたのは最高の幸運であったのだと。







 ──その後、そういえば、とリタはふと思いだしたように言った。


「あの子、前は格闘技やってたみたいで、鋼属性の魔法陣プレゼントしたら素手でレンガぶち抜くようになっちゃったのよね」


 魔力はほとんど持ってないみたいなのに、魔法陣使うセンスがいいのかしらねぇ。

 そんな緩い感じで、「あはは」と軽快に微笑むリタ。



「いやアレあんたのせいだったんかい!」



 と、アーニャは思わず全力で突っ込んでしまうのだった。

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