1-4 魔法使いと物理少女

 どうやら、神様の気まぐれは悪魔のそれより意地が悪いらしい。


 転移そのものには成功した。

 だが魔力不足のせいか、そもそも単に運が悪かったのか。


 アーニャたちはろくに距離も稼げない転移を行なってしまったようだった。

 もちろん今ので魔力はすっからかん、絞り出しても出てくることはないだろう。


 

 尻餅をついていた少女が、アーニャへと語りかける。


「あの、今の魔法、あなたが使っていた、あの魔法は……」


 眠たげな瞳を見開き、細い眉尻をあげる少女。

 それはまるで、何か驚愕するものを見たかのような、気に障るものを見たかのような――。

 その声は心なしか、彼女が男たちに囲まれていたときよりもずっとずっと感情的に聞こえ、その体は今までになく前のめりになっているように思えたのだが――、

 当のアーニャは今それどころではないのである。


「言わないで!あれだけカッコつけたのにこのザマとか、恥ずかしくて死ぬ!ていうか死にたい!」

「いえ、あの……」


 頭をよじり、膝をかかえて悶絶するアーニャ。


 その哀れな姿を眼下に、リザードマンの男たちは彼女を頭上から見下ろす。

 そしてにたりと不気味な笑みを浮かべた。

 追い詰めた獲物が怯えている様は、彼らをひどく昂らせるらしく、ますますその口角が上がっていく。


「へえ。なら望み通り死なせてやろうか?なぁ、金髪エルフちゃんよぉ?」

「おまえ、おれたちに何か言うことがあるよなぁ?酷く馬鹿にされたような気がするんだがなぁ?もう一度聞いてやるからそこに座って言ってみろや」

「ひぃっ!」


 男たちの矛先がヒュームの少女から自分へと移ったことを理解する。

 アーニャは文字通りトカゲに睨まれたカエルのごとく身を縮め、体を丸めたカメのように様子を伺うのだった。


「なあ、おれたちの性根と顔面がなんだってぇ?」

「あ、あれは、その、言葉のアヤというか、逆説的な意味というか……、いやー、その牙…とても鋭くて、素敵ですね……!」

「ああっ!?」

「ひぃいっ!」


 ダメだ、このままでは殺される…っ!

 となれば、とれる手段は一つしかない。

 危機的な状況を打破できるのは、いつだって柔軟な発想の転換なのだ。


 アーニャは潔くがばりと顔をあげる。


 そして次の瞬間、──急転直下で額を地面にこすりつけた。



「す、すんませんでした!見逃してください!あとお金は持ってないです!すかんぴんですぅ!」



 不憫なほどに見事な土下座であった。


 これには横で座っていた少女も、二人を見下ろす男たちも、思わず「うわぁ…」という視線を彼女に向ける。

 エルフとは、たしか気高い種族であったはずだが――、どうみても目の前のソレは、プライドもクソもないただの耳長女である。


 それもそのはずで、エルフは閉鎖的な村で生活し菜食主義で暮らしているが、アーニャはエルフのくせに人里に住むし、肉だって平気で食う。

 プライドと金を天秤にかければ、ちょっと迷って後者をとるくらいの半端者であり、命と誇りを天秤にかければ、迷わず前者をとるくらいの俗物である。

 トリスタニアでの数十年における生活の中。

 彼女はもはや洗い落とすこともできないくらいに、すっかり俗世に染まりきっていた。

 手のひら返しもお手の物、命乞いの土下座など安いものだ。



 ──が、当然その程度の謝罪で、肉食獣が捕獲した獲物を逃がすわけがないのである。


「へぇ。金持ってないなら体で払って貰うしかねーよなぁ…?」


 ぐへへ、と笑いをこぼすリザードマン。

 猛る暴漢の魔の手が迫り、怯えるエルフの少女の身が縮こまる。


「いや、待って!ほ、ほら、わたし顔はいいけど、体はけっこう貧相で……」

「エルフの生き血は高く売れるって話だぜぇ?臓物はソーセージにでもしてやるかなぁ?」

「え、そっち?!わたし物理的に体切り売りされちゃうの?!いやだぁ!死にたくないー!!」

「うるせぇぞ小娘!なら奴隷商にでも売りつけてやる!死ぬよりつらい余生になるかもしれんがなぁ!」

「それもいやぁ!!勘弁してくださいー!」


 恥も外聞もなく大声で泣き叫ぶエルフの少女であった。


 そんな彼女の情けない姿を横目に、ヒュームの少女が、はぁ、と静かに、呆れ交じりのため息をつく。

 じつに面倒くさそうな様子で、彼女を一瞥し、男たちに視線を向ける。


 そして、少女はぼそりと、独り言を漏らすように呟いた。



「――まったく。強い人間じゃないなら、弱い人を助けようとなんてしなければいいのに」



 パンっ!と空気の爆ぜる大音が、静かな石畳の路地に、唐突に響いた。


 硬い鎧を貫いたかのような、重い質量を弾き飛ばしたかのような。

 耳の表から裏まで突き抜けるような衝撃音。

 その音に遅れ、衝撃をまとった風が細い路地を通り抜け、建物の隙間から覗く狭い空へと霧散していく。


「まあ、わたしは弱い者ではないですが」


 無愛想な少女が無造作に呟き、彼女の口の端が不満げに結ばれる。

 その眼下のすぐ先――。

 男の一人が先ほどまで立っていたその場所には。


 石畳に倒れ伏し、白目をむいているリザードマンの姿があった。


 ぴくぴくと痙攣している様子で完全に意識が飛び、まるで馬車にでも跳ねられたかの様相で床に伏している。


「「へ……?」」


 細道に、静寂が訪れる。

 次に響いたのは、アーニャの間の抜けた高い声と、男の当惑した低い声だった。


 屈強なリザードマンの男が一人、泡を吹いて地面に伸びている。

 その傍らには、か弱いはずのヒュームの少女が一人、拳を固めて床を踏みしめている。

 彼女の足裏の石畳がぴしりと音をたて砕け、弾けた小石がからりとその場に転がった。


 彼女は、ふぅ、と小さく息を吐いた。

 掌底を突き出した構えを崩し、自然体へと体を戻す。

 拳を払う動作は滑らかで、素人目にも達人ぽいそれである。

 目ではまったく姿を追えなかったが、頭ではかろうじて状況を推測できる。


 どうやら彼女の柔らかに見える拳は、リザードマンの硬い鱗すら打ち抜く凶器であるらしい。

 身体強化魔法か?いや、彼女から感じるのは脆弱な魔力だけだ。10歳にも満たない子どものような、いや、ヘタをすると生まれたての赤子にも劣るほどの、微弱な魔力。

 

 わけがわからない。

 拳の裏に鉄板でも仕込んでいるのか、それとも人の形をしたオークか何かだろうか?


 少女はぷらぷらと拳を振りつつ、残る男の方へと目を向ける。

 彼女からは、凶暴な獣に対峙しているような張り詰めた緊張感は全く感じられず、――それはまるで、服についた埃を払うような、ぞんざいで投げやりな雰囲気を纏っていた。


「まだやりますか?私は構いませんよ、むしろ望むところです。ちょうどワニ皮の財布が欲しかったところですし。ああ、ワニでなくトカゲでしたっけ?まあどちらでもいいですけど」


 ぎろりと鈍く輝く眼光。


 もはや、肉食獣と獲物の関係は、すっかり反転していた。

 今や少女は狩る側であり、リザードマンの男は狩られる側だ。

 完全に呑まれている。

 素人のアーニャが見てわかるほどに、男の狼狽は強く、大きくなっていく。


 男の足が一歩、二歩と下がる。

 だが、彼には種族としてのプライドと、男としての意地もあるのだろう。

 得体のしれない敵に対して、ぶん、と腕を大きく振り、素早く腰を落として少女を睨む。

 

「く、ぐぎぎ、クソがぁっ!!」


 それは、怒りとも悲鳴ともつかない咆哮であった。


 男はまるで大型の猪かのごとく少女へと突っ込んでいく。


 だが、それよりも遥かに小柄な少女は、彼の方をちらりと一瞥し――、アーニャの方へと向き直る。


「──とりあえず、そこのエルフさん。あなたとは個人的に、少し話がしたいのですが――」


 パァンッ!と、先ほどよりも派手に、盛大な音が空気を裂いた。


 続いてアーニャの隣にリザードマンが吹っ飛んできたかと思うと、彼女の背後へとえぐい音をたてて転がっていった。

 アーニャの前髪が衝撃にふわりと揺れ、二、三度往復したのち止まる。

 遅れて、その破壊的な破裂音が、男の顔面にヒットした彼女の裏拳の音だと気づいた。


 ひいっ、とアーニャは息を呑み、半笑いの涙目で少女を見る。

 話ってなんだろう、とか、なんで自分に、とか、もはやそんなことを考えている余裕すらない。アーニャの思考はショート寸前であり、早急にシャットダウンしたい心情であった。


 が、少女の方はそんな彼女の事情には最初から興味がないのか、はたまたそもそも気づいてすらいないのか。


 遠慮なしにずかずかとアーニャの眼前に立つと、おそるおそる視線を上げるアーニャを見下ろし、言った。


「先程あなたが使った魔法、ちょっと興味があります。助けてもらったお礼もしたいので、ついてきてもらえませんか?」


 鋭い眼光をたたえたまま告げるその姿に、アーニャはもはや涙目である。

 先ほど凶暴な獣を食い殺したばかりの魔獣に、のこのこついていけるものがいるだろうか。

 ――いやない!


「い、いやぁ……、ほらわたし、結局あなたを助けられなかったし、あなたが全部解決したわけだし、、お礼とかもいらないかなー、なんて………」

「遠慮は無用です。お礼します」「いや、べつに遠慮とかしてないって!お礼もいならないって!」


 少女は、はぁ、と大きくため息をつき、


「というか、――わたし、このままあなたを帰す気はないので。お礼、…させてくれますねよね?」

「は、はい………お礼、受け取らせていただきます……」


 だめだ、逃げられない。

 今のアーニャは、神でも悪魔でもなんでもいいから、命乞いでも靴舐めでもしたい心境であった。

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