第5話 神崎奈々子
日課にしている30分のロードワークから帰ってきた楓は、夫の総一郎の出迎えを受けてシャワーを浴びる。
一方の総一郎は朝の30分を朝食の準備とその日の夕飯の下ごしらえの時間に費やす。彼は週に二度のジムを欠かさない。
仕事が忙しい二人にとって、食事の時間はコミュニケーションの時間でもある。
「そうそう、3月分のアナライズ、そろそろ上がるぞ」
「早いね。ヨッシー本領発揮?」
「ミッチーの処理速度が速いから煽られてる。本当に、あの子は驚きだな」
ふふん、と楓が笑った。ミッチーこと寺岡道子は優秀なアナライザーだ。もちろん、その上司であるヨッシーこと吉崎も、だが。
「あの子、赤城さんが目を付けた子なんだよね、最初は」
見出したのは野田じゃないのか、と総一郎は驚く。
「赤城さんが迷ったところを、背中を押したのが野田さん。良いコンビだわ」
確かに、総務部を束ねる野田は元は人事課出身だけあって赤城とはツーカーの仲だ。仕事にも安定感がある。
「そうじゃなくて、そろそろ結論出せよ」
「そっちはほとんど大丈夫かな。大丈夫じゃないことが沸き上がってて、今そっちにとりかかってる」
「楓? 大丈夫じゃないって、何かあったのか?」
「企業秘密」
いたずらっぽく楓は笑った。いや、まだ話す段階にないのだ。たとえ夫婦といえども、部長職と次長級室長では把握していることが違うからだ。
晩秋の青山との別れのあと、否応なく年末年始の怒涛のシフトに押されて年明けを実感したころ、交際二年になる露木と神崎が結婚するとの話が正式に決まった。営業本部内には露木と神崎とは顔見知りの面々も多く、非常に好意的に祝福された。
挙式は5月ごろ、梅雨入り前らしい。そして奈々子はそれに伴い、4月末で退職するのだという。
「おはよう、小林、ちょっと良いかな?」
個人的に、といったふうに楓の前に顔を出したのは総務部の野田部長だった。
「物流倉庫の神崎奈々子のことなんだが、正式に手続きを踏むことになったよ。今月末、まぁ、残念だったな」
「仕方ないですよね。本人の希望ですから」
「落ち着いたら店舗パートナーとして職場復帰したいそうだ。ただ、露木は良い顔していなかったがな」
野田はやれやれ、と肩を落とした。露木は家庭に入ってほしいと望む男で、野田とは方向性は少し違う。野田はこの年代には珍しいほど「性別」にこだわりを持たない。できる人間に仕事を割り振ることが第一で、もちろん、当人の体力差や身体的ハンディは考慮するが能力主義に考え方がシフトしている。
だから体に障害があっても、LGBTであっても、その能力に応じて働く場所を制限することはあるが、雇用や採用の対象で、普通に採用しているのは確かだ。
もちろん、社内には個人的にはこだわりを持つ者はいるだろうが、それをわざわざ外に出してまで働く愚かなものはいない。その折り合いをつけるのも、また「能力だ」と野田がのたまうからだ。だから、社内でも野田は革新的な考えを持っていると言って良い。
野田にしてみれば、露木の考えには同意できないとため息をついている。
かつてはそれが良かった時代もあったが、今はそうでもない。地方都市といわれるこの一帯でも、共働きが主流になり、専業主婦は少なくなってきているというのに、だ。
ましてや、神崎は楓が見出した人物だ。手放すのは惜しい。
「すみません、野田さんまで気を使わせちゃって」
「いや。育てている最中だったんだろう?」
「まぁ、じわじわと? 露木があの様子ではフルタイムでの復帰は無理でしょうし、強引に私が介入して二人の幸せを壊すわけにはいかないでしょう?」
楓は意味深に笑った。彼女が結婚退職するというのなら、楓の人事構想に外れることになるが、逆に代わりの候補は何人か目をつけている。この春の新入社員も、なかなかの人物が入社してきたと思っているので先が楽しみだった。
神崎奈々子に目を付けたのは楓だった。迅速丁寧に仕事をする持ち前の正確さはどこでも勤務できると踏んだが、本人が希望したのは物流倉庫だった。以来、正式配属は相思相愛ということで物流倉庫に決まった。
楓にとっては、物流倉庫は特売の生命線である。しょっちゅう出入りすることもあって、奈々子とは仲良くなった。雑談から仕事の話まで、時に恋の話までしている個人的なつながりもある後輩になるまでは早かった。
その奈々子が、職場恋愛で露木博と交際を始めたと聞いたのはずいぶん前で、二人の結婚は交際を見守ってきた楓にとってもうれしいことだった。
「まぁ、こればっかりはどうにもできませんからね」
明日は、と楓はふと思った。このあとから頑張れば、明日の昼休みに倉庫に顔を出せる。そのあと、会社訪問に行けば時間的に間に合うはずだった。
「それで、なんだが」
「はい?」
野田の問いににっこりわらってみる。こういう時は厄介な話が持ち出される言い方だ。
「お前さぁ、影山商事、って知ってるか?」
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