第4話 嵐の前

 〇

「そろそろうちに行こうか」

 うち……

 なんて美しい言葉だ。

 その言葉を噛み締めて、俺は川辺で夜の美しさに酔いしれる。

 学生時代を振り返ると、うちに来いよって言われたことはたったの一度もなかった。俺に魅力がないとか、性格が歪んでいて友達作れないとか、そういう理由でもないと思う。

 ただ曳橋家の人間が怖い。人の心を操れるという噂があったから、誰もが近付こうとはしなかった。

 父が事故で亡くなって4年後、収入源を確保できず、貯金もギリギリの状態だった。長年うちに詐取され、ずっと恨みを持ってた人たちも遂に父の死に気付き、奮起してうちの屋敷を燃やし、母もその場で塵となった。

 その人たちを近海のサメのエサにすると、俺は故郷を出た。

 14歳だったな。

 全ては親父のせいだった。

 彼は強大な能力を持っていながらも、それをちっとも隠さず、欲望のままに使っていた。もし物欲を抑え、あちこち敵に回すことを辞めたら、どれだけ幸せな生活を送れるか。母も惨死せずに済む。

 彼は不思議な能力を持ってるも、それを無敵だと思い込み、傲慢になってた。もし少し身の程を知れたら、たったの一台の車で命を失うことなく、今や母と平和に暮らしているだろう。あんな綺麗で優しい母と一緒なら、どんな悩みも吹っ飛んで行くだろう。そして俺も、一人で故郷を出て、こうやって素性の知らないクラブの連中たちと地下で暮らすこともないだろう。

 でも彼がくれた教訓があってこそ、俺はこうして生きていられる。

 そして……。

「この曲、私の中学校の音楽教室をテーマにしたんだ。当時は確かマネージャーが、『あなたにとっては大切な思い出かもしれないけど、その歌詞だと伝わらない。他人の共感を呼べない。だから絶対売れない』って断言されたので、諦めちゃった。君なら共感できる?私がどれだけあの教室が懐かしむか。ね?聞いてる?」

 宙野は惜しみなくペラペラと昔話を語り、俺は彼の友達のように横で耳を傾けていた。

 アパートのリビングが狭いので、シングルソファーだけが置かれていた。客である俺がそこに座り、彼女の方は食卓とセットになってる木製の椅子に座っている。見れば硬そうな椅子で、長くは座れない感じがする。

 そこで彼女は膝を抱え、いわゆる体育座りっていう状態だ。まるで青春話を懇談するような普通の女の子のようだ。そんな青春っぽい姿、ここでしか見れないだろう。

 使わせてもらったイヤフォンはどうやら高級品なんだ。

 狭い家なのに、4面の壁は全部イヤフォンと楽器に占拠され、ざっと数えるとギターが三つ、バイオリンが一つ、サックスが一つ、そしてイヤフォンがなんと20個もあって、しかも色は全部ブラックだ。俺はマニアじゃないから、実際どこが違うか全く理解できない。でも一度使ってみたら、やはり俺の安物とは違いがあるんだと分かった。

「あ――うん。分かる。なんとなく」

「全然共感出来てないでしょう!」

 頬を膨らませ、宙野は拗ねてるように見える。

「それは……確かに他の曲と雰囲気が違う。らしくないっつうか、歌詞といいリズムといい、追い付けないな」

「ふん。まだ私の境地には至ってないか」

 勿体ぶって、自分の芸術が大衆に理解されないドヤ顔をする彼女だった。

「どこからの謎自信かよ。でもまあ、いろんな人に聞かせたら?今時はインターネットあるからさ。アップロードすればきっとお前を認める感想が見れるはずだぞ」

「いいよ。もう職業じゃないから」

「まあ、それがいい」

 俺が聞いてりゃ十分だ。ちなみに来栖君が宙野のファンってことは嘘じゃないんだ。かといってこのデモテープを彼に聞かせるつもりはない。

「ん?」

 彼女が疑惑の目で首をかしげると、俺は早速話を逸らす。

「いや。なんでもない。もっとこう一般人が理解できる曲ないかなって」

「音楽教室はもう十分庶民的なんでしょ――それすらわからないようじゃ……あ!一つだけあったかも」

 彼女がノートパソコンを操作して、ファイルを数十回もクリックして、ようやく保存位置に到達した。どうみてもそれを隠す気満々だったな。果たしてどんなものなのか。

 まもなくイヤフォンからメロディーが流れる。

 ……

 運命の景色シーンを満喫させられた

 汚れた瞳 枯れた体 どれもあなたのもの

 命はまた芽吹き 失ったものは取り戻せない

 ……

 好きな写真を一枚取って 

 去るときは 高く 羽ばたけ

 ……

 羽のように軽く、ピアノとバイオリンとドラム、そして彼女の声だけでできた優しい曲だった。バイオリンがこの曲の主役に違いない。時には強さを表現するように激しく。時には物語を語るようにゆったりとした。彼女の声がまだ幼い、歌唱のテクニックみたいなものも一切ないが、全力で歌う意気込みと溢れ出る感情が人を震撼させる。

 しかしこれは、聞き覚えある。とならば、未発表の曲じゃない。

「これって……」

「私が12歳の時に初めて書いた旋律なの。歌詞は14の時だったかな。曲のタイトルはね……」

「鈴音……だったっけ?」

 俺がそれを言い出すと、宙野は衝撃、怪訝、警戒などいろんな感情が混ざり合う複雑な顔になった。テーブルに寄り掛かってた彼女が椅子を俺の向こうに置き、そして謹んで腰を下ろす。

 容疑者を審問するような口調で問いかける。

「なぜ知ってるの?」

 なぜだろう。

 勿体ぶるのではなくって、本当に思い出せない。

 一つはっきりしているのは、俺は催眠を使ってそれを知ったことだ。でもいつ、どこでかは分からない。なにせよ、ほぼ毎日能力を使っていて便宜を図っているものだから。

「まあ――落ち着いて。え……ちょっと思い出させて……確か2、3年前。場所は……確か木本通りの……とある楽器店を通り過ぎた時に、ピアノで演奏された。ある女が……年は……40代くらいかな。俺は催眠でタイトルを知った。それだけだ!」

 我ながら、いい記憶力だった。健康な日々の賜物だな。もしここではっきり思い出せなかったら、俺はここで消されたかもしれない。

 あの時は個性的な歌詞だなって思ってたから、一応覚えといた。まさかここで役に立つとは。

 でもあの女って誰なのか?

 聞くまでもなく、彼女は答えてくれそうだ。

「私の継母……でしたね。どうしてよりによってこれを……」

 彼女は俯いて、悲しそうな顔だった。

 調査したところ、彼女が8歳の時に継母が家に来て、最初は音楽好きの共通点があって仲が良かったのに、あることを境に会話しなくなった。と知ってるのはここまでだ。

「その曲がどうした?悪くない……と思うよ」

「鈴はお母さんの名前。私7歳の時になくなって……情けないけど、母さんはどんな人か、どんなものが好きか、殆ど知らなかったの。だから家の写真と資料頼りにこの曲を作った。おそらくお母さんがこんな人だろうかなって……妄想と憧れを込めてでっち上げた。偽物だったよ」

 どう言葉を返せたらいいか。

 俺も両親を失ったが、彼女のように思い出を書き残すようなロマンチックなやり方ができなければ、写真も持っていなかった。二人ともむごい死に方で、家も燃やし尽くされたので、残せるものは何もなかった。今になって、二人がどんな顔をしてるかも忘れかけている。

 彼女のその母への強い愛は、俺には共感できずにいた。

 とにかく泣けば、思いを涙に流せば、少しは楽になれるじゃないかな。

 俺は口を噤み、彼女の感情の波動を見守っていた。

 ……

 でも彼女が今悲しんでいる理由は、母のことだけじゃない……。それだけがわかっている。

「彼女がそれを演奏したのは、きっとあんたの母さんのことを偲んでいたわけじゃない。あんたのことを思ってただろうな」

 そして彼女の質問に戻ると、どうしてよりによってその曲を選んだか。その理由も見えてきた。

「歌詞は、継母に手伝ってもらったんだ。私はとにかく想像の中のお母さんを形容して……お母さんは強いだの、お母さんは綺麗だの、お母さんは人を守っただの……彼女は横で微笑んで聞いて、白紙に歌詞を綴る。よくもあんな低レベルのワードでこんな歌詞ができたものね」

 と言いながら、彼女が笑みをこぼす。

 勝手に悲しんだり笑ったり、全く……少女かよ。

 揺れ動いた彼女という湖の水面が、ようやく落ち着きを取り戻したとき、ふと何かに気付いたようで急に鋭い目で俺を注視する。

 自然に目をそらすと、彼女が当たり前のように言った。命令した。

「次は君だ!家族のことも過去のことも、洗いさらい言いなさい」

 彼女の弱みを拝見したのが原因かもしれない。公平のために、俺も言わなきゃならないってことか……。

「俺にはそんな語れるくらいの経歴なかったんだよな。前にも言ったけど、力に目覚める前に俺は親父たちに保護されていた。12歳まではプライベートの時間がなくて、友達も当然いなかった。その後はな……部活に入らず、友達作らず、普通そういう人間が図書館にこもって大量の本を読んで賢い人になるってパターンよくあるよな。それすらなかった。俺は本が大嫌いなんだから。唯一趣味と言えるのは、音楽を聴くことだな。どんな楽器を使ったか、それぞれどんなポジションか考えたことある。かといって自分で楽器を練習するのは面倒だ。この力がなけりゃ、足元に転がってる小石より地味で、誰よりも平凡なはずだ。お前みたいなアイドルと対面で会話することもないだろうな」

「そうとは限らないよ。もしかして気が向いて楽器を弾いてみたらすごい演奏者か作曲家になったとか。いずれどこかで出会うかもしれない」

「出会わないだろう。だってお前はもう音楽をあきらめたから」

「そうだね。ほかの可能性を探るしかないね」

「ほかの可能性……か。一人が誰かと出会うには順番が決められている。俺はずっとそう思っている。それはまるで一種の運命みたいなものだった。お前があの刑事と出会って、あの警察隊に入ってなかったら、今はこんなことやってるわけないよな。千坂と知り合うこともないはずだ。もし彼らの前に先に会ったのは俺だったら、俺はあんたの目の敵としてじゃなく、同じ能力同士としてあんたに教えるはずだ。誕生日ライブを諦めろってな。順番が違うから人生も変わった。そう思わないか」

「そうね。能力者が18歳の誕生日の日に、すべての能力に目覚める。その時は一時制御できなくなる。それを事前に知れたらな……でもそれが運命ならしょうがないわね……」

 彼女が苦笑いを浮かべる。後悔はしていないようだ。

 それだけその経験が彼女にとって大事だった。

 それもそうだ。彼女の歪んだ正義感はあの刑事から受け継いだものだった。でも滑稽なことに、それを受け継いだ後、あの刑事が逆に自分の正義感を一夜にして全部失ったように、軟弱に、自暴自棄になった。それとも重荷を下ろせて楽になったからか?

 いずれにせよ、彼女の正義は身勝手で、歪んでる。それだけは覚えておかないと、痛い目に合う。

「ちょっと眠くなってきた」

 考え過ぎたせいか、目を開くのに精一杯だ。

「あ、もう6時か。マルたちそろそろ来るよね。君は寝てて、私の部屋使っていいから」

 いいの!?

 母さん以外の女性のベッドで寝たことない。これは無事眠れるか。

 それにしてももう6時か。さすがに夜更かし過ぎだ。彼女が目覚めたのは昨晩の11時頃だったから、もう7時間連続、脳を使ってた。俺としてはまだ生きていること自体が不思議だ。普段は2時間ごとに30分くらい寝ないといけないのに、今日は破天荒だった。

「じゃあ……使わせてもらおう。二人何か食うなら、ついでに俺の朝食用意してくれればね。ちょっと腹減ったな」

「あら、もう寝言始まったの?」

 宙野は洗面台の方に行き、歯磨きの声がちょいと聞こえてくる。そうだね、客が来るからね。

 でも5時半だって言ったよね……なんで遅れてるのかよ。あいつらしくないな。ああ、まあ、どうでもいい……頭がクラクラして、最後の余力で宙野の部屋に這い寄り、彼女のベッドを享受しようとすると、空気を読めない携帯電話が雷のように俺の精神を打撃する。この着信音がこんなにもうるさいかって初めて思った。

 電話に出る余力はなく、代わりに出たのは宙野だった。

 彼女は何を言ったか、微かにしか聞こえない。頭が朦朧として、やがて眠りに落ちた。

 眠りに落ちる前に最後に考えたことは、この家にはなんと、エアコンがないのだ。最初はリビングで話していた時に気づいたけど、まさか寝室にもエアコンがないなんて。今の天気はまだいいだけど、真夏になったらどう寝るか想像すらできない。彼女は暑さを感じられないほどの冷血な女なのかな……。


 〇

 目覚めた時には既に昼過ぎ、暑そうな日差しが窓越しに淋しいリビングに差し込み、俺は怪訝しながら焦り始めた。

 怪訝なのは、もう8年ぶりに、2時間以上の連続睡眠時間を取ることができたこと。

 焦ってるのは――彼女が消えたことだ。



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