麗香
尾八原ジュージ
麗香
おれの実家の隣に「麗香」というスナックがあり、もう七十歳をいくらか過ぎていそうなばあさんがやっていた。服装や化粧はかなり派手、そして鶏ガラのように痩せていた。昔は美人だったのかもしれない。
たまにバーテンのおっさんが入るが、基本はレイカさんひとりの店だったらしい。夜になると店からは、いかにも昭和という感じの歌謡曲が聞こえてきた。この辺りでは貴重な飲み屋として、案外客が入っているらしかった。
レイカさんは恋多き女だった。髪は薄くなり、顔は皺だらけで、鶏ガラのように痩せていても、「彼氏」は切れることがなかった。店の前で客とこれみよがしにいちゃつくのは、なんというか、グロテスクな見世物のようだった。おっさんバーテンとも昔色々あったとかいう話だが、あまり知りたい話ではない。
隣の我が家は、この色恋沙汰から迷惑を被っていた。店のカラオケが聞こえる分にはまだ我慢できるが、深夜にギャアギャアいうレイカさんと彼氏たちの痴話喧嘩を聞かされるのは不愉快だった。うちは借家の一軒家だったが家賃が妙に安く、母はこれが原因じゃないかといって頭を抱えていた。騒音だけでなく、レイカさんはゴミ出しがいい加減で、時々母が回収されなかったプラスチックゴミを洗い直したりしていた。放置しておくとカラスが集まるのだ。
それでも我が家はその場所に住み続けていた。有り体に言えば金がなかったのだ。父が事業で失敗してこさえた借金を返すため、両親は日夜働いていたし、俺も高校生になるとアルバイトを始めた。
その頃から、レイカさんは俺に何かと話しかけてくるようになった。外で鉢合わせるとモテ自慢らしきものを聞かせてきたり、飴玉なんかくれることもある。孫にでも見えてるだろうと思ったら、じわじわと「どうやらモーションをかけられているらしい」ということがわかってきて、ものすごい恐怖が襲ってきた。元々口臭がきついのと一切話が面白くないので避けていたのだが、こうなってはもう三十六計逃げるにしかず、とにかく派手な鶏ガラが見えたら、その場を速やかに離れて家に入るということに決めた。
いつの間にか店は静かになっており、我が家を悩ませていた騒音は沈静化していた。アルバイトから帰ってきた夜、たまに窓からちらりと「麗華」の店内を見ると、腑抜けみたいな顔をしたレイカさんがぼーっとカウンターに立っていた。なんだか人間がだんだん言葉を忘れて他のものになっていく過程のようで気味が悪かった。
しかし、相変わらず「麗香」はなんだかんだ夜になると看板にライトを点けていた。客が来ているんだか来ていないんだかわからないが、とにかく営業はしているらしかった。
ある夜、「麗香」から大音量のカラオケが流れてきて、俺たち一家は顔を見合わせた。誰かお客さん来てるのかしらね、と母が言った。
日付が変わっても演奏だけのカラオケは延々と流れ続け、さすがに堪忍袋の緒が切れた父が「ちょっと言ってくる」と出ていったのが夜中の一時近く。すぐに青くなって帰ってきた。
店のドアを開けたら、真っ赤なドレスを来たレイカさんが、天井のフックにロープを下げて首を吊っていたらしい。カラオケが流れ続けていたこの数時間、レイカさんの死体は俺たちの家の隣で、ずっと一人ぼっちで揺れていたのだ。
それから一年ほどして、俺たちはようやくその家から引っ越した。夜になると時々隣家からカラオケが聞こえる気がする、というのがその理由だった。俺自身、おそらく空耳だったのだろうが、何度となく「麗香」から流れる歌謡曲を聞いた。伴奏だけで歌声はなかった。
「今音した?」「した気がする」
そうやって顔を見合わせるのに疲れて、俺たちはそこから逃げ出したのだった。
あれから何年も経った。最近用事のついでに、俺は当時住んでいた場所を見に行ってみた。
実家だった借家は取り壊されて真新しい家に変わり、ファミリーカーと小さな自転車が庭に停まっていた。きっとここに住む彼らにはカラオケが聞こえないのだろう。それならいいやと思った。
一方、「麗香」の方はそのままだった。一応「貸物件」という貼り紙が貼られているが、窓や壁はひどく汚れ、借りたい人がいそうには見えなかった。看板は色褪せて割れていたが、それでもまだ「麗香」と書かれているのがわかった。
何かひどくいたたまれない気分になりながら、俺はその場を後にした。
麗香 尾八原ジュージ @zi-yon
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