81.兄さんの思い出
「結花ちゃん、北条さん、今日はありがとうございました」
「ううん、こっちこそありがとう」
「また来る」
「いつでも」
二人を見送って、後ろで靴を履いている兄とその恋人の方を向く。
「お風呂沸かして待ってるね」
「ん。じゃあ、送ってくる」
「別に大丈夫なのに」
「いいんだよ。送って行かないと俺が不安」
「まあ、そういうことなら」
「ちょっと寒いので、体調に気をつけて」
「うん、ありがとー」
手を振ると、玲奈さんは手を振り返してくれた。温かい人だ。
家に入ると、外の肌寒さはなくなってしまった。兄さんの誕生日が来たということは、これから少しずつ寒さが増してくるということだ。わたしは寒いのが好きではないので、少し憂鬱だ。
「さて……お風呂沸かさないと」
玄関のドアを閉める。
「……うぅ……あぁ……」
よかった。ひとまず兄さんの前で涙は隠すことができた。悲しいわけではない。むしろ、嬉しいから涙が出てくるのだ。
「玲奈さんのおかげ、かな」
あの兄は写真が嫌いではなかった。いや、今も多分写真を撮ることは本当はそれほど嫌いではないはずなんだ。本当に写真を撮るのが嫌いなのは、わたしの方だから。
わたしの隣には兄さんしかいなくて、それが嫌だった。兄さんはもちろん、両親が悪くないことも頭では理解していたけれど納得はしていなくて、ことある事に写真で思い出にしようとする兄さんが少しだけ鬱陶しかった。
でも、写真が今でも嫌いなのはそれだけではない。
「お兄ちゃんは親じゃないんだからほっといて、かぁ……」
幼い頃に自分が言った言葉。小学校の入学式だった。周りの子どもはみんな両親と一緒で、入学式と書かれた看板の前で写真を撮ったりしていて。きっと兄さんもそれを見て言っただけなのだろう。だけど、途端に寂しくなって、「お兄ちゃんは親じゃないんだからほっといて。写真なんて大嫌い」だと言ってしまった。言っただけでなく、カメラを払いのけてしまった。
それでも兄さんは「ごめんな。美希の嫌なこと言っちゃったな」なんて言って笑っていたのだ。わたしと歳はひとつしか変わらないのに、わたしの理不尽な行動に怒ってもおかしくなんてないのに。けれど、それから今まで二度と『写真を撮ろう』とは言わなくなった。
それが、申し訳なくて、悲しくて。つらくて。でもきっとわたしが謝ってしまったら、兄さんはわたしに気にさせていたのだと思ってしまうから。今の今まで言い出すこともできなかった。
「あ……あー、あー! あー!」
大好きな兄からの着信。声が震えていないか、咄嗟に確認する。ちょっと声はおかしかったけれど、このくらいなら気にならないことにしておこう。
「も、もしもし」
スピーカー越しには兄さんの声とその恋人の声。せっかく外に出たのなら妹のことなど忘れて楽しめばいいものを、なんて思うもののやっぱりこうして気にかけてくれるのは嬉しい。
「うん、うん。もう、今日は兄さんの誕生日なんだからそういうことはわたしがするから。うん、玲奈さんとゆっくりお話して帰ってきたらいいよ。大丈夫だよ、もう一人でも寝られるよ」
何か足りないものはないか。ちょっとだけ玲奈と話して帰ってもいいか。そんなことをわざわざわたしに確認しなくてもいいのに。今日は、兄さんの誕生日なのに。
「ごめんは言わなくていいんだよ。うん、うん。わかったから、わたしはいいから玲奈さんとお話したら?」
優先順位をつけろとは言わないが、それでも今大切にすべきは隣にいる人だろう。わたしの声が玲奈さんにも聞こえていたのか、微かに笑い声が聞こえてきた。可愛い人だなほんと。
「うん、また後でね」
それだけ言って切ろうとした。でも、呼び止められた。それも兄さんではなく、玲奈さんに。
『ごめ、ちょっと待って。悠斗そのスマホ貸してよ。ん、ありがと。もしもし美希ちゃん、聞こえる?』
「あ、はい。聞こえます」
『お兄さんに言いたいこと、言わなきゃいけないこと。今日は無理でも、いつか伝えてあげてね』
小声で。おそらくは隣にいる兄さんに聞こえないようにそう言った玲奈さんは「それだけー」と笑って兄にスマホを返した。
なんで結花ちゃんといい玲奈さんといい、兄さんの周りの女性はこうも察しが良くて、わたしに甘いんだ。
「ねえ、兄さん」
尋ねるような口調。自分でもおかしいと思うけれど、こんな言い方でしか今はまだ言えない気がするから。
「帰ってきたら、二人でさ。写真撮ろっか」
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