s.

夏緒

s.

 いつからだっけ。

 隣にこの体温がないともう、眠れなくなってしまった。

「おやすみ、あゆ」

「うん……」

 一人ではいつまで経っても眠れやしないのに、隣に居てくれるだけで、眠くて眠くて仕方がない。




『s. 』




 ――先輩と遊びに行く。晩飯いらない。


「……あっそ」


 仕事終わりらしい時間に送られてきた簡素なメール。

 返信の代わりに、舌打ちをひとつ。

 どこまで本当なんだか。

 それにもう作っちゃったわよ、オムライス。

 別にいいですけど?

 一人で食べるから、二人分ね。


 何年目、とか、もう忘れた。

 2DK は二人で暮らすには十分で、喧嘩したら隣の部屋に移れば済む。

 ここはそもそも私の部屋だし、出ていくならアイツのほうなんだけど、近頃はもう喧嘩もしない。

 仲良しじゃないよ。

 馴れ合いが過ぎて、面倒臭いだけ。

 一人で布団に潜り込んで、明日も仕事だから早く寝たいのに、いつまで経っても眠れなくて。

 深夜一時にゆっくりと鍵の開けられる音が聞こえる。

 おかえり、なんて言わない。

 自分の首絞めるだけだし。

 立たない足音は、ベッドを通り過ぎて静かに浴室へ。

 やっぱり嘘だったかな、あのメール。

 厳重に閉められた扉の向こうから聞こえるシャワーの音。

 洗い流してるのは、汗? 匂い? それとも、私には向けてくれなくなった、満面の笑み?

 シャワーの音が止んで、ガチャッて扉の開く音がして、聞こえてくるのは近付く足音。

 寝てるんだからね、私。

 おかえり、って言ってないんだから、布団剥ぎ取るのはやめてよ。

「あゆ」

「ん……ぁ、」

 キスで起きた訳じゃないけど。

 別の人を触ったその手でその舌で、私を触るのはやめてよ。……拒めないんだから、私。

「は……ぁ、ん……」

 好き。なんだから。

 貴方の事。




 始めの頃、誰かが確かに言った。

 アイツだけはやめとけ、って。

 絶対続かないから、後悔するから、って。

 五年まで続いたところで、あの時の忠告を思い出した。

 続いてるよ、でも本当、やめとけば良かった。

 後悔するから、の意味を、教えておいて欲しかった。

 やめられないところまで来てしまったよ。

 だって私、彼が居ないと眠れない。




「どうしたの? それ」

「ああ、こないだ先輩から貰ったんだよ。いいだろ、これ」

 珍しく被った休みの日。

 旬の右手の親指には、見たことのない厳ついシルバーリングが付いていた。

 先輩、は知ってる。

 前に二人で買い物してる時にたまたま会って、紹介して貰ったから。

 悪い人じゃないと思う。

 あんまり好きじゃないけど。

 テレビを前にして二人、床に座り込んで親指を覗き込む。

 そのデザインに悪趣味……と思うけど言わない。

「お前にならやってもいいよって言ってくれてさ。あの人は人差し指につけてたんだけど、俺じゃ親指しかはいんねぇ」

「そうなんだ」

 嬉しそうな顔。

 その顔が見れて、嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気分になる。

 先輩の話をする時はお喋りね。

「そんなのが好きだったのね」

「やらねぇぞ」

「いらないわよ」

「なんだよ」

 ぐいっ

 左腕に抱き締められて腕の中。

 この体温が好きで、嫌い。

 抱き返したら強くなるこの圧迫感が、手放せない。

「つまんねぇ顔しやがって。なに、また‘寂しい’の?」

「別に……」

 知らない貴方を知る度に、ちょっと嫌な気持ちになるだけよ。

 置いてけぼりにされてくみたいで、なんか嫌。

「あーあ。私も浮気しようかなぁ」

「何だよ急に。っていうかお前は駄目」

「なんでよ」

「お前は俺のものだから」

「理不尽ね」

「好き、だろ? 俺の事」

「……嫌いよ」

「あっそ」

 言葉のやりとりとは裏腹に、触られた身体だけは従順で。

 真っ直ぐに見下ろしてくるその瞳に、逆らえない。

「あっ……」

「まだ胸しか触ってない。もう濡れた?」

「うん……」

「俺ほんと好き。お前の身体」

「あっ! は、ぁ……」


 分かってるわよ。

 相性が良いのは、どうせ身体だけ。




 ねぇ、知ってるのよ。

 何も知らない訳じゃない。

 貴方が最近気に入ってる子の、顔も名前も。

 あの子で何人目なのかも。

 全部知ってる。

 それでもここに帰ってきてくれるのは、自惚れてもいいんでしょ。

 私だけは、あの子達とは違うんだって、自信持ってもいいんでしょ。

 だって、強くないと傍にいられないんだもん。





 ――今日遅くなる。


「……とうとう言い訳もなくなった、か」

 誰よ焼きそば食べたいって言ったの。

 いらないって書いてないから、置いといてやるんだから。

 夜中に冷めたの食べなさいよ。

 知らないわよ。

「帰ってくる……かな」

 帰って来なかったらどうしよう。

 本当はいつもいつも不安で堪らない。

 捨てられたらどうしよう。

 一人では寝られないのに。

「なによ、自分ばっかり……」

 抱いててくれないと、寝られないのに。





「うわ、びっくりした! ……なんだよ、起きてたのか」

「おかえり」

「ああ」


 寝たふりも出来なかった。

 不安で不安で、早く触りたかった。

 まだ上着も脱がないうちに、背中に擦り寄って後ろから抱き締める。

 早く抱き締めて欲しかったのに、その手は軽く腕を撫でるだけで、やんわりとほどかれた。

「ちょっと待てって。先、風呂入ってくるわ」

「……うん」

 ばか。

 気付いてよ。

 もう泣きそうだよ。

 大事にされてるんだかどうなのかもう分かんないよ。

 何でいっつも先にシャワーなの。

 抱き締めてほしいよ。

 でも他の子触った手で触られるの嫌だよ。

 なんで浮気すんの。

 私じゃ駄目ならなんで別れるって言わないの。

 私どれだけ都合がいいの。

 嫌なのに、「別れる」って言えない。

 別れられない。

 言いたい事沢山なのに、なんにも言えないよ。

 捨てられたくない。

「ばか……」




「なんだよ、‘寂しい’の?」

「寂しいよ」

 寂しいよ。

 布団に潜り込んで、隙間が開かないくらいきつく抱き締める。

 別れないって分かってるけど、念のため。

 でも返ってくる腕は緩くて。

 背中を軽く撫でてくれる。

「泣くなよ」

「……っ、ふ……ぇ、っ」

「帰ってきたじゃん」

「ぅ……っ」

 こんな時いつも我慢が効かなくなる。

 零れ落ちた涙は止まらない。

 ごめんなさい、でも、困った顔しないで。

 終わりが近付いた気がして怖い。

 溜め息が怖い。

 面倒臭い子って思わないで。

「こんな時間まで起きてるからだよ。もう寝ろって」

「うん」

 本当は、貴方が眠りに落ちる瞬間を見たいのに。

 ちゃんと朝まで傍にいるって安心してから寝たいのに、包まれて、心地好く眠りにつかされる。

「おやすみ」

「うん……」




 行ったら帰ってきて。

 出来るだけ長く続くように、それ以上求めないから。


 貴方が傍にいて、ようやく眠れるの。



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s. 夏緒 @yamada8833

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