第6話 2人目

 ◯

 人体は不思議だ。ケガするとすぐ修復し始め、有害なものを食うと、すぐ排出を段取りをする。ウィルスに侵入されても、体は熱を発して、殺そうとする。

 しかしこんな体も、これほど並外れたことなんて予想しなかっただろうか。

 防衛システムが狂った。

 ただ触れられただけで焼かれたように皮膚が綻び、肉が温度上昇によって色変わりして、やがて焼き肉のようなものへと変化した。しかも骨付きだった。

 拒絶反応が遅れ、反射的に手を引っ込めることもなかった。気がついたら、焦げた跡だけが残った。

 その手を凝視してみれば、俺は一種の非現実感を覚えた。これは本当に現実なのか。死ぬほど痛いはずなのに、なぜ何もかんじられないのか。

 そう思った側から、痛感という痛感が一気に襲って来た。細胞が喚いて死んで行く幻聴が聞こえるようだった。

 そのせいで俺はいったん退場させれた。現時点では治療に専念せざるを得なかった。

 その傷跡を見せた時、10万ボルトにでも打たれたかって街一流の医者がそう疑いさえした。

 さすが一流の医者さんだ。

 そこで、ここからの内容はあとで来栖君から聞いたのだ。なんと言っても彼は宙野のファンだから、少しの美化があるのもおかしくないはずだが、話全体を聞いたら、概ねその通りだなと思ってしまった。

 いかにも彼女がやれそうなことで、いかにも彼女がやりそうなことだ。


 ◯

 言うまでもなく宙野が突っ込んだ先は会社デイライトだった。

 来栖君は人質のように宙野に脅かされ、電話を切ったら殺すっとかは流石に口にはしなかったけど、まさにそんな雰囲気ではあったそうだ。

 電話の向こうで何が起きてるか来栖には大体想像がつく。だからこそ恐怖を感じ、無闇に言葉をかけるのをやめた。

「来栖君。デイライトに行けば良いですよね」

「あっ、ああ。でも……」

「あの子が虐められた証拠、見つけられるかな?」

「も、もちろん。彼の元部屋にあるはずです。潜入なら会社の5番入り口がお勧めです。人目が少ないので……」

「分かった」

 そこからは10分も続く沈黙だった。来栖は向こうでハッキングにも専念できず、ただ電話の横で待機していた。

 宙野がいつ喋るかわからないから、返事が遅れたら痛い目に遭うと思い、オドオドしながら一心に待つしかない彼だった。

 30キロの隔たりがあったのに、一体どんな交通道具を選んだらたったの10分で会社に着けたか、来栖には全く見当が付かない。ただ微かに風を切る音、そして断続的な人の叫び声しか聞こえなかった。

 5番入り口の警備が手薄とはいえ、二人の巨漢は配置された。どうそこを通るかについて来栖は説明せんばかりに、宙野は既に動き出した。

 監視カメラにすら捉えない何かが二人の魂そのものを奪ったみたいに、巨漢たちが震え出して間もなく勝手に倒れてしまった。

 それから道を塞ぐ鉄製のゲートも主人を迎えるように大人しく開いた。そう。あの時のように……俺の家の鍵が地に落ちたように、そのゲートが電子ロックであるにも関わらず、宙野は一切触れずにロックを解除した。

 宙野は確かに1ミリも動いてなかったから、カメラに捉えられたとしても、魔法でしか思えない現象だった。

 いや、魔法だって相手を選んだり、呪文を唱えたりして、せめての動作が必要とされるべきだ。でも宙野の「助力」はまるで主人をよく知っている忠実なしもべのように、彼女が何かを言い付ける必要もなく、直ちに彼女の意思のままに押し通す。

 そんな力に押し潰され、未知の攻撃を受けて気を失った二人の体には異変がなく、息もまだ続いている。

 宙野は平然と研究施設に足を踏み入れる。

 そこに誰もいなかった。勿論だ。来栖の疎開が既に始まっている。宙野の邪魔になるような命を惜しまない人間はいない筈だ。

 来栖が地図を見ながら簡単な案内をすると、目標地点の研究棟に辿り着いた。

 一望すれば、ここの一階は全部ガラス部屋で、広くは見えるけれど、高さはせいぜい3メートルだった。

「誰もいない」

「うん……もう保育士しか来てないはずです」

「保育士?」

 デイライトが立ち上げた保育園について宙野は何も知らなかった。

「ここは最初会社の動物収容施設でした。野良猫とか犬とか拾って飼ってました。まあ規模がだんだん大きくなって、ある日農政科に警告されたらしい。野生鳥獣の違法飼養だって。のちに動物が続々と搬出されてて、最後はビルが空きとなって、リフォームすると、ある日から子供を育てるようになりました」

「動物ダメなのに子供はいいの?」

「書類揃いの正式機構なんですからね」

「で、ここが保育園になったってことね」

「違うんです。会社が出資した保育園は町外れの場所に建てられました。その保育園から選ばれた子供だけがここまで運ばれて……」

 来栖は一旦話を中止した。

 そこまできたらやはり話すのが怖くてなってきた。電話の向こうの反応が見えないので、来栖は慎みが少しでも足りなかったら、宙野が次の瞬間にでも事件を起こしそうな気がしてならない。

 彼女は少し考えてから冷静に問いかける。

「洸太君みたいな子、あと何人いる?」

「彼1人だけです。原因は不明ですが、他の子よりその子の体質が何十倍も実験に適合性がありそうで、彼だけが保留されることになって、他は全部保育園に戻しましたよ。データを読んだ限りでは……」

「そうであれば、ここは誰もいないよね。壊してもいいよね」

「ちょっ!待って。まだ人がいる」

「なんで?残りは戻したんじゃなかったのか?そして洸太君は今橋の下で暮らしているのに間違いない」

 電話の向こうからはもはや電流が走る音が立ち始め、彼の耳に襲い掛かるような勢いに聞こえた。来栖は慌て出し、大声で説明しようとする。

「本当です!嘘偽りのないまことです!まだ1人いる。誰かは知らないですけど」

 それを聞くと、宙野も動きを止め、一個一個の部屋を検視し始める。透明なガラスが壁なので、一眼でその部屋を見渡せるけど、電気つけられていない故に、じっくり見据えなければならない。

 そんな広くて暗い廊下を歩きながら、宙野は頻繁に左右に見回り、漏れずに各部屋をチェックしていた。

 中の内装はどれも基本同じで、ベッド、机、椅子、そしてトイレ、寝室としての役割は果たせたが、牢獄もまたその仕様だ。

 30個ぐらいの部屋の大多数は空き部屋で、人が住んだ痕跡も見当たらない。しかしその中、廊下の一番奥に、とある違った部屋が見つかった。

 その部屋は少々広めで、本棚とシャワー室があり、いくつかの娯楽設備も置かれてある。テレビやゲーム機、ラジオやおもちゃ。小さな子供部屋と見てもいいくらいだった。

 しかし肝心な「人」がない。

「ここ、電気つけられないか」

「各部屋は音声コントロールです。ちょっと大声を出してください」

「大声か……」

 息を大きく吸い、宙野は大声を出さんばかりに、一瞬にして、眩しいほどの光がその部屋だけを明るく照らしてしまった。

 その訳は部屋の中からの音だ。ベッドの下から怪しい物音が立ち、とてもネズミや小動物に出来る音には聞こえない。

 見据えて観察すると、なんと1人の人間がベッドの下から出ようとしている。しかしミスしてしまい、頭が縁に当たった音と痛みがはっきりと伝わる。

「いっっったぁあああ」

 後頭部を抱え、1人の男子が喚き声を出しながら苦痛の顔を見せる。

「きみ……!」

 その男子の姿が目に映ると、宙野はつい叫び出す。両手をガラス壁に押し付け、目を見張る。

「あ、これはね、僕、どうやら寝相が悪くて、イビキなのかなーー。とにかくいつも寝る間に電気が触発されて、明るくて眠れなかったんですよ。しょうがなくベッドの下で寝ることにしたよ」

 男子の説明が全く頭に入ってこず、宙野はただひたすらに彼を見つめて、何かを確認してるような、自分の目が信じられないような様子だった。

「はじめまして。姉さんが新しい世話人ですか?れいちゃんはどうしたの?もう来ないんですか?しかし今日は採血日だっけ?あっ、もしかして今電話中?勝手に喋ってごめんなさい」

 その男子から投げてくる質問に対して何一つ答える気はない。むしろ思考が停止していて、茫然としていた。

「洸太君……なのか?」

 少し自信の欠けた口調で問いかける。記憶の中の洸太と相違がないと宙野は確信を持っている、なのに何故聞く?彼女自身も知らない。その男子の口から答えを聞かなければならない。

「コウタを知ってるんですか!?姉さん!」

 一瞬で立ち上がってガラスに張り付き、人格が変わったように目を見張る。

 またこの世でその名前を聞くことが出来るなんて思いもしなかったような口調だった。しかしその割に表情は不自然だった。とてもその誇張な口調には似合わない冷静さが含まれている。

「洸太君は……」

「会わせてください!お願いです!!」


 ◯

 洸太に似てるとはいえ、歳が明らかに違う。こっちの方は見るに、2、3歳年下だった。

「洸太君の……弟?」

「うん。そんなところです」

 少年は頷き、その歳に相応しくない穏やかな表情を見せる。

「私は助けに来た。出たいでしょう?」

「もちろん出たいです。ここにいてもう10年間……」

「十年も!ずっと?」

 十年の年月の重さ、宙野には痛いほどわかる。怪訝、同情、そして怒りが少しずつ彼女の顔から浮かぶ。

「10年に32日、になるね。何のためかはわからないけど、良い飯くれるし、遊びもできるし。ただ定期的な身体検察を受けて、後は採血と薬を呑むだけ。そこはちょっと嫌だね」

「採血と薬……一体どういうことだ来栖くん!?10年も続いてきた監禁、これまで少しも気づいてなかったの?」

 来栖のせいじゃないと分かっていても、宙野が理不尽に責任を彼に背負わせる。それが彼女が冷静さを失った印だと来栖も承知の上。しかし彼女の正気を取り戻させない彼は全力で話を合わせることを余儀なくされた。

「本当に知らなかったんです。ここは化学ビルだから近付かないようにって父さんにまんまと騙されましたよ。すみませんでした」

 電話の向こうで無力感を思い知る来栖がいくら謝ろうと、宙野を宥めることは出来そうにない。

 ガラス越しでモルモットのように培養される男子を見て、宙野は体が痺れたように動けずじまいだった。

「何が目的だ?こんな子供に実験するなんて」

「それは……」

 明らかに知っているような口調だったが、言い辛かったみたいだ。

「知ってるの?」

「ああ。でも……」

「知ってるなら言って!」

「言う。でもどうか心の準備してください。怒鳴りしないことを約束してほしいです」

「わかった。はやく言いなさい。来栖君!」

「クローン……でしたよ。数百回の試しの中、彼が唯一の成功作……ごめん。失言でした。成功例、ですよ。洸太という年上の方は本体、彼は洸太が4つの時に誕生したクローン体なんです」

「クローンーー!だと!正気か!?世界中禁じられたことなんじゃない!?」

「そうです。気味悪いです。洸太が唯一の成功例の元なんだから、彼も別室で閉じ込められていた。でもある日、大怪我して、正規病院に運ばなければならないことになった。ようやく外の世界が見えた彼は痛みを忘れて前後も顧みずに、隙を狙って病院から逃げ出した。その後のことはもう知っているはずです。自ら記憶の消去を頼み、犬と暮らすホームレスになったのです」

 それを聞くと精神が弱まったように、宙野は怒らず怒鳴らず、ただ精一杯に受け入れようとしている、残酷というものを。

「もういい!」

「姉さん、クローンっていうのは、僕のことかな?」

 そんな無邪気な聞き方からすれば、彼はクローンの意味がわからない様子だ。

「それは……つまり洸太君は君とそっくり……」

「クローンは知ってるよ。でもそれは間違いです」

「それってどういうーー?」

「似たような書類は見たのです。確かクローンを騙って会社の経費を大量に申請したそうです。実はほかの研究でそれを使った」

 何の話なのか宙野には見当も付かないが、それにこんな小さな子供がここまでわかっていることに驚く彼女だった。

 電話の向こうの来栖がそれを聞くと急に喚く。

「父さんがわざわざ嘘ついて経費申請を?」

 そこは確かに怪しかった。絶対的な数量の株を握る代表取締役である来栖宗一が嘘をついて他人の許可を得てから研究するとはあり得ない話に聞こえる。

 逆な思考もいかないのだ。例え本当に経費申請ということが起きたとして、クローンという違法な研究をやると他の取締役に告知して、それでも申請が無事通ったってわけか?

 色々と疑問に思うところもあるが、宙野は根拠のない机上の空論より、一旦現実に戻った。

「そんなことより、ここを開ける方法はないか?なければ私が何とかするわ」

「あるよあるです!まず落ち着け!えーーと、確かリモートで、制御室は……今マップデータを送信します」

 家出したあとでも、この会社に常に探りを入れているので、来栖は関連情報を入手しているはずだ。彼は電話の向こうでこちょこちょ調べ回り、最善を尽くしているとは言えるだろう。

 でもそんな努力は要らなそうだ。

「実は中から開けられるよ、姉さん」

「え?そうなの?」

「でも中からだと、警報が鳴るはずです」

「開けよう。だいじょうぶだ」

 宙野は「何があっても私が守ってやる」って言っているような口振りで言い切る。

 少年は壁にあるボタンを軽く押すと、ガラスの自動扉が開いた。そして案の定、嫌に尖った警報音が即座に鳴り始める。

 その音が鼓膜を貫通するほど鋭くてしょうがなかった。その上頻度も高く、2回の間に1秒の合間もなく繰り返し、電気ドリルが耳元で作動しているように、人を焦らせる。このビルの一階から三階までがその音でいっぱいで、何もない空の廊下の加勢によってさらに進化し、反響し続ける音の爆弾になってしまった。

「これはーー思ったよりうるさいね。なんとか出来ないか、来栖くん?来栖……くん?」

 どんなカラクリがあるか知らないが、通信がいつしか途絶えてしまったのは確かだった。

 その状況を瞬時に受け入れた宙野はスマホをしまう。

「じゃあ行こうか」

 少年に勇気をつけるように、宙野は手を伸ばし、そしてそのまま宙に浮かばせていた。少年を無理矢理連れ出すのではなく、彼の同意を得て一緒にその牢獄から出る。そういう意思が含まれた儀式のようだった。

 そんな彼が慎重な考慮のあと、ようやくその手を受け止めた。

「大丈夫、怖くないよ」

 宙野は少年を迎え、彼の片手を握り締める。その手に触れた瞬間、宙野は異様さに気付く。

「僕の筋肉の量は常人の8割くらいらしい」

 あまりにも薄い掌を、彼女は握るのが怖くて、ちょっと力を入れたら壊れるんじゃないかって心配さえし始めた。

「そう?」

 無理して笑顔を装い、それが異常じゃないって平気で接していた。

「走れるか」

「お姉さん、急がないと。みんな直ぐ来るはずよ」

「そう。でも心配ないよ。脱出ルートは覚えてる。行こう」

「うん!」

 これまで上手く行きすぎたお陰か。少年はますますテンション高くなってきた。おそらくそれは初めて自分を助ける人が現れ、さらにその人がもう直ぐ自分を牢獄から解放してくれるからだろうか。

 あと一歩で、その先の希望と光が見えて来るはずだ。そのはずだったのにーー。

 とっさに、人の声が聞こえる。

「いやはや。誰かと思ったら、これは、とっくに引退した元アイドル。なにゆえこんな薄暗い研究棟にいらっしゃるやら」

 その不愉快な声の元は頂上だ。スピーカーは天井に設置されたようで、監視カメラもそこにあるはず。

「構わず進むんだよ。まず外に出て。それから姉さんが全ての障害を追い払う」

 少年にそう言い聞かせ、スピーカーの声に全く動じない宙野は依然として少年の手を握り、真っ直ぐに外に向かう。

 光を浴びる外の世界、そこさえたどりつければいい。得体の知れぬ人の話を聞く必要はない。

「すべての障害、か。はっははーー。ずいぶん大口叩いているが、私が障害って言うならば、一体なにをしたのかな?」

 宙野は無反応だった。

 悪党は皆そう言う。彼女は何百回も見てきた。

「まさか私が違法行為を行ったとでも思ってるかね。そうかね?」

 宙野は無反応だった。

 さらに一刻も早く出るために足を早めた。

「宙野楓。あなたのことは調べた。あなたの正義は違法を許さない。まして人権を損害するような行為なんぞ。でもなあ」

 宙野は無反応だった。

 その声がだんだん遠くなり、光はすぐ目の前。

 あと一歩で。

「彼はクローン人間じゃない。人間ですらない。人工知能だ」

 少年を握る手が少し震えた。

「今、なんて」

 クローンというバカバカしい話を受け入れんばかりに、また彼女を混乱させる話を聞かされた。

「やっと聞いてくれるか。宙野楓。私の『息子』が変なことを吹き込んだこと、代わりに謝るよ。会社の数千人の生活を背負う立場だ。違法は断じてごめんだ。公にしないのは、これは業界、尚且つ世界を震撼させるほどの研究で、秘密にしないといけない。そこはわかってくれるよな」

「ふざけてるのか?この子は人間じゃないはずがない!」

 少年に目をやると、彼は何故か頭を下げて目を合わせとしない。口も開けずに、宙野と共にただ立ちすくむ。

 早く上を向いて「違う」って言ってくれというのは宙野の素の気持ちだったが、少年は震え続け、否定しようとしなかった。

「何故否定しないの?怖いか?でもちゃんと怖さを感じてるのね。やはり人間だね」

「そうやって自己欺瞞しては行けないよ。宙野楓。怖さを知るなんて、人工知能にはできないというのは誰が決めた?確かに、一般的には人工知能は人間以上の計算力と知能、そして進化力を持っていて、逆に感情、倫理、道徳の方面が弱かったのだ。でもそれはあくまで機械としての長所を限界まで引き出した結果である。私たちの研究と目的にはそこまでの高知能を求めてない。よって、私はあえて彼ーーローレンIIの知能を人間レベルに制限した」

「ローレンツウ」

 宙野がその名前を繰り返した。

 その言葉を聞いて少年は間違いなく反応した。悪いことをやったようにオドオドしながら、落ち込んでもいた。

「ここまで感情豊かな人工知能は恐らく初めてであろう。実はそう難しくはない。何かを捨て何かを得るという簡単な理屈だ。知能を犠牲にして、人間らしさを強化しただけだ。と言ったらまるで誰にでもできることみたいだね。難しい部分もあるよ。あなたと会話を通して問題を解決したい。だから最初から話そうか。あなたもきっと興味を持つだろう」

 その声が長い話を始めた。

「今からおよそ5年前、ある少年はひどい事故に遭った。その事故で彼の両親が死に、自分だけが辛うじて生き残ったが、文字通り体がバラバラになってしまった。両手両足が骨折、顔に重度の火傷、何より彼は、意識というものを失い、植物人間になった。

 私が出資して、丸一年をかけてその体を修復し、さらに2年の観察も続いた。やはり意識は戻る気がなく、彼は病院で余生を過ごすことはもはや決まりだった。

 しかしほぼその同時に、まるで運命のように、ローレンが成長を遂げた。10年前から始まったプロジェクトーー「ローレン」は、この10年間ずっと赤ん坊のままだった。こちらはやるべきこと全部やったのに、彼自身が大きくなりたがらないように成長を断り続けていた。でもたまたまローレンにあの植物人間の少年の話を教えると、彼は遂にローレンIIに進化した。『その体と生きたい』と、私はモニターに現れる文字に驚いた。

 ローレンIIの要望に、誰が応えられるか。その両親を失い、親戚全員が見つからなかった状況下、誰だって勝手に決めてはいけなかった。幸いのことに、彼には兄がいた。その兄に『ローレンIIを植え付けたい』という意思を伝えると、彼は即座に頷いてくれた。

 手術成功後、ローレンIIはここに住み始め、人間の常識と知識を教え続けてきた。

 それがあなたの横に立っている、ローレンIIだ。つまりその少年の中に2人がいる。1人はいつ目覚めるか分からない今でも眠っている水野涼介(みずの りょうすけ)。もう1人は人工知能ーーローレンIIだ。とは言っても、ローレンIIに属する部分はその頭の中にある一枚のチップだけ。本当の本体はこの会社のどこかにいる。

 そして人格の衝突を防ぐために私が設定したのは、もしいつかローレンIIの思考を妨害する人格が目覚めたら、神経連結を切らせられると。その時水野涼介は体の制御を取り戻し、チップは無効になる。

 というわけで理解してもらえたかな?ローレンIIは代理に過ぎない。彼に、その体をどうにかする権限を持つなど、正直思っていない。君もそう思うだろう?」

 情報量が洪水のように降りかかり、半信半疑にその話を聞くつもりだったのに、途中から完全に信じ込んでしまった。特にあの名前が出た時に、宙野の防御は完全に崩れてしまった。

「水野……リョウスケ」

 洸太君に似ているのはクローンなんかじゃない。兄弟なんだから。

「さて、説明を続ける。何故私は、あなたたちを止めようとしているか。

 最も重要なことは分かっているだろう。彼の存在は混乱を招く。必ずだ。同業者、政府、マスコミ、どれに目をつけられても、取り返しのつかない結果になる。まずは奪われ、解体される。次はここにあるローレンIIの中枢、つまり発信源に辿り着く。彼らは倫理の旗を高く持ち上げ、詰問してくる。挙句この会社は訴えられ、技術は奪われてしまい、悪用される。その先はもはや予見すら出来ない。いずれにせよあってはならないことだ。聞くが、あなただけで彼を守れるか?」

「バレなければ……なんとか……」

 自信無さげに、宙野は答えた。

「いいえ。バレる。まずはその見た目が怪しんだ。そんな筋肉の量と成長し難い体。万が一怪我でもしたら、病院に行くと全部バレてしまう。脳裏にチップを植え付けたんだから。どの医者に発見されても不思議に思って上に報告するだろう。

 それにローレンIIは自主意思を持つ知恵の結晶ではあるが、完璧ではない。欠点は二つある。一つは反射神経が弱い。本能的な非条件反射を除いて、例えば火に当たっら避ける、強光に射されたら目を瞑るなどのことは問題ないが。脳中枢を経過しなければならないような反射訓練はどうしてもうまくいかない。腹が減っても、鳴るまでそれが飢えだと気づかないとか。神経から発信した信号を彼には見分けがつかないのが原因である。二つは人間ほど想像力を持たないとこだ。新しい発想は常に既存の経験と知識から生まれるとはいえ、沢山学ばせたのに、想像力に欠けているのは確かな現象だ。そこはまだ未知の領域なんだ。そんな不安定な彼を外に連れ出したところで、どうするつもりだ?」

 宙野は戸惑う。彼女にそんな難しい倫理の判断ができるわけがない。20年だけの年月を生き、しかもその半分は音楽創作と暴力執行に捧げた彼女には困難極まりない。

 それでもやるかやらないかという判断はすべきだ。

「二人が一人になった。それだけだ。だから私は彼の要望を聞く。どんなことが起きても、彼自身が、そして助太刀した私が責任を持つ」

 本当は迷っているが、宙野は彼女に似合う正義の発言を絞り出した。

「なるほど。それも立派な思考だな。つまりもし絶体絶命の危機に遭った時に、あっさりと涼介の命を絶ってくれるよな?あなたには脳部手術が出来るわけがない。だから殺す時には火、あるいは爆弾がおすすめだ。骨まで燃やし尽くさないと、司法解剖の時にチップの存在はバレてしまう。ちなみにそんなことをしたって、ローレンIIの本体は無傷だから大丈夫。死んだのは、水野涼太の体とその眠っている意識だけだ。それでもいいよな?人殺しの重荷を背負い、そして一度死にかけた人間をもう一度死の恐怖を味わわせる覚悟は出来てるのか?」

「……!!」

 そんなの酷すぎる。それを聞いて宙野も冷や汗が滲み出る。

 水野涼介の体と意識の存続を決められるのは彼自身だけなはずだ。その意味では、その体を借りているローレンIIは自分の身勝手が故に、涼介の体を危険に晒させたとは言える。それが分かった途端、流石にローレンIIは言葉に詰まる。

「最後に、ローレンIIに聞こう。私との約束を破るつもりか?君が一人前になったら、嫌でも社会に放り込むと言ったではないか。何故逃げるような発想になったのか?君の知能に似合わない選択肢だ。私がその気になれば、君の本体の電源を切るのに3秒もかからない。わかってるだろう?」

 少年はとっくに用意した返事で答える。でも口振りはどことなく弱気だった。

「洸太は死んでいない」

「またその話か」

 聞き飽きたような口調で老人は「コウタは二年前に死んだ。涼介の移植同意書にサインした後、自殺した」

「うるさい!何故あなたも礼さんも、洸太のことを忘れたのか?僕と共に成長してきた兄弟なんだ。3ヶ月前まで一緒にいたよ!ここで!僕の部屋で!あなたもよく知ってるはずだ。何故忘れたフリをする?彼が行方不明になったからって、綺麗さっぱりに存在まで消すつもりか?それとも本当に忘れた?あなたたちの脳に欠陥があるのか!?そうであれば僕はそう言う人間の話を聞く必要もない。自分で探しに行く」

 老人から聞けばローレンIIはデタラメを言っているだろう。しかし赤の他人の宙野は逆にふと理解した。

 そういうことだったのか!

 彼と老人の話が噛み合わなかったのは、あの屋台の幼女によって改ざんされた部分があったからだ。

「そうか!ローレンIIは人工知能だからあのフルコースに影響されてないんだ!」

 宙野の勝手な悟りは2人に通用しない。説明しようとも信じれられる可能性も低そうだ。

「僕は洸太を探しに行く。彼のためなら、木っ端微塵になっても悔いがない。涼太には悪いけど、僕は我儘を遣り通す」

「感情の入れ過ぎかぁ……いや。わたしは入れていない。あなたが勝手にここまで成長した。しかしやはりまだ甘い。自分の価値と存在意義をまだ見通していない、リスクアセスメントも考えたことない」

「価値と存在意義は洸太に会ってから確認する。リスクアセスメントの計算は済んだ。この姉さんは強い……僕は見た。あるテレビ番組で、ベル・ショックが進行している最中に、一瞬だけ姉さんの姿が映った。そしてまた消えた。姉さんがここにくるのは人間はよく口にする運命というものだ。今動かないと次はない」

「なるほど。私がもっと若ければ一時の気迷いで見逃したかもしれないが……老人は頑固でね。あなたの存在は世間を騒がす。今の段階で、ここだけがあなたの居場所なのだ。わかっていてくれ」

 その言葉を言い残すと、人の声が聞こえなくなり、暗い廊下に2人だけが取り残された。そして少年も観念した顔で落ち込んだ。

「嘘をついたことを謝ります。すみませんでした。姉さん。あなたの善意を利用して、勝手なことを計らっていました」

「許せないね。でも今はいいわ。追究は後にする。でも、どう考えても不思議……人工知能と会話出来るなんて」

「そうですか。僕からすれば、生身の人間の方が稀です。とは言っても、AIの同類はいないが……数字から産まれた僕は常に運算を続けてる。されど来栖博士が付け加えた『運算に頼らず、感情で考える』という制限があったが故、あえてツールを使わずに自分と会話して問題を解くしかなかったんです。それは本能と対抗しているようなものです」

「ヘえ……そ、そうなのか……」

 その界隈で知識を持っていない彼女には難しそうだった。ローレンIIも見抜いて、そろそろ話を終えると思った。「良ければまた遊びに来てください。それくらいなら博士も許してくれるだろう。でも今日はもう無理そうです。来栖博士はもうすぐ僕の電源を切るでしょう。この身体もしばらく植物人間の状態に戻る。そして姉さんが行ってしまったら、僕を再起動するはずです。会話で博士を説得したかった……でもやはりだめでした。短い時間だったのですが、希望と朗報をくれてありがとうございました。生きていることを知っただけ感謝です。もう行ってください。博士のやり方では、警察が既にこの研究棟に駆けつけていると思います」

 そう言い残したローレンIIは最後の笑顔を作って、自分の部屋に戻ろうとした。心なしか、足取りが不自然なほど遅かった。せっかく籠から出れたからもうちょっといたかったか?

 宙野はここで終わるつもりはない。彼女は一回深呼吸して気持ちの整理を終えると、追いかけて彼の細い腕を掴む。

「何を言う?君の運算では、私が負けると?」

「えっ?」

 不思議な目で彼女を凝視してしまうローレンIIだった。

「私は常識外れの人間でありながら、常識に欠けてる人間だ。特捜隊にいた時も、親友と組んでいた時も、頼りになる先輩たちと友達のおかげで、道を踏み外さなかった。でもそれが解散後、私は自分で先を決めなければならなくなった。自分の思考で結論を見出さなければならなかった。その時気付いた。私は決断を下すのが苦手だった」

「でも姉さんは沢山の犯罪者を懲らしめたでしょう。ある応援サイトで特別捜査隊のことを拝見しました」

「それもあったね。泥棒、殺人犯などは問答無用で捕まえるからね。でもいざこのような倫理的な判定が来ると、私はどっちつかずになってしまう。裁判官じゃあるまいし……今回もそうだ。来栖博士の言うことが全部事実を前提にしすると、あなたをここに閉じ込めるのは正解かもしれない。でも閉じ込められた君の細やかな願望も分からないでもない」

「それこそ人間がよく口にする、二兎を追う者は一兎をも得ずってことですね。正直僕にも判断がつかない。情に流されただけです難しいね、人生の選択って。あっ!僕が情とか人生とかを語るなんて、変かな?」

「変じゃないよ。どう見ても、君は立派な人間だ。ところで今はずいぶん落ち着いてるみたいだな。運命を受け入れたか?もうここに残っても大丈夫だ?」

「そんな……なんといっても、来栖博士は僕をここまで養ってくれた恩人です。でも思いは変わらない。今だって、いつだって、洸太に会いたい!」

 とは言っても、少年には分かっている。人工知能である自分には、一生克服出来ない部分がある。博士と約束したのは、一般人と見分けがつかないほどの人間に成長した暁に、外での一人暮らしを許される。そんな日、来るのだろうか?一生来ないなら、彼はどうすればいいか?

 ローレンIIは漆黒の天井を見上げながら、考えにふける。その天井はすでに何千回何万回見ていたにも関わらず。

 その時、宙野の行動が彼の思考を遮った。

 ポケットにしまっといたスマホを取り出すや否や、野球のスライドのポーズでそれをいきなり投げ捨てた。それがしっかりと壁にぶつかって、歪んだ形になってしまった。生き残る確率はない。確実にぶっ壊れたと言えるだろう。

「姉さん、どうして?」

「気にしないで、私のものじゃないから」

 確かに、それは俺から奪ったものだった。

「だからって……それにデータ漏洩の恐れがあるのですよ。ここの研究員が回収して色々調べるに違いない」

「それも心配ない。それよりローレンII君と涼介君。外に出るわよ」

「へ?」

「でも条件付きです。外に出たら、私の命令に従ってください。マンションを借りてそこで生活してもらう。君だけじゃない、私が助けてきたたくさんの子供も一緒に。それならいつでも守ってやれる。ちなみに洸太君もあそこに迎えるつもりだ」

 洸太の名前を聴くと、ローレンIIは躊躇なく頷いた。

「ならそこがいい!一生閉じ込められても!」

「それは無理ね。一人前になったら嫌でも追い出すわ。君たちを数十年養える金持ってないし!」

「ははっ、ははは……姉さん面白いですね。何故そんなに強くて優しくて、他人の為にそこまでするのか。今まで得た知識がまるで通用しない」

「そう言って貰えると嬉しい。それがまさに私の生き甲斐だ。だから君も、いつまでもここにいちゃダメ。ずっと決断に戸惑うのは間違いを犯すことが怖かったからだ。でも思い出した。大っ嫌いな人に言われたことを。怖いなら正義を名乗るなって。優柔不断なままじゃいつか絶対踏み外すって。こんなに迷ってる自分がもし知られたら、また笑われるよ。とっくに決めたはずよ。私は気紛れで人を助ける。従うのは私の正義だけだ。それが世間にとっては悪だったとしても、この力がまだある限り、活かしてしまおう」

 なんと恐ろしいセリフを、宙野は言い出した。

「姉さん……ありがとう」

 ローレンIIの感謝がトリガーのように、外の様子が変わり始めた。

 さっきまで晴れだったのに、急に周りの雲がこの街の上に集い、それから直ぐに黒く染まる。よく見ると、各色の光がその中で力を蓄えてるように跳ね回る。

 声はわずかだったが、その景色を見て驚かない人間はいない。いつのまにか強風もタイミングよく訪れ、それの手加減知らずによって皆の門前に吊り下げる鈴が一斉に鳴り始める。

 その時、そろそろ街のみんなは気付く。それが、久々にやってくるこの街特有の不思議な現象だった。

 まるで気紛れな空が急に怒り出すように、天候が豹変してしまい、真っ暗な、巨大な雷雲が澄み切っていた青空を遮る。

 そして空からーー

 雷が落ちてくる。

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