第7話 ベル・ショック
◯
人々は、より多くのものを見えるようにしている。
大きく例えるなら、世界の規律を見つけ出し、または宇宙の探索に挑み続けるように。
小さく例えるなら、物質の分子原子電子陽子中性子……どこまでも掘り下げるように。
オカルト的に例えるなら、神秘的なもの、常人に見えないものを探し求めるように。
競技において、捉えられないほどの早い動きを肉眼で捕捉できるように鍛えるように。
抽象的に言えば、文章や芸術品の深みを掘り下げ、引いては人生の意味を吟味するように。
遠くのもの、微小のもの、本質のもの、人はどうしても見えない何かを求めたがるのだ。
でも彼女は全てにおいて無理だった。
同じ能力者だが、予言、催眠、多重人格、それらのようなプラスになる能力と違って、彼女はマイナスだった。
ある日突然、家族が見えなくなった。
……。
母の宙野鈴が亡くなって8年の年月が流れ、楓が9歳の時に、父は再婚した。
継母は実に優秀で優しい女性だった。楓を我が子のように愛していた。
継母からすれば、こんなに可愛くて大人しい子が娘になって、機嫌が悪いはずがない。それに加えて彼女は楽器に詳しいので、いっそ楓のピアノの先生となり、美しい楽器の音と人の笑い声がその家に溢れていた。
そんな特別な付き合い方で数年も過ぎて、さらに親睦を深めた。
しかしある日から、全てが変わった。
丁度彼女が12歳の誕生日を迎えるその日に、誰もその鮮やかな誕生日ケーキを食おうとしなかった。
12本の蝋燭はこの日のために必死に光と熱を放ち続けていたが、誰もが目を配るすらしなかった。やがて無意味に燃え尽きてしまい、がっかりして命を絶った。
継母は楓の父と大喧嘩をした。原因はなんだっただろう。確か子供がどうとかの問題だった。
継母は自分の子が欲しい……それは別にいいじゃない。楓も大丈夫だよって言い続けてたのに、父は執拗に正面から答えないという姿勢を見せ、口を閉じ続けていた。
それが継母を怒らせ、悲しませた。
何故再婚の前にその件について相談しなかったか、楓は困惑していた。でもいくら困惑しても現状は変わらない。自分の父がどれだけ頑固な人か彼女は誰よりも良く知っている。
楓は喧嘩が嫌いだ。責任を持てず、ただ逃げる男は何よりも嫌いだ。かくして彼女が初めて家出した。
公園でぶらぶらして約三時間。美しい思い出とメロディーが全て野獣に化けたようで、彼女に襲い掛かり、彼女のこれまでの気持ちを否定する。
その思い出があればあるほど、彼女にとっては負担がより一層大きい。体の水分という水分が全部涙へと変わって、やがて枯れ果てたみたいな気分になった。
それが家に帰った時も、状況は変わらずにいた。
むしろ楓というリミッターがいない間にもっと激しい喧嘩があったようで、ぶっ壊れた椅子とアルバムがその争いを物語った。2人とも体に外傷はないのが最後の僥倖だった。
でも中身は傷だらけだろう。
それ以来、継母はすっかり変わってしまった。
歌声がなくなった。
笑顔がなくなった。
代わりに愚痴が増えた。
茫然が増えた。
そしていつの間にか、宙野と継母の間に透明な壁が築かれた。
優しかった継母の姿が憎くなる。
綺麗だった継母の声が聞き辛くなる。
美味しかった継母の料理が不味くなる。
やがてそれらを感じられなくなってしまう。
……。
宙野の能力は、五感を一部消去することだ。
見たくないものは目を開けても見えなくなり、聞きたくない音は確実に遮る。どれだけ痛くても抑えられるし、どれだけ不味いものでも笑顔で美味しいって言える。
自分に噓をつくという滑稽な能力だと彼女は思っていた。
「ダメな能力でしょう」
「そう……だな。今のお前に似合わねえ能力だ」
「でもお陰で楽になった。あのままだと、曲作りどころか、精神的病い罹りそう」
その会話が始まったのは彼女の成人式の夜だった。高校時代の友達と酒を飲み終わると、何故か千坂と二人で、俺の家にやってきた。勝手に俺の冷蔵庫で酒を漁って飲んだら、彼女が過去のことを打ち明けてくれた。
「つーかなんで来たの?大事な日だろうがよ」
「能力者同士が互いに裏切ってはいないという意思表明の宴と思っていいわ。これからも共に、街を守りましょう!ははっはは」
すっかり酔っぱらってた。これが元アイドルの醜態というやつさ。写真を撮ってゴシップ誌にでも送ったら大金貰えるだろう。
いや違うだろう。俺はそんなことしなくても金ならいくらでも手に入る。だからここは写真を撮ることだけに留まるとしよう。もちろん正面からじゃない。こんなアジトなんだ。隠しカメラが一つや二つあっておかしくないだろう?
ちなみに千坂は隠しカメラに気付いたけど敢えて指摘しなかった。何故だろうか。出たがりだからか?
話に戻る。
「守らねえよ。俺は守るどころか、破壊する……」
「中二病か?」
「てめえ!」
「ねえってば、どう思う?あの時の私の能力って」
「そりゃまあ、意味ないとしか言えないな。お前には見えなくても、向こうはお前のことはっきり見えてるよな」
「全く若いなあ、曳橋君。人の心は脆いの。時には自分を欺くことも必要だよ」
否定したいのは山々だが、何となくわかるかもしれない。
両親を失った時、俺も自分に嘘をついた。
父が死んだから、この世で催眠を使えるのは俺だけだ。
母が死んだから、この世で俺を縛れる者はもういないんだ。
俺は無敵且つ自由だ!
実際はそうでもなかった。
俺は無敵でも自由でもなかった。
……。
俺のつまらない話はともかく。
どうやら彼女にとって、それがまだ前座に過ぎない。
楓の父は町長を目指す政府の人間である。普段からストレスが溜まっていて、家に戻るたびに、そこで待ち受けるのがどこまでも陰気くさい二人となると、辛い気持ちになるだろう。案の定、離婚の話も持ちかけられた。
でも最後はうやむやになったらしい。
むしろどうなったか楓も知らない。彼女はとっくに親友に家に引っ越し、その後の実家の状況は知らずにいた。知りたくもなかった。
親友の雫ちゃんの家に寄宿して、定期的に実家の振り込みを受け取りながら、思うがままに楽器や歌の練習を始めた。
その時彼女は13歳だった。
そんな日々が続いて、そしてある日、彼女の人生が変わる日が訪れた。
◯
あの夜、歌の練習がとうに終わったはずなのになかなか帰って来ず、連絡もつかないが故に、雫ちゃんは果敢に通報した。
それと同時に、警察側がもう一つの通報を受けた。娘が拉致され、身代金を要求されたとのことだった。簡単に想像がつく。ふたつの通報は同一事件だ。万全の準備を整え、警察は動き出した。
パトカーが目標地点に到着するときに、既に犯人は最有利な位置を占めた。
とある四層の廃ビルの屋上だった。
警察たちの情報分析によると、犯人の狙いは最初は彼女の体だった。でも彼女の学生証を見て身分を確認すると、近頃の若手歌手だと気付いた。さらに携帯連絡帳で彼女の父の名前を知った彼は、1発で膨大な金を手に入れられるチャンスを掴むと決めた。
彼女を救うために2チームに分けられた。
交渉班は犯人と対峙しつつ、楓の父の到来を待つ。突撃班は闇に潜んで、密かに犯人の盲点へと移動し、突撃の命令を待つ。しかし
彼の判断は交渉無しで即射殺すべきだった。
どうやら彼はその犯人とは古い知り合いで、これまで3人を殺めた通り魔だったという。
つまりこの事件は金銭欲に駆けられた衝動犯罪ではなく、純粋に快楽犯が殺人を楽しんでいると。
狭山個人の判断は勿論相手にもされなかった。これは政治家の娘だ。慎重に慎重を重ねて対応するのが本部の頑な方針だった。
ただの四層の廃ビルだ。部外者も平民もない。スナイパーの1人でもいれば、秒で解決できる。しかし彼はただの一刑事、スナイパーを調達できる立場ではない。
そこで交渉班の彼が命令に逆らって独自に行動するのだった。
ビルの屋上に上ると、見えたのはテーブルとその上にいる女の子、そして横に立つ反吐が出るような汚い男だった。
テーブルの上に宙野が縛られ、彼女の周りに色々な刃物が並べられていた。刀、ナイフ、包丁、手術用のメスまで。その犯人が気持ち悪い微笑みを漏らしながら宙野に話しかける。
「お父さんが来るまで何等分にできるかな~」
まさに殺人鬼だ。
その殺人鬼はやはり金目当てじゃない。ただ解体したい。そして解体した成果を人に見せるためだった。その人が肉親であればあるこそ、喜びが膨らんでいくはずだ。
男は早速メスを手にして、スムーズに宙野の右鎖骨を包む皮膚を切り裂いた。一瞬にして、開け口から血が滲み出てきて、宙野の首がすぐに赤に染められた。
何故そこを真っ先に選んだか。殺人鬼の気持ちなんかを追及しても無駄だ。でも彼のうっとりしてる表情がその変態レベルを語った。狭山が歯を食いしばって、こいつを世から消すという信念が増しだった。
しかしそんなことされても、楓は何の反応もしなかった。犯人は疑惑の目をしたものの、血がもたらした快楽が上回ったせいか、彼は楓の反応を無視した。
勿論彼女は怖がっていた。
痛みを遮ったところで、16歳の彼女にとってそれはあまりにも非常識的で恐怖な光景だった。逃げる方法なんて考える余裕は流石になかった。
ただその場を乗り越える。辛くても怖くても、ただ生き残ることだけに集中する彼女だった。
そんな彼女は目を瞑った。
何をされようと、見えなければ、聞こえなければ、痛みが感じなければきっと何とかなると彼女はひたすらそう思いたかった。
「オレの故郷にこんなことわざがあるんだ。可愛い女にはメス、憎たらしい男にはナイフだと。でも安心して、小腹に腸を抉り出して、代わりにインスタントラーメンを詰めるようなことはしないよ。オレのポリシーは潔く、綺麗に、等分することだ。ほら、天秤を用意した。約束する。もしミスって、どっちかに傾いたら、罰としてオレの肉で補足して、均衡させる」
宙野は聴覚も遮断したため、あんなデタラメを聞かずに済んだ。でもほかに聞こえた人間がいた。
狭山が発話した。
「そうか。なんなら全部お前の肉で遊べばいいじゃないか?可愛い女の子を巻き込んじゃダメだろ」
狭山の声を聴くなり、男は不機嫌そうに眉を顰める。
「なんだ。早いな。話が違うぞ」
一旦メスを下すと、男は素早く戦闘用のナイフを手にした。
「早い?話が違う?つまりお前に協力者がいるっていうのか?それにその口調、外部じゃなくて、まさか警察に内通者が……」
狭山は並足で近づき、相手が銃みたいな武器を所持していないと確認した後、足を速めた。
「そんなに鋭いじゃ早死になるぞ。それにしても、どこかで会ったことあるか?」
「いや。面識はないはずさ。毎回俺が調査に入った時、お前はすでに去っていた。それでも担当の俺に見覚えがあるってことは、捜査現場の様子を見た、ってことだな。お前の変態趣味からすれば、やっただけじゃすまない。人に見せたいところが大きい。だから必ずどこかで発見者の驚き顔を楽しんでいたはずだ。現場に行くことはさすがに無理だとすれば、監視カメラを残すことだな。そして俺らが現場につくと、お前の局内にいる内通者がそのカメラをこっそり回収して、処分する。なるほど。今回を除いて、解体案は三回あった。つまり三回ともに現場に行った刑事の中に……」
「おっと!そこまで。なかなか面白いやつだ。これはますます殺し甲斐があるじゃないか」
狭山の早口の推理と早い動きは間違いなく犯人にプレッシャーを感じさせた。
犯人は冷静で居られなくなる。メスを下ろして、ポケットに手を入れた。
最悪の場合、銃だ。でも腕前なら自分が上に決まっている。犯人が元警察じゃない限り、彼が銃を構える隙を狙って狭山は一瞬彼をたたき伏せる。
「いや。それは困る。取引しないか?その娘を解放しろ。代わりにお前を逃がしてやる。実は彼女は好きな子なんだ。だからほかをあたってくれねえか。俺としては裏切者さえ分かれば十分だ」
「残念だ。望みは叶えてやれない」
銃だと思うばかりに、もっと脅威的なものを忘れていた。
こいつはどんな人間なんだ?
人の苦痛を見たがる、変態趣味、派手なパフォーマンスが好き、多くの人間の驚き顔で楽しむ……。
爆弾だ!
この廃ビルを選んだのは、人気のない取引場だからってわけじゃない。爆弾を設置しやすい場所で、大きなショーをするつもりだった!
これくらい老朽化したビルなら、数キロの爆弾だけで余裕で倒れてしまう。
と思うと、隠し持っていたリモートスイッチが彼の手中に現れた。あたかもそれが彼の宝物のように、ドヤ顔で両手でそれを大事に抱えて、それから手のひらを見せて、わざとそのスイッチを狭山に見せびらかした。
どこにでもある普通の形のスイッチだった。四角形に赤くて丸いボタン。しかしながら、人の命を奪うには充分すぎるのだった。
「おまえっ!」
話が終わってないうちに、既にボタンは押された。逆転のチャンスを一切与えずに、確実に狭山を殺す気だった。
屋上の中間くらい、大量の木材が積まれたところが爆発した。規模はそう大きくないが、狭山の行動を止めるには十分だ。
犯人は狭山の接近を止めなかったのはそのためだった。
その爆発で狭山は片足がやられ、そして高温の熱気に吹っ飛ばされた。
しかし狭山は声を出さなかった。
なんの覚悟なく、堂々と犯人の前で姿を表すわけがない。
この行動のリスクを彼は知り尽くしている。これまでのことは予想したとでも思ってるだろう。
血が滲み出てダメになった片足より、狭山が考えているのは次の一手だ。
そして間も無く2回目の爆発が起きた。
今度は階段だ。
狭山の脱出手段や援助を呼ぶ望みは断ち切られた。
階段のところが崩れ、それで地上ルートは完全に封鎖された。潜む別隊は完全にダメになった。じゃあ空中からか。ヘリで無闇に突っ込むのも得策ではない。いわゆる「詰み」となった状況だ。
それでいよいよ納得した。これは彼1人で凌がなければならない状況だ。全てを切り捨てる覚悟はした。
こうなったらプランAだ。
されど彼のプランAは少々違う。
一般的に、プランAというのは一番よく使う、一番安定した、一番効率よく、一番リスクの小さい案のはずだ。
彼にとってのプランAは……。
「お前はそのナイフでいいのか?」
早速気を取り直し、狭山は平気を装って話し掛ける。どうやら彼はしゃべりながら戦うタイプだ。
「お前は一本の足でいいのか?」
男は依然として武器を出そうとしない。メスとナイフを手にし、余裕をかましていた。
「バレたか」
「血には一番敏感でね」
やりとりをしている間に、狭山は足を引き摺ってに男との距離を範囲内までに縮めた。
その先に爆弾があるかどうかを知らずに、無謀に進んだ。
「ロックオンだ」
狭山は銃口を男に向け、リボルバーのハンマーを引き起こした。
と同時に、男もようやく冷静でいられず、爆弾を起動装置をもう一度見せた。
「動くなよ。爆弾は二つだけじゃねえぞ」
「じゃあ賭けてみよ」
両手でぎっしり照準を合わせ、狭山は気迫のある足取りで慎重に前に進む。「この距離でミスったら、俺は警察やってられねえぞ」
返事を待たずに、タイミング見計らって狭山はあっさりと発砲した。
ちょっと重苦しい唸り声が命中の証であった。
「貴様!本当に撃ったか!この女をいつでも殺せる。わかってんのか!」
「みっともないぞ」
「虚勢張りやがって!」
悪役らしいセリフを吐き、男は対峙をやめた。すると机の上の宙野を無理矢理起こし、その首にナイフをかける。
これまでの爆発も銃声にも気付かなかったが、急に起こされた宙野の神経が重力の変化に反応して、反射的に目を開けた。そして現状の呑み込みをさせられる。そういう場面で、さすがの彼女も我慢の限界に到達し、涙がしくしくと零れる。
狭山には二つの確信を持っている。
一つは、犯人は銃を持っていないこと。一つは、自分の立ち位置の近くに爆弾はもうないことだ。
「まだ俺の銃捌きを試すつもりか」
狭山は人質を全く気にしない様子で、ゆっくりと前に進む。銃はずっと犯人の頭を狙っていたせいで、彼は汗ばんできた。
「聞いてくれ女子、名前は確かそらの、かえでだったか。悪人を一人でも見逃さないのが俺の流儀だ。俺はやるんだ!解体事件を根絶やしするために。正義のために。あなたの犠牲は決して無駄ではない。俺はあなたを名前を覚え続ける。存分に俺を恨め!呪い殺せ!!」
「キサマァアア!やめろ!!」
犯人の叫びを、人質の安否を無視して、狭山は発砲した。その時の彼は警察ではなく、冷血の殺し屋のように見えた。
彼の冷静さのおかげで、弾丸は犯人の肺部に命中した。犯人のパフォーマンス欲が消えて無くなった。代わりに道連れのつもりで楓の首に掛けたナイフを引いた。
鎖骨あたりの血がまだ乾いてない上、首の皮膚も切り裂かれた。皮膚どころじゃない。もっと深く……そこは頸動脈だ。
鮮紅色の血が一気に噴き出す。
120ミリリットル。
160ミリリットル。
210ミリリットル。
320ミリリットル。
560ミリリットル。
6分の1の血を失った。
……。
上半身が血塗れになった彼女は出血ショック状態にはならなかった。むしろ彼女はその時思った。
この程度の痛みってどんな感じなのか。
どうせ死ぬなら、このまま死ぬより、この痛みを体験してから……。
怖さという本能で催された涙を流しながらも、彼女は訳のない勇気を出して触感の遮断を解除した。
これはかつてない痛みだった。これまで我慢してきた遮断してきた孤独と苦痛、縺れと哀愁、そして悲しみが一気に迸ったように。
彼女はかつてない絶叫を、悲鳴を上げ続けた。
恐ろしいくらいに。
犯人も驚いた顔で手を震わせた。
なぜ震わせたと言うと、彼も知らずにいた。
するとナイフの表に青い火花が走り、弾丸かと思いきや、それが刀身に纏って、生きているようにピクピク動く雷のようだった。
何の前兆もなく、たったの一本の雷が暗い夜を引き裂き、そして偏りなく三人のいる屋上に打ち下した。
楓に直撃したのだった。
それが彼女の頭に、眼球に、脳に、心臓に、血管に潜り込もうとする勢いで刺してきた。
屋上の地面に亀裂ができ、犯人の男は宙野と距離が一番近い人間として、全身焼け焦げの状態になった。変な熟成した匂いが空気中に漂っていた。人間としての意識はまだ残っているかもしれないが、心臓は瞬時に止まった。
次に来るのは水管の爆裂だった。
雨のように降り掛かり、料理に水を足したように匂いがさらに煽られた。でも導電の心配はない。雷はもう満足したように姿を消した。
狭山は痛みを我慢しながら、その光景を極力に受け入れようとしていた。でも耳鳴りのせいで宙野の安否を確認出来ず、落雷の光度のせいで目も良く見えなかった。
彼だけじゃない。そのビルを囲んだ警察全員がダメージを受け、耳や目に多少の後遺症も残ったことが後に分かった。
無傷でいたのは宙野だけだった。
さっきまで一向に止まらない血の噴出が雷撃によって止められたように、傷口はまだ大きく開いてるけど、血はもう一滴も出れなかった。
彼女は立ち上がり、見回した。
焦げた男、死にそうな警察、血塗れの自分の体。それでも余裕で立ち上がれる。調子が悪いどころか、前よりもいつよりも増して元気だった。
まるで充電済みのようだった。
その時、母がアルバムに残したメッセージを彼女は思い出した。
「楓はいつか強い女の子になる。その時は弱かった自分を忘れないでね」
という戒めだった。
その時ようやく気がついた。それまでの能力はただの前置きに過ぎない。
見えないのは雷の閃光で目が痛まないため。
聞こえないのは轟きで傷付けられないため。
感じないのは絶縁体となり、身を保つため。
全てはこの雷を迎えるためだった。
◯
この街にある数十万個の鈴が無造作に共鳴したりすると、風は応援の声に励まされたように更に盛り上がりを見せる。激しく乗り出したものの、風と鈴たちは所詮主役じゃない。この街の上空に漂っている雷雲が遂に蓄積を終え、宙野楓を打つ準備が整えた。
そう。
彼女が的である。
もちろん楓は雷を自在に操れることができる。どこに向かわせるか、威力の加減もできそうだった。
外の人たちから見れば、この研究棟だけがその雷雲に恵まれて、上から数千本の雷が止まらずにこの研究棟を打ち続ける絶望的な絶景になってしまった。
時々起きた爆音と閃光も恐るべき脅威で、目がやられるか、鼓膜がやられるか、それとも直接に雷に打たれて焼き肉にされるか。どっちも洒落にならない。
この研究棟と距離を取ってオドオドしながら写真を撮る人間はいるが、通報を受けて現場に着いた警察諸君10数名は特に複雑な顔になっていた。この異常天候が故に、彼らは何もできずじまいだった。
よりにもよってすべての通路と入口が雷に打たれ、近付くことのできないひどい火勢だった。消防が何とかしてもらう前に、警察は何の行動もとれない。もちろん空中ルートも無理だった。こんな大袈裟な雷雲だぞ。
「来栖社長との連絡が付かない。まだビルの中に……」
「増援は?」
「渋滞のため、まだ向かってる途中です!」
部下の報告を聞き、リーダーらしき警察官は悔しげにパトカーを強く叩いた。
「クッソ!やっぱり信じるんじゃなかった。狭山め」
警察よりその雷を熟知する人間はいない。仕事が捗らず、なかなか犯罪者を捕まえられない時に、いつもその神秘的な力に助けられてきたからだ。そして毎回それが起きる時に、必ず狭山があらかじめ予告する。警察は速やかに付近の住民に避難の指示をして、犠牲者が出ないように仕向けていた。
しかしそれが特別捜査隊の解散と共に終わったはずだった。「今後このようなことはもう現れない。元隊長の俺が保証する」という狭山の発言は確かにあった。
しかも今回、よりにもよって警察たちを阻むように刃向かう存在になっている。狭山への問い詰めはもはや免れない。
それはそうとして、電光石火の外と比べれば、中は実はそう混乱ではなかった。
「これが姉さんの力か……すごいけど恐怖でもあるな」
「ま、初見はそうでしょ。そう言えばローレンII君、君の本体はどんなものか?二人で運べるの?」
「そう大きくはないですよ。家庭用ゲーム機くらいの大きさです」
「家庭用ゲーム機だってそれぞれだし」
「そうですね。XBOX初代くらいの大きさです」
「結構でかいじゃん」
二人はビルの上を目指しながら、本体強奪計画について相談している。
ローレンIIの話によると、本体はこのビルの四階のサーバールームで作動しているそうだ。
「しまった!」
「どうしたの?」
一つ大きな問題に直面しなければないと、ローレンIIは思い付いた。
「AIとしてこんなことを見落とすなんて、面目ない。姉さん、僕の本体はコンセントで電力供給してるので、もし運ぶとしたら、電源は一旦切れる。一時的にこの涼介の体が動かなくなるんですよ」
「あっーー、そうだったね。確かに。電池はないの?」
「ないですね……ずっと電源に繋ぐのを前提に作られたからです。Xboxもほかの家庭用ゲーム機だって、電池の機能はないでしょう」
「ゲーム機の話はいいや。嫌なやつを思い出す」
それって俺様じゃないだろうな。確かに持ってるけど……彼女の目の前でプレイしたこともるけど……こんな変な形するゲーム機を他の場所で見たことないって彼女も言ったけど……俺じゃないはずだ。
「となると、私は本体と君の身体を同時に運びながら脱出するわけね。それから上手く警察の手から逃げ切る。どう考えても私一人じゃどうにもならない状況じゃないかね?」
「助けを呼ぶ……っていうのは流石に無謀ですかな」
「本来なら呼べたよ。思い切って携帯ぶっ壊したし、今は呼ぼうとしても呼べないよ。ああー。壊すんじゃなかったなーー」
楓は孤立無援というものを痛感した。大ピンチだった。
「やはり今回は片方を選ぶしかないです……せめて涼介の体を保全しよう。本体はまた今度にしませんか?」
つまりローレンIIがどうこうされても涼介の体には影響を与えない。今回は先に体だけを搬出して、またチャンスを狙って本体を回収しに来る。正直リスクを考えて、これが一番最善な策だ。
それにしても宙野は全く聞いていなかった。彼女には考えがある。
「来栖社長にもう一度直談判するのは?」
「え?そんなのうまくいくはずが……」
さっきのような対峙があったが故、ローレンⅡはネガティブ気味だった。
「うまく行かせる。もうこの手しかない」
この女は暴力を振るう準備ができたようだ。
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