第373話「商人に酒を卸した」
俺はその日、朝食として軽くパンを一個だけ食べてギルドに向かい席を陣取って酒を飲んでいた。何しろ安い依頼しか無いのだ。商人たちが集まってきたためそれに釣られてやってきた冒険者などによって報酬の良い依頼をかっさらわれてしまっていた。
そこでこうしてギルドでオーク肉の串焼きを一本頼んでそれを食べながらブラックホールと言う名前の酒を飲んでいた。この酒、効率よく酔えるのでコスパが非常に良い。ただし普通の人が飲むとあっという間に潰れてしまうのでオススメはしない。俺はまあ……勇者たちに合わせて飲んでいたらすっかり慣れてしまった。
腹の中で酒が食べたものを吸収して消し去っているような感覚さえ覚える。これは安易に人には勧められないが、酒の味などどうでもいい時には適当だ。
「おや、クロノさんでしたね?」
背後から声がかかったので驚いて振り向いた。そこには女冒険者だろうか? 大きなバックパックを背負って俺に声をかけた女が立っていた。
「どちら様でしょう? 俺にはあなたと出会った記憶が無いのですが……」
突然出会ったこともない人間に知り合いのように話しかけてくるのは、宗教関係か怪しい商品を売りつけようとしてくるやつくらいだろう。
「えー……覚えていませんか……しょうがないですけどちょっと傷つきますねー」
とても傷ついたようには見えない顔でそう言った。彼女はとても自然に、まるで俺より先にそこに座っていたかのような雰囲気を纏いながら俺の向かいに座った。
俺は怪しい宗教絡みだと困るのではっきり断れるよう意識をはっきりさせる。自分の体の時間を加速すれば酔いだってあっという間に覚めてしまう。酔うことが酒を飲むことの目的なので、そんな加速魔法の使い方はもったいない。とはいえ、ギルドであり個室ではないので安心できない以上意識ははっきりさせておいた方がいいだろう。
「申し訳ないが記憶力には自信が無くてね、きみに出会った記憶は無いはずなんだがな」
そこでこの女はようやく自己紹介を始めた。
「私はエル、敏腕商人です! この前クロノさんが商隊の倉庫役をやった時あなたの顔を見て覚えていたんですよ」
なるほど、商人だったか。しかし一体何の用なのだろう? ドラゴンの素材をまるごと一匹渡したというのにまだ貰い足りないというのだろうか? 商人というのは贅沢なものだがこのエルという女は更に貪欲なのだろうか?
「それで一体何の用でしょう? ドラゴンの死体に何か問題でもありましたか?」
そう訊くと首を振って答えた。
「いいえ、そちらには全く問題はありませんでした。いえ、問題が無いのがおかしいくらい新鮮でしたね、普通なら多少は痛んでいるところですが、何故かクロノさんの持ってきたものは完璧に保存されていましたね」
そりゃまあ時間停止を使用していたからな。〆たてほやほやのドラゴンの死体だ。あれで文句があると言われてしまったら、一体どんな状態で渡せば良いのか困ってしまうくらいだ。
「でしたら一体何のご用でしょうか? この前の倉庫役の件ですか?」
「いえ、もちろんクロノさんを雇うことが出来れば出世できるでしょうけれど、それが可能か不可能かくらいは私にも分かりますからね。それはともかく、クロノさん、そのお酒に興味があるので一杯飲ませてくれませんか?」
「え……? でもこれは……」
エルは俺の返事を聞くこと無く自分のテーブルに置かれた水を飲み干し、俺の手元の瓶を手に取って自分のグラスに注いだ。別に一杯ご馳走するくらい構わないのだが初心者向けとは言いがたい酒なので気をつけろと言いたい。しかしエルはそんなことはお構いなしにブラックホールと言う名の酒を一気に飲み干した。
「うわ……これは……キッツい……」
それでも一杯飲み干して俺に話しかけてきた。正気を失っている様子は無いので話は通じそうだ。
「クロノさん、このお酒を私に売っていただけませんか? クロノさんは様々なものを持っていると噂で聞いたのでこうして会いに来たわけですよ」
「はぁ……もうどこでその噂を聞いたのかは一々訊きませんけど、とりあえず水をどうぞ」
俺はエルさんの酒が空いたグラスに魔法で水を生成して飲むように促した。早速飲み干すエルさんを見ながら、この人ときたら向こう見ずにも程があるなと思った。
「いやあ、水までありがとうございます。それでこのお酒なんですがどのくらい在庫がありますか?」
俺は自分が飲むための分を残して売ってもいいだけの量を答えた。
「五十本くらいですかね……割って飲むものなので一本で結構持ちますよ。先ほどのエルさんみたいに直接原液を飲まなければ当分はあるはずですよ」
「え? この飲み方が普通なんじゃないんですか? クロノさんもそうして飲んでいらしたようですが……」
「俺は特別に慣れてしまったので飲めるだけです、普通は果汁や他の薄い酒で割ったりするものですよ」
まあ原液を直接飲んでいた俺が言っても説得力も何も無いのだが、このエルさん、一瓶全部飲んだわけではないとはいえ、そこそこの量があったはずのブラックホールを飲み干して少し頬が上気しているだけというのはなかなか酒に強いようだな。
「何倍くらいに薄めるものなんですか?」
「ざっと五対一くらいで割るものなので五十本あれば単純に結構な量になりますよ。強めの酒を望む人や軽めの酒を望む人で割り方も変えられますし」
「ほうほう、結構な量があるというわけですね……クロノさん、一本金貨五十枚で買い取りますよ、即決価格です! いかがでしょう?」
ふむ……全部で金貨二千五百枚か。悪くない金額だな。しかしこの酒を安易に流通に乗せてしまって良いのだろうか? 結構な数の大酒飲みが発生しかねない酒なのだがな。
逡巡したものの、この酒を死蔵していても意味は無いしそのくらいは売ってもいいかと思えたので俺は首肯した。
「分かりました、その金額でお売りしましょう」
バンとエルさんはテーブルを叩いて喜々として契約書を差し出してきた。
「ではコレにサインをして頂けますね?」
一通り目を通して問題の無い契約書だったのでサインをするとエルさんは俺の手を取ってギルドの外に連れ出した。
「では少し歩きましょうか」
「買い取って頂けるのでは?」
「それはもちろん。ギルドだと人目につきますからね、商隊のテントを使いましょう。何より私も瓶五十本を持ち歩くのは骨が折れます」
「それもそうですね」
俺は連れられてやってきた商人が集まっているテントで酒を取りだした。エルさんに視線が集まっていたがどうしたのだろうか?
「まさか本当に買い取ってくるとは……」
「あの旅人は商材を持っているとは言ったがなあ……」
どうやら商人のあいだで有名人になってしまっていたらしい。そういう名誉はいらないので酒をきっちり五十本取りだした。
検品され問題がないと言うことで運ばれてきた金貨を収納魔法でしまってそのテントを出た。あそこにいると何でもかんでも買い取りを持ちかけられそうなので逃げておいた。
なお、後日、エルさんが二日酔いになったことをギルドで俺に愚痴っていたが絶対に俺のせいではないと主張したい。
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