第5話 幸せコース

 〇

 電話に出た後宙野は出掛けた。とすると、ポイントはその通話にあるというのはあからさまである。

 幸いのこと、スマホを持って行かれなかった。着信履歴を確認すると、まさかの来栖だった。

「来栖、今朝はなんのことだった?」

 かけ直すなり、単刀直入に問い質す。

「曳橋さん?ちょっとやばいことです。ニュースのリンクは送りました。それを見れば分かるはずです」

「見ない。今すぐ説明しろ!」

「要は千坂さんは捕まりました。罪名は令状なしの強制捜査。彼女の捜査先は、デイライトの機械部でした」

「お前の親父の会社じゃねえか!?」

「そうなりますね」

 平気でそう言える来栖から、俺は逆に異様な雰囲気を感じさせられた。彼が家出して、ボードゲームにハマることと何か関連性がある気がしてならない。

「それを聞いて宙野が……けど千坂の奴はなぜ……クソッ――。お前に聞いてもしょうがねえ。切るぞ」

 電話を切りそうになる時に、来栖君はすべてお見通しの口調で冷静に語ってくる。

「それは恐らく、その会社がやましい事をやっているってことに、千坂警官は気付いたかもしれません。でも証拠持っていない彼女は強制捜査出来ないはずです。結果は拙策をとりましたね」

 まことしやかな口調で、その会社の後継者である来栖がそう説明しているのなら、説得力も付く。

「やましいことやってんの、お前の親父の会社で?」

「やってます。でも具体的にどの部署かは分からなかった。でも千坂さんのおかげでわかりました、機械部なんでしょう」

「そうだとしても、そういうのを取締るってのは千坂の役目じゃないんだ。そんな余計なことしないはずだ」

「では千坂さんは何をしに行ったのでしょうか?」

 わかるものか。

 ウチとマルはともかく、トギである彼女は途轍もなく神秘的で、人に感情を見せない冷たい人間だ。どんな目的であそこに行ったか、推測のしようもない。

 いい機会だし、ここで来栖の頭脳を借りろう。万が一問題になっても、彼の記憶を消せばいいだけの話だ。

「千坂は裏で働いている公安部の取り調べ対策組のキャプテンだ。簡単に言うと、あらゆる手段を使って容疑者に訊問を行うことが彼女の主な仕事。ずっと審問室にこもって表にはあまり出れない身分で、現地調査に行く必要なんて尚更ないって訳だ」

「なるほど。そうであれば、千坂警官は私情で動いたんですね」

「私情?何を根拠にそう言える?」

「昨日言葉を喋らない子供の件について話したじゃないですか。その子供の真相を知るには、デイライト本社に行かなければいけない。千坂警官はどこかで手掛かりを入手でき、宙野さんに内緒で一人で行ったのでしょうね」

「おい待て!どういうことだ?子供のこと知ってたのか?」

「ああ。そうとも。僕が曳橋さんを頼りに、みんなと研究をしているのは何なのか、気にならないですか?」

「気にはなる。が。今聞くべき話じゃない。子供の件を話せ」

「同じ件ですよ。デーライトは今年の2月に一度、実験台を取り逃がしたことがある」

「実験台……動物のことか」

「人間です」

 さすがの俺でもぞっとした。

 でもよく考えると、この世のどこかでそんなことが確実に存在するのを認めざるを得なかった。そしてデイライトにはそれを隠蔽する力を持っている。

 俺は情報収集グループを持っているものの、デイライトの情報の探りが難しかった。来栖の到来で改善してくれるかと思ったら、彼にもそんな権限がないようだ。

「やれやれ……闇っぽい展開になったじゃねえか」

「最初は孤児として会社が出資した養護施設に引き受けられ、そしてある日急に本社に運ばれた。その以来もう二度と出たことない。その孤児の名前は水野洸太でした」

「水野、洸太!?貴様、なぜ昨日言わなかった?いや、一昨日か」

 今すぐ電話の向こうの来栖を捻り潰したいところだ。

 あの場で言ったなら、俺は苦労で徹夜せず、宙野も消えることは無かった。

 しかし逆にあの時彼が言い出したら、俺じゃなくて、宙野は彼と共に行動することになってしまいそうだ。

 じゃ握り潰してから蘇らせる。

 俺は少し冷静さを取り戻しつつ、来栖の言い訳を待つ。

「宙野さんに知られたら、会社は粉々になってしまいます。文字通りに……。別に金が惜しいとかじゃないですけど、ただ大多数の社員たちは無実です。彼らを無駄死にしたくない。僕たちは今会社のセキュリティーシステムを攻略している。それが成功次第、社員たちに避難通知を送る。だから頼みです。彼女をミスリードして、避難が終わるまで、もうちょっと時間を稼いでください」

 情報量が多過ぎて、ちょっと混乱し始める。電話越しで彼の真意を読むこともできない。百歩譲ってそれが真実だとしても、時間を稼げって言われても、彼女の行方は知らない。

「やはり信じられないな。何か俺を納得させる証拠あんの?」

「見せるのは容易いです。僕たちがやっている研究を見れば一目瞭然。会社の情報交換システムをクラッキングできて以来……」

「待て待て!クラッキング?なんだそれ?最初から説明しろ」

「では説明する。去年、まだ会社にいた頃、僕が作ったセキュリティーシステムが実装できた時に、ある怪しい鍵付きのフォルダーを発見した。ハッキングで内容を確認したら、とんでもない違法研究のデータが見つかりました。最初は手出すつもりは無かったです。僕だって正義感溢れる人間ではないです。でもその後のことが僕を怒らせました。

 昔僕の好きなゲーム会社を親父が買収したことがありました。それは僕の好みだからと思って、彼に凄く感謝していました。近くでみんなの仕事ぶりが見られるし、作ってるゲームを一番最初にプレイできると思ってました。しかしある日からそのゲーム会社は二度とゲーム開発をせず、殆どのプランナーがリストラされ、プログラマーだけが残った。彼らは会社の汚い情報を隠蔽する仕事を課せられ、罪悪感を抱く毎日でした。

 そしてどんな目的か知らないが、彼らは情報のバックアップを取って、それをゲームのデバイスに隠した。それが僕たちの研究対象――ボードゲームの「ミスト」です。

 そのゲームは一度開発中止とされて、デバイスはもちろんゴミとして扱われていた。でもある日からデータを隠すにはうってつけと彼らに目を付けられ、こっそりと起用しました。ゲームを作れず、毎日嫌いな仕事をやっている彼らを見て僕は腹が立ち、そして動き出しました」

「お前がそれを盗み出した……ってわけか」

「そうです。その後僕の侵入痕跡が露見し、親父は相談しに来ました。でも当時親父も、そのデバイスに何の秘密があるか知らなかったはずです。何でわざわざ廃棄になったゲームのデバイスを盗むか疑問に思ってたでしょう。それが僕のチャンスです。そのゲームに思い入れがあるなんて嘘をついて、デバイスを持って逃げ出した。でも流石に全部持ち出す余裕はなかった。その中の半分を持つのが限界でしたので……この様です。未だに解明が済んでいません」

「さっきから言ってたデバイス……どこにあるんだ?うちに持ち込んだか?」

「ずっと弄っているんじゃないですか?」

「はあ?まさか!あの棒か?」

「そう。あのライフポイント、兵士のステータスなどの情報を示す……棒です」

 ……。

 そこまで説明したのなら、やむを得ず彼を信じることにした。ここ数ヶ月の付き合いで、彼がどんな人か自分なりに把握できたつもりだ。

 心寛大な大家の俺は彼らのやってることを見て見ぬふりをしていた。そんなに興味津々にボードゲームを楽しむならそれはそれでいい。でも時々疑う。彼のような人間が本当にそれで満足しているのか?裏で何か画策してんじゃないかなって。

 今になって彼の計画を知ってむしろホッとした。

「時間稼ぎ任せられますか、曳橋さん!」

 そんな確固として決心を表すのが初めて聞いた。それなら俺の返事はこれだけだ。

「切るぞ」

「健闘をいのっ」

 言い終わるのを待たずに電話を切った。

 宙野……このわがまま姫様。どこにいるんだ――。

 これまで20年の年月において、彼女との付き合いは合わせてせいぜい63時間だけだった。こんな時に行きそうな場所なんてわかるわけがない。

 まさか警察署に行って昔のリーダーに助けを求めたか。

 それとも直接会社に乗り込んだか。

 あるいは先に危険な分子を排除しに屋台に行ったか。

 取り敢えずスマホで情報網を使って街の状況を調べながら、武器を調達するように手配した。

 それを終えると俺は扉を開ける。

 初夏の真昼だけど、強い陽炎が目をくらます。

 そして現れたのは心を動かすシーンだった。

 綺麗な女性が廊下の手摺りに寄りかかり、思いふける。こんな熱い天気なのに、彼女は一滴の汗もかかず、太陽と真っ向勝負を挑むように悠長に空を見上げる。

 手にぶら下がる買い物袋が左右に揺れて、連れて彼女の体も揺ら揺らとする。扉が開く音に気づき、彼女が振り向いてそう言った。

「あら。起きた?」

「オマエ!」

「なかなか起きないから、お昼を買いに行ったの。安物しか買えないけど、弁当でいいかな」

「なんだっていいよ。なんで扉の前で突っ立ってんの?」

「カギ忘れちゃった〜」

「じゃあチャイムでも電話でもノックでもしろよ!」

「まあ。丁度私も風景を眺めたいところ。ついでに考え事を……」

 それは千坂のことか。洸太のガキか。それとも俺の知らないほかの彼女にとって助けなければならない人のことか。いずれにせよ、彼女は疲れ過ぎだ。簡単な化粧でその憔悴した顔を隠しきれない。おまけに昨晩は寝なかったせいで、今や俺と揃ったクマが付いている。

「千坂を助けに行かないのか。冷静だな」

「彼女たちは大丈夫です。きっと」

 それは同意しかねる。

 千坂が責務を捨てて危険を犯すなど、そのようなことはかつて無かったのだ。彼女はこの街の町長の養女であり、公安部にとって掛け替えのない駒であった。それだけの重任を背負い、一度の油断も許されない身だ。それでも、宙野のために動き出した。何故宙野は心配しないのか。冷血か?

「実力者であることは認めるけど、大丈夫とは断言できないだろ。それより何故あそこに行ったかが問題だな」

「分からない。トギは無謀なことしないはずです。それに言われたことがある。もし私が危険な目に遭っても、乗り出さないでくれって」

「そんなの知らねえよ。どうせ自己犠牲だろ?つまらねえ」

「そうだとしても人の好意を裏切るべきではないでしょう」

「言い訳にしか聞こえないな。お前は逃げてるように見える。何からかは知らないけど」

「……」

「俺の言うことじゃないけど。友達を大事にすると、その分向こうもお前に報いる。俺はそう思う」

 それが彼女の記憶を喚起したみたいで、宙野の真っ白な顔に苦悩の色が浮かぶ。それは、思い出に浸る顔だ。しかもネガティブな方に違いない。

 俺が把握している情報によると、彼女はかつて友達に裏切られたことがある。彼女の元メイクさん兼正義のパートナーの雫ちゃんが、あの電気漏れ事件の後、何の断りもなく実家に帰ったそうだ。そのせいで人間不信になったかもしれない。

 雫ちゃんは親友だけではなく同居していたクラスメイトだった。彼女が長い青春時代において一番且つ唯一の友達があんなことをした理由がわからない。今になって雫に真実を聞くこともできなくなった。なぜなら俺は一度あいつの実家に行って調べた。

 雫ちゃんは他界した。

 もちろんその事実を俺は隠している。

「君が友達を語るとはね」

 宙野は思い出から目を覚ました。疲れた顔で苦笑いする。

「確かに俺にその資格はない。誰もが俺と対面すれば言うことを聞くしもべになる。そんなの対等の友達とは呼べないな」

「それなら私は催眠されないよ」

「そうだね。たった一人の、俺の目を直視出来る人間かもしれない」

「でも君とは友達なのかな?私はいつも君に助けを求めてる一方だけど、君を助けたことなんて一度もなかった。それだと、対等じゃないよね」

「……しいて言うなら、お前と千坂が俺を見て見ぬふりをすることが、俺を救ったのと一緒だ」

「そうね。忘れるところだった。君は大悪党だわ」

 それは忘れちゃだめだろう。

「まあ。つまり千坂の件は一旦放置だな。洸太のガキのことが先ってわけか」

「うん……弁当を食べたら行くね」

 弁当を……食べるか……。

 急なんだけど、俺はすごく大事な、やらなければならないことを思い出す。それを思うと口も開けられずに、彼女に顔向けすら出来なくなった。

「俺……ちょっと家に行ってくる。もうすぐ戻るから。え……と。11時集合な」

 頭を俯いて、俺は微弱な声を出す。彼女は好奇心満々で首を傾げ、疑問な目で問いかける。

「なんで?急いでるよ」

「わかってる。でも急用が……あ、クラブの奴らに給食しないと」

「冷蔵庫いっぱい詰まってたじゃないか。昨日見たよ」

 人の冷蔵庫を覗くなっての!そうか。ミルクを取り出す時だったか!

「じゃあ!ちょっとコンビニ行って来る」

「弁当は二人分だよ――。割り箸もティッシュもなんならケチャップもあるよ。他に何が必要なの?」

 彼女疑惑の目が更に増し、首は90度近くに傾げている。

 ていうかケチャップってなんだ。フライスポテト弁当か!

「そう!飲み物だ。一杯のコーヒーがないと何も食べられない。俺は」

「そんなことあったっけ?ただでさえ眠れないから、コーヒーは全然飲まないって来栖君が言ってたよ」

 おのれええええ。クール―スー!

 そこまでやりとりをすれば、さすがの彼女も悟った。

「あ!分かった。もしかして歯磨きがしたいかな〜?それなら未開封のやつ洗面台にあったよ。遠慮なく使って使って」

 ……。

 曝け出されるのは気分良くない。できるものなら、彼女の記憶を消したい。他人の家で歯磨きを申し出るっていうのはこんなにも恥ずかしいことだと初めて知った。

 ていうかトイレで見た。誰のために用意したんだろうって考えたこともあった。

 それにしても未開封の歯ブラシを洗面台に置くなんて、それってすぐ使われる予定なのではないか?そう思うと、なんかいやらしい想像もした。

 とりあえず今は余計な詮索はせず、俺は無言に洗面所に赴く。用事を済ませると、また何も起きていないふりをして平静さを装って彼女の前に現れる。

「行くか」

「食べないの?」

 凡人よりちょっとだけ淑やかな食べっぷりで弁当を楽しむ宙野がいた。俺の質問を聞くと驚きの目をやる。

「まだ減ってない」

「そうなの?でももう温めた。無駄になっちゃうじゃない」

「そうか。ちなみにいくらだ」

「え?そんなの要らないよ」

「いや、昨日の宿泊代のことさ。あとは布団のクリーニング代」

「宿泊?うちはホテルじゃないの。あとクリーニング代を請求するなんて聞いたことない。それにたったの一晩、クリーニングいるの?」

「やあーー。それはな。何せ俺は男だから」

「私のベッドで何をしてたの!?」

「別に何もーー!男の発汗量が女と違うって意味だぞ!」

「あ。そういうことか。確かにね」

 彼女は即座に頷いた。何の疑いもなく。

「じゃ後で十万振り込んでくださいね」

 十万。どんなゴールデンウォーターで洗濯すればそんな値段になるんだ。

 正当な名分を見つけてあげたら強請るものだなこの女。

 俺が適当に弁当を食べ終わると、彼女はゴミを集めて、テーブルを綺麗にした。一人暮らしはそうでなきゃ。俺は一人暮らしじゃないから、全部クラブの連中に任せっきりだけど。

「行くか。日差し強いよ今日は」

 俺が日に弱いことを覚えてくれてるな。

「ご心配なく。俺に対策があるんだ」

 こんなバカ暑い日差しに対抗するために、一昨日の夕方に散歩がてらに小店で選んだサングラスは早くも役に立つ。サングラスのどこが良いかと言うと、まずは俺の怪しい目付きは人に見られずにすむ。それから正面からも横からも後ろからも、元アイドルが見放題。最後に俺の致命的な欠陥、クマがようやく隠せるようになった。聞くまでもなく、クマを隠された以上、俺の顔つきはもはや完璧と言えるだろう。そうじゃなくともそう言わせてやる。

 念のため感想を聞いておこう。

「どうだい?」

「バッカらしい」

 センスに欠けるクソ女だ。


 ◯

 相合傘って知ってる?

 日差しを遮るために、彼女と俺は同じ傘を使っていた。順番に取ってを持ち、街を歩いていた。それだけ今日は暑かった。

 女子は傘には拘りがあると聞いたことあるが、何故か彼女は一本の日傘しか持ってない。それにそれをシェアしてくれるとは、さすが俺が見込んだ女だ。その正義の心には賛同しがたいが、優しい心は認めてやる。

 二時間もかけてようやく見つけた例の屋台は人が気付かない隅っこに設けられた。車系じゃなく、一本の椅子と机だけで構成されるシンプルの極みと言える露店だった。しかし店と言うと、商売する気が全く見えない。怪しさはそこから始まる。

 更に標識とか宣伝チラシもなく、ここは何のための屋台ですら説明せず、その屋台の主はただ本を読みながら座り込んでいる。

 一冊の大きな本が顔をまるごと隠し、やはり商売する気がないよな。顔は見えないが、なんとか分かったこともある。机の下に見えるピンク色のフリルの付いたホワイトスカートが彼女の青春と若さを語っている。

「メニューを紹介してください」

 椅子がないので、宙野は立ったまま手を机に強めに叩き、脅迫気味に要求した。

 強気な宙野にびっくりしたようで、彼女は手の力が抜け、自ずと本が机に落ちてくる。見えてきたその子は、驚異や怖気混じりの顔で宙野を見つめる姿は、いかにも普通の女子中学生だった。それもかなり可愛らしい方だ。小動物のような動きがまた男の保護欲を喚起する。

 彼女が読んでいた本のページを一目すると、何やら最近流行っている恋愛小説の類いのようだ。それも至って普通だ。

 でもおかしいと思わないか?

 俺からすれば、人の記憶を弄る力を持つ人間が小説を読むこと自体が、虎が丸いボールを追い掛けるように滑稽だ。

「っわ、っわーー、わたしは人の良き友人、ヒカルって言いますぅ!」

 名前なんて、聞いてねえっての。しかもこいつ、中二病か?勇気を絞り出して結局自己紹介しかできなかったのはちょっと可愛く思うけど、痛々しい気持ちもある。

「ヒカルさん。私は宙野。メニューを」

 余計なこと言わずに、宙野はリクエストを重複した。どうやらこの人に限って、仲良くするつもりはなさそうだ。しかし不謹慎に本名を話したのは心外だったな。

「ゴホ!私は幸せを届けるヒカル!どんな幸せでもしかと作れます。もし話が長くなる見込みがあれば、文字版をプリントして持って来るのも宜しい!っていうかむしろその方がお互い楽だと思いますぅ!」

 何を言ってるか見当がつかないだろうと思うけど、事前に風の噂を聞いてたから俺は何となく理解できている。

 顧客が書いたシナリオを読んで、それで記憶を書き直し、まるで実在したように生々しく頭に取り付けるのが彼女の幸せを届けるっていうことだ。誰の利益も害せず、誰をも傷付けずに済む。ただそれは現実逃避して、ずっと夢を見るのと一緒じゃないか?

 それにしてもやはりこの女の子面白いね。目線がふらふらして、宙野の目を直視するのを恐れつつ、なにかの使命に押されてるように、一生懸命その恐怖に直面する。いや、宙野だけじゃない、俺の目からも逃げ続けている。ただの人見知りなのかもしれない。

「ふうん。こうしよう。私は人を殺したことがある。それをきれいさっぱり忘れたいですね」

「おお!簡単ですぅ!」

 人殺しってことには反応しないか……。

「ではハーフコースで行きますぞぉ!」

「ハーフコース?フルコースはダメか?」

 俺は思わず聞く。

「出来ますとも!」

 元気いっぱいで答えた。

「そのフルコースって、具体的にどんなもんなのか。説明してくれ」

「フルコースはフルなの!全てを解決出来るのですぅ!」

「すべて、解決、だと?」

 宙野は鼻で笑った。

 なるほど。この期に及んで俺はやっと分かった。宙野がそんな悪い態度をとる理由は、彼女の正義レーダーがまた作動し始めたからだ。

 その屋台をやっている女の子が洸太の坊主の記憶を消し、彼を犬のようにした。宙野はその行為を悪と判断したみたいだ。

「すべてはすべてだもん!信じないなら他所に行ってください!わたしは別に商売じゃない、強要しませんから!」

 宙野の顔色をこれ以上悪化させないために、俺は口を挟んだ。「金取らないのか!?何のために能力を使ってるんだ?」

「ノーリョク……あーー!その顔!あなたってまさか、あの伝説の!」

「お?俺のことを知ってるのか。良いことか悪いことか。身バレは良くないなあ」

「あの伝説のメモリー・ブレイカーですか!」

「メ、メモ?無礼化?」

 俺の数少ないみっともない弱点がよりにもよって宙野に見られてしまった。そのさっきまで暗雲みたいな顔が一変して、横で口を覆い隠してクスクスと笑い始める。どう見ても俺の語学力と学歴が嘲笑われている。確かに俺は中卒だけど、宙野、てめえだって高校中退だったろ。五十歩百歩だな。大学に行けたのはお前の親父が根回ししたんだろう!この特権階級め!

「まあ。さっきは聞き間違えたみたいだ。メモリー、つまり記憶なんとかだね。分かってる。なんでその呼び方なんだ?女」

「あるお方の記憶を見る時に、ちょっとあやふやになった部分があって、その壊れた記憶の直前に会ったのは、あなたですぅ!一回ならまだしも、あなたは数多くの人たちの記憶に出現している。現れるたびに、その人の記憶がバーンとっ、一部壊してしまいますぅ!凄いですぅ!」

「なるほど。それか。でも実際のとこ、一時的な破壊だけだ。運が良ければ1ヶ月くらいで思い出すのもおかしくない」

「どうしてですか?なんで運に関わるんですか?」

 この純真な女の子が彼女の何もかもに抱く膨大な好奇心を顕にして俺を見詰める。それがちょっと自慢げに思うけど、危険なサインでもあるのだ。何故ならばそういう聞き方は自ずと男の中に潜む「女子の先生になりたい」という願望を引き出し、「良いだろう教えてやろう」って言ってすぐ調子に乗ってしまう。

 20にもなったが、ひと頑張りすればまだ思春期の尻尾を掴める俺も例外じゃない。

「それはなーー」

 詳しく説明しようとすると,横から殺意に満ちる視線を感じさせられた。

 その目はまるで「余計なこと言うな!」って怒鳴っているように見える。自分だって本名を言い出したくせにな。

「とにかく幼女さん。いくつかの質問に正直に答えてもらおう。さもなけりゃ、この怖いお姉さんが怖いお仕置きを仕掛けるから」

「えええええ!?なんで!わたしは悪いことしてないのにぃいい!」

 その小娘の言葉を聞いて宙野は眉を顰める。「自分が何をやらかしたか自覚してないのか」って顔だ。

「俺が聞こう。まず、千坂という女性が訪ねたことあるか」

「せんざか?ありませんでしたよ。初耳ですぅ」

 平然と、表情を1ミリも崩さずに即座に答えた。

 嘘じゃないみたいだ

 それを伝えに宙野に目をやる。彼女が納得して頷きを得た後、俺は次の質問に入る。

「次、水野洸太っていうガキが、お前のなんとかコース受けたことあるか?」

「みずの……」記憶を辿っているように見える彼女が指を頬に当てて、目を瞑って首を傾げる。「いたいた!」

 素早く可愛いケースの付いているスマホを取り出したけれども、デジタルの写真ではなく、一枚の実物の写真をケースの裏から引き出すのだった。

 その写真に映る子供は確かに昨晩見た洸太というガキの顔に近い。違いといえば、そっちの単純な獣より、こっちの方は服がちゃんとしてて、煩悩を抱える顔だけど、もっと人らしく見える。

「コースが終わると整形しに行くお客が多いから、一枚の写真を撮るのがわたしとしての記念ですよ」

「整形か……なんとなく分かる。これまでの人生とお別れって意味合いだな」

 俺の賢さに感心してるようで、幼女は凄まじい頻度で頷い続ける。俺の勘違いじゃなかったら、この子はさっきから熱い崇拝の視線を送ていて、この天気において暑すぎる温度だ。このサングラスのご加護がなければ、20歳の男である俺は顔が赤らむとこだった。言っとくが催眠はしてないぞ。

 この子とどっかで会ったことあるのか?俺と彼女の能力は同一人物にどう反映する?そして互いへの作用はどうなる?とかの諸々の問題に疑問を抱く俺は容易く彼女の熱意に応えられない。

 ちなみに俺の左側からは、それと全く逆の何かが発している感じがする。

 宙野は人を傷付けられるほどの冷たい目を俺に向け、無言なのに、形ないのに、蔑みや侮辱が混ぜ合っているジャムみたいなものが身にかけられ、身動きが取れずにいた。

 口開いていないのに、「ロリコン!」、「スケベ!」が聞こえているようだ。ヒカルの情熱と対照すると、これがいわゆる凍傷ってやつか。

「ってわけで……次の質問だ。お前は何者だ。どれくらい知っているか?目指す先は何だ?」

「質問多いよぉ〜」

「要は、すべてを吐けってことだ」

「要はわたしのことを知りたいですか?」

 俺は唖然した。でも間違ってはいないだろう。ひとまず俺は認めた。

「あーー?まあーーそうなるよな」

 そんな会話しやすくて、正直な子がいいなと誰もがそう思うだろうけど、俺の隣にいるもう一人の女はそう思ってないかもしれない。

 宙野はいつでも拳をこの娘のピチピチの顔に打ち込める構えをしている。

「思わせ振りなこと言うな!この小娘!冗談してねえから。洗いざらい吐け!」

 宙野が爆発する前に、俺は怒ったように声を上げる。

「わたし、本気で答えてますぅ!」

 その子は姿勢を整え、張り切って行くような勢いで、あたかも何もかも打ち明ける態勢のようだ。

「わたしは、人の記憶を操れるのです。ハーフコースは簡単に消すだけです。フルコースはね、当事者じゃなくて、その記憶に関わる全ての人の脳から、その一部の記憶を取り除きます」

「そんなバカな!どうやって?接触したのは当事者だけなのに、関係者全員の記憶をどう弄る?例えば俺が人を殺したってことをフルコースで消したいなら、死者の家族や友達、警察、発見者、裁判官、法医、みんながその殺人事件と犯人を忘れちゃうの?」

 そんな奇想天外な話を宙野はどうしても信じたくなかった。

 でも小娘は容赦なく宙野の懐疑を打ち破った。

「そうなりますね!」と彼女は自信満々に言った。

「それなら筋が通るね……あの子を覚えてる人間は誰もいないわけだ」

 宙野はその写真を見つめ、悲しげに、且つ冷静にその事実を受け止めた。

「結局ガキは何を頼んだの?教えろ、幼女」

「ヒカルですぅ」

「ヒカル、教えて」

「自分という人間の存在を消してくれってフルコースで頼まれました。手間掛かりましたよぉ」

 存在を消す……どんな被害を受けてそんな発想になるんだ。来栖に一々問い質したいところだ。それより今はまずこの正義の爆弾ーー宙野楓を和ませない限り、何も始まらない。

「納得したか。ガキは自分の意思で選んだ道だ。追究は野暮だぞ。過ぎたことは過ぎたにして、ガキのこれからが課題だろ?」

「珍しく良いこと言うね。君らしくない」

「何を言う。俺はいつだって慈悲深い人間だ」

 俺の口説きで彼女は了承したようだ。能力に頼らず、自分で成し遂げたのでちょっと達成感を感じる。

 時間稼ぎができ、あとは俺が対処すればオッケーだ。今はここを離れるのみ!しかしそんな時、また不穏を起こしたがる人が口を開く。

「スゴイですぅ!メモリー・ブレイカーさん!」

 いちいち感心するなよ。

「どこがすごいんだ?」

「お母さんとそっくりですから!わたしがメモリー・ブレイカーさんに好意を抱くのは、あなたがわたしのお母さんに似ているからですぅ!」

「お母さんだと!?」

 女に似てるってどういうことだ。俺は別に中性的な顔してないし、女と見なされる要素は毛頭ない。

「そうですぅ!知っての通り、わたしたち特別な能力を使う人は、必ず28歳に死にますから、実のお母さんはわたしが7歳だった時に死にましたけど、その後素敵な新たなお母さんに出会えました」

 …………。

 待てーー!

 彼女はなんかとんでもないことを口にした。

「待て待て待て!!おい。てめえ。今何っつった!?28歳に死ぬ?」

 さすがの宙野も冷静にいられずにいた。目を丸くしてヒカルを凝視している。そして回想している。

「知らなかったんですか?能力者の目覚めは12歳、そして18歳にピークに達します。最後に28歳に死を迎えるのが、サダメなんでしょう」

「おいおい……冗談だろ?必ず?」

「必ずですぅ」

 宙野の顔に動揺が見える。彼女の母が死んだ歳がその理論を裏付けたか。預言者の坊主の母もとっくに死んだ。千坂も孤児だった。そして俺の場合は?

 俺は必死に親父の事故の日を思い出そうとする。彼が18歳の時に俺は生まれた。そして事故に遭い、亡くなったのは俺が10だった時だから……。

「そんな……」

 何故今まで気付かなかっただろうか。そんなあからさまな共通点があったものを……。

 この世の全てに恐れない宙野は弱気を出した。彼女はそこまで死ぬのが怖いのか。俺としても衝撃的だけど、人より数倍享受したから、人より早く死ぬのも受け入れられる理でもある。

「お姉さんも能力使えるんですか?どんな能力?気になりますぅ。一気に二人に会えるなんて、嬉しいぃ!」

 宙野は嬉しくないはずだ。無論俺も。あと10年もないの日々しか生きれないっていうのは、まだ若い俺らにはあまりにも残酷だ。

「要は済んだ。帰ろー」

 宙野はまんまと運命を受け入れ、凹んでいた。言葉に気力が欠け、俺の返事も待たずに歩き出す。

 気持ちの整理が必要だな。アパートに帰るならまだしも、実家に帰って親孝行するのも悪くない選択肢だ。変なとこに行かなきゃどこも歓迎だ。

「宙野、気をつけて帰ってな。俺はまだ聞きたいことある。後で話し合おう」

 返事せず彼女が背中を見せてだんだん遠くなり、やがて見えなくなった時に、俺は来栖に電話をかける。繋がるのを待つ間、ついでにヒカルに警告しておく。

「ヒカルだよな。お前のその力は社会の常識、秩序を覆せる能力だ。特に権力を持つ人間に知られたが最後、利用されるに違いない。それでもなんでわざと身を晒して屋台なんかやってる?ここにいる理由、あとで全部教えてもらうからな」

 彼女は何か弁解しようとしてた。でも俺が電話を掛けるのを見ると、気の利いた彼女は軽く頷いただけだった。それからちんと座り、俺を注視する。

 終わりまで待つ、わたしは逃げたりしないよっていう表れのようだ。俺と違って、良い教育を受けただろう。

「来栖、こっちはオッケーだ。宙野はもうあそこに行かない。疎開も要らないはずだ。別の方法を考えろ。その前に、あのガキが受けた人体実験を詳しく説明してくれ……なんか、思ったより酷いやつのようだ」

 ヒカルを見張りながら、来栖と通話を始めた。全部まる聞こえだっていい。別に隠すことはない。むしろ情報を共有し合って、更に彼女を仲間入りできるなら、今度こそこの町で自由に生きていけそうだ。下手に悪事をしてもこの子で全員の記憶を捏造しちまえばいい。

 それにしても、この子そこまで驚くか?

 いきなり人体実験っていう危なっかしい言葉を聞いて、ヒカルはちょっと疑惑気味の顔は分からなくはないけど、彼女にしてはそんなに大層なことじゃないと思う。

 それでも彼女の表情は疑惑から怪訝に、そして口を開こうとする。

「あの……」

 人が電話するときに口を挟むくらいに驚いているのか?

 いや、違う。良く見ると、彼女は俺のことを見ていない。俺の後ろの方向だ。

 俺も彼女の視線を辿り、振り向く。

「人体実験ってなんだ?」

 何故……戻ってきた。

 汗ばんだ宙野楓は折り畳み傘を握り締め、気温に合わない冷たい目でこっちを睨んでいる。

 傘を届けに来た……のか。日差しに弱い俺だからから、自分より俺に譲ろうとしていた。

 わざわざ。

 そんな不機嫌で、落ち込んでいた彼女がそれを届けるためだけに……戻ってきた。

 なんとか説明しないと……!

「ごめん、宙野!聞いてくれ。隠すつもりはない。ただ、まず信憑性を確認してからお前に……」

 俺の弁解を聞かず、言い返したのは気力に欠けた言葉。

「あなたまで、私を騙すの?」

「違う!!」

 まだ弁明の言葉を探しているうちに、彼女は手を、俺に差し伸べた。

 その手が1ミリずつ近付くに連れて、全身の有りあらゆる細胞が抵抗しているように感じる。

 臓器という臓器が急な負荷できないプレッシャーでもかけられたように、息苦しくなり、冷え汗が顔面を覆う。そして血管に流れる血液も一斉に停止したように、次に到来する衝撃に備える。

 俺の本能が叫んでる。逃げろーーと。

 しかしそれと矛盾したもう一つの真逆な意志が存在する。

 逃げるなーー!と。

 向き合えーー!と。

 堪えろーー!と。

 やがて彼女の手が俺の右手に触れた瞬間、電気が走ったように一瞬の苦痛が襲い掛かり、それから数秒後、その手が完全に無感覚となって、スマホを持てずに力が抜けてしまった。

 気がつくとスマホがあっさり彼女に拾われ、俺の右手も色が変わり始めた。

 大袈裟じゃないけど、俺の右手は焦げ始めてるようだ。そう。火に焼かれた魚の皮のように、皮膚が機能を失い、筋肉を離れようとする。

 しかし、痛みは感じない。今はまだ。

 この手はまるでただの部品、あるいは装飾品だけで、もはや俺の一部ではなくなったみたいだ。こんな体験は初めてだ。

 そして体がようやく現状を理解したように、じわじわと痛みが襲って来る。

 徐々に湧き上がる痛感が意識を奪う前に、俺は大声で喚く。

「宙野!せめて来栖の話を聞いて」

 返されたのは彼女の白目だけ。さっきよりも冷たく、無慈悲だった。犯罪者を懲らしめる時にも、そんな目付きか。それは堪えられるもんじゃないぞ。

 俺への失望が顔に書いてある。その顔をもうちょっと見ることも許されず、彼女は去って行った。

 俺は情けなく地面で縮こませ、意識が遠ざかる。

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