第8話 鈴和
◯
ローレンIIの言うサーバールームに入ると、一面の巨大なモニターが瞼に映る。その手前に、あの誰でもご存知の50代の研究者ーー来栖社長がいた。来栖君の暗そうな面影とは真逆で、社長は威厳と優しさを兼ね備える前向きな顔だった。
よって宙野は交渉の余地があると思っていたのだろう。
「姉さん、あれが……」
ローレンIIの本体の思考がモニターを通して見える。見えるものの、理解はできない。
水野涼介が話すたびに、もしくは思考をすると、モニターに波紋みたいなものが現れ、くねくねと動く。音楽の声紋に似たようなもので、それよりも数段複雑だった。
これがローレンIIのもう一つの顔、と言って妥当であろう。
「宙野、宙野楓。はじめまして。さすが元歌手。傾国の顔ではある」
来栖社長が興味深く楓をジロジロ見てから先に声をかけた。
「どうも。その見る目に免じて、この建物への打撃を少し減らすか」
アイドル時代の公式的な笑顔を作ったものの、彼女は素っ気ない態度だった。
「あっはははは。何度見ても素晴らしい力だ。それにしてもずいぶん派手にやってくれたなあ。じいさんの耳が遠くなりそうだ。でも減らすのは止しておこう。元々ここは廃棄する予定。色々と不都合な痕跡があってね、バレたらまずい」
クローンはやっていないというのはもはや明確だが、人体に人工知能を乗っ取らせたのは間違いない。公に晒されると罵声や批判が殺到するに違いない。
「来栖社長、単刀直入に言います。さっきから思うんですけど、何もかも私に打ち明ける必要ないではないかって。細かく説明し過ぎましたね。私の力についてもよく知ってるみたいです。もしかすると、私に頼みがある?それとも取引かな?」
来栖社長は称賛するように頷いてから首を横に振った。
「いやいや、そんなつもりは毛頭もない。ただ仕事場に没頭すると、すぐ私と同じジジイババア相手に討論に明け暮れる。若者と話すのが久しぶりだったから、つい、ね」
「賢い息子さんがいたじゃないですか。彼に本当のことを言えたら、こんな状況にはまずならないと思いますけど?」
「痛いとこをつくね。晃とは志向も方向も全然違うからな。私は彼がやってることを全くわからないし、彼もまた私の仕事をみくびっているだろう」
「そんなことはないと思うけど。短い付き合いですが、彼は物分かりの良い子だと思う。それに私のファンだもの。良い子に決まってます」
「ハハハーー。そうだな。これからも仲良くしてやってくれ」
俺のように目の下にクマが住み着いたせいで、憔悴した顔だったけど、その一言で、来栖社長の家族への思いやり、温もりが伝わった。そのような気持ちは彼女にとって久々だ。
「つまり、見逃してくれるよね」
「もちろん。見逃すってのは言い過ぎだな。私に君に対抗する力を持っていない。これは降参だよ。老ぼれの私は自然の力に敵う訳がないからな。でも去る前に、一つ約束してもらう」
「やっぱり条件つきね。言ってみください」
「ローレンIIの本体のメンテナンスはここでしかできない。最低でも月に一回、会社に持ってきてくれ。密かにね」
「メンテナンス……ですか。ありがとうございます」
なんだ。このおじさん、なんだかんだ言って、話のわかる人間だな。
と思いきや、次の言葉が危なっかしかった。
「あとは、さっき言った通り、もしチップの存在が知られたら、それを消せ。無論、君に脳手術できないのは承知だ。その場合、涼太の脳に10ミリアンペアの電流を流してくれ。融点が低いが為、チップは200ボルト以上の電圧を受けると分解するようにデザインされてる。君なら一瞬で終わらせることができるだろう」
「そんな細かい数値ですか……しかも頭に……そんなことして大丈夫ですか?」
「最悪の場合、心臓麻痺で死亡するだろう」
……。
平気でそれが言えるとは、流石に理解できない残酷さだ。チップが消えても涼介が脳死亡になっても、ローレンIIの本体にはなんの影響もない。
それなのに、モニターの波紋が激しく暴れる。あたかも涼介の痛みが自分の痛みのようだった。
振り返って涼介を見ると、彼の顔に何の異様もない。彼は口を閉じるのを心決め、全般を、宙野に任せることにした。
「そういうことなら……無理」
宙野は小声で否定した。彼女には、来栖社長を説得する理屈は持っていない。暴力行使のつもりでやってきたのだから。
彼女が少し躊躇った後、真顔で口を開ける。「断固にお断りよ」
「まっ。そう来るだろうーー」
来栖社長が頷いてから、シリアスな顔で大声で話を続ける。
「それができないようなら、しっかりとその子を守れ!あるいは強く育てろ!鈴の娘である君なら、できるはずだ。うちの孤児の涼介も、私から奪ったローレンIIも、責任を持ってやるんだな」
急なことが宙野を驚かせた。鈴という名が出てきた瞬間、楓はもう全ての警戒心と投げ捨てそうになった。
「なっ!あなた!お母さんのことを……!」
これで来栖社長がこうも簡単に降参する訳が分かった。彼は、楓の母の雷を知る人間であった。
「ああ。旧友だった。一回だけ、雷を呼んでもらったことがある。別の街だったけど。あれも盛大だったな。彼女には本当に感激しかない。彼女の雷のおかげで、私は会社を立ち上げられ、ここまでたどり着いた。そう言えば妻と出会ったのも彼女が勝手に設えた見合いだったな。彼女の死について、本当に……残念だな」
お母さんの友達なら問題ない、とでも思っていたかもしれない。
来栖社長が思い耽るのと同時に、宙野も状況を忘れ、目を輝かせて興味津々に聞いていた。母を知る人間はそもそも少ないし、昔話は尚更滅多に聞けなかった。
「教えてください。お母さんはどんな人でしたか」
「ほーー。これはもう……途轍なく騒々しいやつだったよ。急に叫んだり人を殴ったりする。君とは大違いだよ」
「そ、そんな……」
母に対する印象がまさかこんな形で崩壊した。写真の中であんたに淑やかで知性的な女性だったのに。
「でも結婚した後は大人しくなったよ。大学の教師に恋をしたんだから、少しは学問の薫陶で大人になったってわけだ」
「父さんは大学教師!でしたか!?」
「知らなかったとは!本当に何も教えてやらなかったな。あいつ。権力に溺れておかしくなったな」
「そう……ですね。あの人、町長まであと一歩だそうです。それより、母さんのことをもっと知りたい」
「せっかくだし。久々に昔話をしよう。鈴は……凄い人だよ。今はベルショックだったっけ?昔は『鈴音』って呼ばれる。綺麗な名前だろう」
「うん」
「名前で分かっただろ?鈴音は鈴を鳴らす音じゃない。宙野鈴がもたらす音、だった。すなわち雷のことね。ちなみにこれが鈴和の由来にも繋がる」
「ええ!?鈴和ってお母さんと関係あるの!?実は子供の頃からそういう想像をしたのよ!だって名前が鈴だし。鈴のおかげで平和になったとか」
いかにも彼女らしい妄想だ。正義と平和、仲のいい姉妹みたいなもんだ。
楓は胸をときめかす様子で、輝く目が話の続きを催促した。
「おめでとう。大体合ってる。今から30年前、まだ大学生だった私たちは、この街に来て社会調査をしていた。当時急発展の街として、私たちの専攻の建築学にはうってつけの研究所だった。最先端の技術でどこまでやれるか。私たちはそれを見届けながら、各自論文を書き始めた。が……その時だった。鈴は舞宮に行った」
かと言ってその山は別に歴史的ではなく、すごい高さを持つわけでもない。どう言うわけでそんなに人気が募ったのかは今でも謎だと考えられる。
「舞宮って。山のことですか?」
「ああ。彼女は一人で行き、そして戻った時、街を滅ぼすような真似をした。建造中の街一番高い建造物が雷撃によって中止になった。その建造物から落ちたガラクタや鉄屑による被害は大きかった。少なくとも10人の死亡と数百人の怪我があった」
「お母さんがそんなこと……でもどうして?」
楓は信じられない顔をしていた。母がそんなことをするわけがない、と勝手に信じ込んでいる。でも彼女以外にそんなことできる人間もいないはず。
きっと理由があるはずだ。一体どんな正当な理由だったか楓は必死に考えていた。
「愛する人のために。君の父ーー
「それでお母さんを利用した。ですね」
楓の目に怒りの色が見える。
例え父であろうと、母の名誉を害することは決して許せない。それに政治の道なんて、彼女にとってはつまらなさの極みだ。
「そんな強い力があって利用しないわけがない。その後もよく雷を呼ばせていた。そして徐々にある概念を町民に植え付けた。鈴を門前に吊るせ、と。そうすると、雷の到来を事前に感知できる。被害も小さくなる。それが本当に役立つから、みんながそうしてきて、ついに伝統となった。そして17年前、この町の新たな名前が投票によって誕生した。鈴和。その名前の到来が、東海派の完全勝利を宣言しているようなものだ」
「17年前……か。私が5歳の時。何があったか知りませんか?どうしてお母さんが一人で出かけたか……そして、2年後に亡くなったか……」
「それが……」
来栖社長が彼に似合わない顔をした。それは何かに怯える表情であった。彼のような立場の人間が恐れるものってなんだろうって宙野にも想像がつかないのだった。
「実は大学卒業以来、鈴とは会ってないんだ。だから彼女が22から27までの5年間は何一つ知らない。ただ彼女の呼んだ雷を見届けていた。でも最後の1年だけ、会社が通信事業に携わる頃、部下が纏めた要注意リストに彼女の名前が現れた」
「リストって何の?」
「『神鳴りの間』という宗教の名簿に。しかもその一番最初の行だった。彼女がその宗教を作ったそうだ」
「作った!?お母さんが甘っちょろいから、勧誘されたらまだ分かるけど。作るなんて、何のために?」
「調べたところ、宗教の設立日はちょうど彼女が舞宮山から戻ってくる頃だった。その宗教は未だに活動している。信者こそ多くはないが、影響力は半端ではない。私に知っているのはこれで全てだ」
宙野は眉を顰め、拳をぎゅっと握る。
「ありがとうございます。おかげで生き甲斐が見つかりました。これからはこのセンで調査してみます」
「そうか。それでよし。さすが元11番隊」
「ご存知でしたか!」
「ああ。狭山君とは長い付き合いだ」
ここであのクソ刑事の名前が出てくるとは、雰囲気が台無しだ。
「そう……かぁ。そういえば、お母さんの死に、心当たりはありませんか」
「ないね。ただ、転けて溺れ死なんて、彼女には似合わない死に方だ。それだけはわかる」
「でも母さんを殺せる人間がいるのでしょうか」
「普通に考えれば、いないね」
「……」
思い当たる可能性でしらみつぶしに仮説を立ててみたが、収穫はなしと言える。だって楓自身の経歴からすれば、あの誘拐事件で雷を呼べるようになって以来、彼女を傷付けるのはおろか、触れることも出来ずにいた。そう考えれば、彼女の母も同じくらいに強い筈だ。
でもあのロリが言った。
能力者は28歳に死ぬって。それを裏付ける実例は何件もあった。
彼女の母も確かに28歳に死んだ。死に方は納得できないだけだ。
彼女はまだ考える途中だが、来栖社長は危険にでも察知したように話を終えようとする。
「そろそろ時間だ。警察が入り口を突破した。行きたまえ。見つからないように頑張れ」
「通報しなければ良かったのに……」
「ごめん。警察は呼ばなきゃ行けないんだ。何故ならば、こっちには本当にネズミが入り込んでいる。だから私はここに残る。このサーバールームには、守らないといけないものが多いから」
どういうネズミか、宙野もローレンIIもちょいと疑惑や心配の目をやった。それのお返しに、来栖社長は軽く頷いて、心配はないと意を示した。
「分かった。また、母のことを聞きに来るので、覚悟してくださいね」
「っははは。いつでも歓迎だ。またな、ローレンII。君の成長、今度見せてくれよな。でないと、潰すぞ」
あえて怖い顔を作ったものの、ローレンⅡにも楓にも、温かさしか感じられない。それは本気でローレンIIのために考えて、あたかも自分の子供と別れを告げるような口調だった。ローレンⅡはその懇情を受け止め、必死に頭を下げ、今回の茶番に終止符を打とうとする。「来栖博士、今までありがとうございました!」
「いや、まだ終わっていないよ!来栖さん、持ち歩ける電源とかありませんか?」
「あーーそれか。あるはあるが。重いけど」
博士が指差すのはてかい鉄の箱で、大きさも重さもXbox初代2個分あるだろう。
とりあえず本体の電源コードをバッテリーに繋ごうとすると、宙野は重要なことに気づいた。
「ごめん、私はバッテリーみたいなものを持っちゃいけないよ。漏電するかもしれないから。もちろん本体のような精密機械も」
つまり本体もバッテリーも、全部を細くてか弱いチビに任せるってことだね。筋肉量は常人の何%だけ?そういうことして良心痛まないのか?
「いいよ。これくらい持てます。自由と夢がかかっていますから。そんなことより、パトカーに囲まれて、どうやって脱出するものでしょうか?」
ものすごい現実的な問題だった。しかし幾多の修羅場を潜り抜けた宙野なら、いい案は持ってるだろうね。
「さあ……」
彼女は首を傾げて、思い悩む。
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