第3話 夜行

 〇

 車爆発の危険を冒してタクシーで彼女を近くの病院に運んだ。

 信頼している病院だが、このまま放置してはいけない。どんな狂熱なファンに狙われるか分からないから。

 止むを得ず、俺が世話を見てやった。

 特に損はない。

 どうせ今帰っても眠れないし、ここで清らかな消毒水の匂いを嗅ぎながら、病院の静寂を享受するのもまた一興だ。俺の中で、一番住みたい場所ランキングでは、病院はかなり高い順位だ。

 本をめくったり、仮眠を取ったり、椅子が一本あれば1日だってあっという間に過ぎてしまう。

 そして本当にまる1日が過ぎった。

 事前準備がなかったので、病院の雑誌を読むばかりでいた。

 雑誌が一番質の低い書物だと俺はずっと思ってた。雑だからな。

 特に週刊誌の場合、編集者は無理矢理発売日に間に合わせるために、きっと適当な内容しか用意していない。どっから似たような文章をこっちに引っ張ったり、簡単に直して当て嵌めたりして、今週の任務を完成させる。でも偏見を一旦棚に上げて、実際に読んでみると、やはり取り柄はある。プロはやはりプロだなと俺は感心する。

 特にこの病気に関する記事だ。

「なるほど、つ―ま―り―。あの動物は線虫に寄生されたから川に向かった……興味深い。もし人間が乗っ取られたらどうなるか?恐ろしい、恐ろしい……」

 いつのまにか夜が訪れる。それでも病人に気を遣って灯りを付けないことにした。ずっと暗いところに住んでいたせいか、夜間視力は数少ない取り柄の一つである。微かな月光に縋って、俺は読み続ける。目には悪いが、まあいいや。

「面白かったか?」

 突然に、俺の独り言が遮られ、薄暗くて広い部屋に宙野の声が漂う。

「いや、別に」

 俺が起こしたか。それはごめんだ。何かを読むとつい声に出してしまう俺だから。

「久々に良い感じだったよ。赤ちゃんの頃、母が横で童話を読んでくれたような感覚を思い出した。でも寄生虫の話は今度止しておこう」

「今度はないぞ。そうだ。おてんば嬢は問答無用で仕事に行ったぞ。薄情だろ。もうそろそろあいつとは絶縁だな」

「なんでいつも私たちを仲違いさせたいの?」

「人の仲良しを見るとイライラするから」

「そこは素直だね」

「どこも素直だ!で、お前どうする。ヤツの仕事が終わるまで待つか」

「君が来る前にもうだいぶ話を聞いたから大丈夫。ここからは自分で調査する」

「じゃなんでわざわざ俺を呼んだか」

「看病人が必要かもって予想した」

「俺最初から看病人か!」

「怒った?」

「いや。ただ他に呼べるやついないかって疑問がある」

 俺は雑誌を本棚に戻してから、テーブルに用意してあるステンレスボトルから温かいミルクを紙コップに注ぎ込んで彼女に渡した。

 彼女が喜んでそれを受け取り、飲み終わるなり、淡々と語る。

「いないよ」

 いや。絶対いる。彼女が助けてきた人、音楽界の同好、共に正義を執行していた同志、その範囲に限っても、親友と呼べるやつはいくらでもいる。

 とはいえどう言った人間を親友と呼べるか。俺の基準も、お前の基準も、勿論彼女の基準も違って来る。それを決めるのは本人だけだ。他人である俺に口出す資格はない。だから俺は納得するしかない。

「そりゃあ残念だな」

 彼女の手から空き紙コップを引き出して、ゴミ箱に投げ込む。

 そしたら彼女は起床を試みる。枕あたりを手探りしつつ、俺に聞く。

「私の服は?」

「俺に聞く?知らないぞ!触ったことない!」

 あくまで紛れもない事実を述べる俺だが、何故か余計怪しく見えた。

「触ったかどうかは聞いてない。何処だって聞いてる」

「看護師が着替えさせてやったんだ。この部屋の何処かだ。ベッドにないなら多分トイレだろ。自分で探せよ」

「わかった」

 病院に似合う真っ白なスリッパをはき、彼女はトイレに入る。それから何世紀が過ぎたか、トイレで仮眠する習慣があるかって疑ってしまうぐらいに彼女はそこに留まっていた。

 門番ではないはずの俺がどうやってその長い待ち時間を凌いだかはまた難問であった。

 ついにドアが開けられ、風呂上がりの彼女が水蒸気と共にやってきた。その瞬間、消毒剤に勝る香りが洪水のように噴出し、この部屋に、ついでに俺の鼻腔に充満する。

 逃げ場のないほど鼻につく猛烈な香りなのに気持ち悪い感じはしない。彼女が近付けば近づくほど、香りはかえって柔らかくなってきて、やがて絶妙なバランスとなり、俺の鼻を擽ってから優しく撫でるようだった。

 その独特な香水の使い方もまた彼女のアイドル時代の賜物だろう。全く鮮やかで危険な花だな。

 それにしても何で病院に香水が!?

 よく見たら彼女は服も変えて、OL風のシャツブラウスとスラックスをやめて、水色のドレスに裸足に着替えた。

 夏とは言え、その格好は破廉恥すぎだ(個人的意見)。

 なるほど。ナースがあんなにナチュラルに彼女をこっちに運んで、着替えさせたわけがわかった。ここがいわば彼女の個室みたいなところか。この病院にはよく来ている。だから着替えの服も香水も用意されてる。

 無論、その分の金は彼女の政府要員の父が払っている筈だ。

「そんな盛装で何処行くつもりだ?それに、あれ、バレてるよ」

 俺が言っているのは、彼女の首と鎖骨だった。

 数年前のある事件で、彼女は襲撃され、そのあたりにひどい傷跡が残された。それを見るたびに、心を引き裂かれるように痛む。俺が美しい芸術品に一切の傷を許さない主義とは真逆で、美しいものを破壊したがる歪んだ犯人だった。

「あ……いいか。夜だし」

「そう。じゃ看病も終わったとこだし。俺そろそろ行くか」

「うん。今日はありがと。金は後で振り込むね。え……三日後でも大丈夫かな?最近はちょっとピンチ」

「ピンチ?お前が?だったらいいや。そんな小銭貰ったって役に立たない。今朝のケーキで帳消しだ」

「その余裕がうらやましいよ。でも、自分の労働で稼いだ金じゃないよね」

「そういうお前は労働で稼いだか?」

 当たり前だって言うような顔で、彼女はスマホのフリマアプリの取引記録を見せた。

「昔の後輩からのサイン付きのプレゼントを、いろいろ転売してるの。あの時売れなかった子は今や大人気だから、驚くほどの値段だよ」

「ひどい話だ。人の気持ちを転売する?」

「それが私の生活費になって、生きて行く食料になる。むしろ現実的な価値を感じさせた。それに過ぎた気持ちなんて一文に値しないよ」

 なんて痛々しい名言だ。

 でもやはり残酷な女だ。極悪卑劣な俺でも、友達のプレゼントを捨てる時にはきっと惜しくて仕方がない気持ちになるだろう。しかし残念なことに、友達もプレゼントも持ってないので、検証は出来ないな。

「そんなことしなくても金がもらえるのに。いや、むしろ余計なことしなければそんなに金かからないぞ。まあ。言うだけ無駄だな」

「そう。無駄。君が虚しさ故に人を拐ってそばに置くように、私も虚しさ故に人を助けることを辞められない」

「……」

「……」

 長い沈黙の末、俺から発話する。

「そう言えばあの占い師、午後にしか屋台をやらないそうだ。今行っても無駄足だぞ。今日のとこはここで休んだらどうだ?」

「情報ありがと。じゃあ今日はやめとく。明日訪ねるわ」

 とは言っても、彼女は止めそうにない。速やかに髪の毛を括り、布団の整理を始める。彼女の一挙一動がてきばきしていて、それは家事に慣れてる手捌きだ。

 月光が優しく降り注ぎ、彼女の顔から憂いや慈愛が見える。

 それはペットの給食を急ぐ人間の顔だ。

 そんな顔すら見抜ける俺だが、見えない部分も多い。彼女の隠し事も、体の状況も、昔のコンビが解散となった原因も、何一つ分からない。そんなことを聞く権利、俺にはない。彼女は他人のために助けを呼ぶけれど、自分のことを一度だって考えたことはない。例えば来年は大学四年生になるのに、進路のことについて何も考えていないようだ。

 人助けだけで生きていけるのか?

 いつの間にかそんな自暴自棄な彼女になったのか。

 もしかすると、それが彼女の旧友がだんだん離れて行った原因か?

「大人しく帰るつもりはないなお前」

「まだ用があるから」

「まさか今からガキの様子を見に行くか?もう深夜じゃねえか」

「大丈夫。もう体力全快です。この調子じゃ、山だって飛び越えられそう」

「そう信じたい。が、病み上がりの時はかえって危険だ。距離は?」

「ここからは……5キロくらいかな」

 5キロ。歩きで1時間ってとこか。何故歩きかというと、それも訳ありだ。彼女は車との仲が悪い。と言うより、ガソリンや電気全体との相性が悪いのだ。呑気に車にでも乗ったら、待ち受けるのはいつ起こるか分からない爆発かもしれない。

 ちなみに今朝のタクシーは仕方がなかった。まさかおんぶで彼女を病院に運ぶわけにはいかないよな。あの時タクシーが爆発するとしたら、運の悪さとしか言いようがない。

 まあ。そんなわけで、遠出どころか、この街を出ることすら難しい。いつか他のエネルギー、例えば風で駆動する交通機関が発明されたら、彼女も旅に出られるだろう。

 しかしいつも歩いているとはいえ、彼女の足の筋肉はどこ行っただろう。脛は必ず太るって聞いているけど、彼女の足はあまりにも潔白で均整で、人造物のレベルに至ると言っても過言ではない。それにしてもなぜ彼女は上半身が太ったのに、下半身は昔のままなのかな。

 宙野の裸足を観察する最中なのに、彼女が急に発話した。しかも何の根拠のないわけ分からないデタラメだ。

「心配なら一緒に行く?」

 デタラメに刺激され、俺は不思議でしょうがない顔になってる。何故さりげなくそんな無根拠のことが言えるんだ!?

「心配なんかしてねえよ!お前が路上で倒れて、瀕死になっても俺は救急車呼ばないぞ」

「へえ――じゃあなんで私はここにいるだろう」

「千坂が金を払ったからだ。と―に―か―くだ。お前一人で行くのか?行けるのか?」

「え――と。それなら、行けそうにないね」

 それならってなんだ。ツンデレか?もうそんな歳じゃないだろう?

 宙野を思いっきり鼻で笑ってから、できるだけ善意を絞り出してやむを得ずにアドバイスする。

「じゃあ送ってやろう」

 全くお人好しにも程がある。こんなに善良な俺は、いつか恵まれるだろう。

「お金は払わないよ」

「それはもちろん払ってもらう。千坂にな」


 〇

 時間は既に25時、もうすぐガキのところに着くと聞く。でもこの辺は一望して冷えた夜風に吹かれる河川敷しかないので、ちょっと不吉な予感がする。

 俺は彼女の後をつけ、慎重に前進する。

 それにしても、こんな真夜中なのに、男女二人で街を歩くとは、いかにも危険な遊びのようだった。

 寒さは人の気持ちを凍らせる。少々暖かさを取り戻すため、俺が先に口を開く。

「そう言えばさっきお前が爆睡してた間、千坂から電話があった。明日5時半にお前のアパートに行くって。マルは今朝お前に会えなかったからすごく凹んだってな。は!?何が会えなかった、だよ。しかと目玉に映ったじゃないか」

「『彼女たち』は違うからね。でも本当に……私たちは似てるけど同じじゃない。それぞれの悩みを抱えているね」

 最もな言葉だが、彼女がこの俺に言うような事じゃない。

「なんだ。弱音を吐くか?俺の前で?ちなみに俺は悩みないぜ。眠くてしょうがないけど、手に入れた力と比べると、やはり親父に感謝だな。感謝しきれない」

「私もお母さんに感謝してる。トギたちもきっとそうだ。でもね。やっぱり時々思う。何処へ行くべきかって。持っている以上、使うべきか?それともそれを隠したまま今までの日常をキープするか?やればやるほど、私一人じゃ気紛れな正義しか執行できないってことに気がつく。本当に世界を改造しようとしたら、別の道を行かなきゃならない。でも無闇に突っ込むと、生涯を尽かしても時間が足りない気もする」

 彼女はそんなことまで考えていたのか……正直心外だった。進路が決まっていないのも、そんな大それたことを考えているせいだな。でも政治家になる彼女はちょっと嫌だな。

「お前色々考えてるな。中卒の俺の意見は、均衡を保つことだ。でも標的は他の能力者だけ。互いに牽制しながらやって行く。だから5年前に俺はやって来た。あえてこの奇妙な街に。似た物同士が必ずいるって思って来たけど、やはりあたりだった」

「そういうことだったの?あ――、思い出した。確かに最初に出逢ったのは、私のライブだったね。写真をめちゃくちゃ撮られた覚えがある。警備員に警告までされちゃったね」

「情報収集だ!それが大いに役に立った。催眠をかけてみたら、まさか俺の脳波を無視したとは。初めてだ。お陰で俺は自分が無敵じゃないってことに初めて気づいた。それから用心深く生きることを始めた」

 改めて言う。情報収集だ。決して。決して!好きで撮ってた訳じゃない。

「え?その時私を催眠しようとしてたの!?」

 あら。やっとお気付きか。

「だから失敗したって言ってんだろう。損はなかっただろう?」

「動機の問題!私を催眠して何がしたかった?」

「どうでもいいことだ」

 このことについて回避したい。アイドルを催眠して何がしたいかって聞かれたら、正当且つ合理的な答えを出せる俺ではない。大学どころか、高校にもロクに行かなかったからだ。

 でも優しい宙野は問い詰めをやめた。彼女なりに答えを思い付いただろう。その答えは何なのか分からないが、断固として認めない。全力で否定する。

「でも敵じゃなくて良かったね。こうして協力し合って……実際は、助けてもらってる一方。私に助けを呼ぶことは一度も無かったよね」

「当たり前だ。俺の能力はほぼ万能だから」

「何かお礼がしたい」

「いらない。この貧乏人め。強いて言うなら俺の国への急襲は止せ。来る前に鳩で手紙くらい送ってもらいたい」

「急な状況だから、急に訪ねたよ。こっちだってそんな陰気くさい場所行きたくない」

「言ったな!俺らの王国、俺らの居場所を貶めたな!」

「何が――俺らだよ!全国最大の生物科学会社の令息をさらって何が面白いの?逆に来栖君たちは一体何を考えているの?」

「言ったろ。研究。ボードゲームは奥が深い」

「胡散臭い」

 宙野の勘は図星だ。でも残念、大家の俺でも彼らの本当の目的を知らない。知る気もない。俺にとって、彼らは一時的な賃借人だ。深入りしないのは俺が払ったせめての尊重である。

 でも確かに妙だ。来栖君が家出する必要は全くないと世間の誰もがそう思うだろう。

 彼は世界最先端の生物企業の継承人、医学の可能性をさらに開拓する先駆者、遺伝子組み合わせパスワードという新たな暗号化方式を作り上げたIT界の奇才。そんな者が今、地下室でボードゲームを「研究」している。

 見るに、もう反抗期の年じゃなく、家族と喧嘩した気配もない。家業を継ぎたくないとかの贅沢な発想にも見えない。ただボードゲームに没頭して、何かを探し求めている。精神的病いかな?そのことにおいて一番奇妙なことは、彼と一緒にそう「時間を無駄にする」同志がいることだ。まるで、カルトに魅せられているようだ。

 とはいえ、宙野が人のこと言えるか?彼女も家族を離れて一人で暮らしている最中だ。

 彼女の父は政府の要職に就き、継母は彼女と何らかの蟠りがあり、家の空気を思うと息苦しい限りだという。

 そうでなければ、財布がピンチだったら、家に戻れば済む話である。

「本当にお礼はいらないの?次はないよ」

「何でも満足してくれるか?」

 言っておくが、才色兼備の元アイドル相手でも、汚らわしいことは考えていないよ。

「そうとは限らない。言ってみないと決められない」

「じゃあ一発大きいのやろう。再デビューなんか、考えたことは?今はもう大丈夫だろう?金も稼げるし。卒業の進路に悩む必要もなくなる」

「……」

「無理か……」

「無理……ね。気持ちの問題じゃない。体の問題だ」

「それは分かってる。お前の能力の副作用だな」

「うん。でも意外ね。そんなに私の歌声が好きなんだ。アルバムまで買って」

「あーーあれは実は来栖君の私物だ」

「ふ〜ん。まだ未発表のデモが数曲あったけどね。ホコリ積もってて、そろそろ処分するか転売するかなぁーー」

「勿体ないことを。来栖君のために後でもらいに行こう」

「ふ〜ん。そう。じゃ洸太の安全確認が済んだらうちに来てよ」

 あ…………。

 うち……ウチ……討ち……撃ち……打ち……内……家……彼女の実家のことか、それともアパートか。どっちにせよ、未発見の領域だ。催眠を使ってこの世の全ての場所を出入りできる俺でも、彼女の閨房に入ることだけが不可能だ。

 しかしその主が俺を誘った。言い換えれば、ある意味、実質、世界制覇じゃないか!?

 そう考えてみると、生きている実感が湧いてくる。これは暫く眠れなくなるだろ。エンジンがかけられて、今にも飛び出す俺だった。

 いやでもその前にガキの安否か。

「安全確認ってなんだ?ガキを危険な場所に置いたか」

「洸太君は……言葉喋れないでしょう。その原因の一つは多分、彼はずっと犬と生活しているから……」

「は?い、ぬ?」

「あの橋の下」

 宙野が指差すのは川を渡る高さ20メートルくらいの大橋。その下に広い空間があるけど、風が物凄く強いため、住むなんては絶対ないだろう。

 眼を大きく見開いて、真っ暗な空間で生き物の痕跡を探し求める。ここは寒いだけじゃなく、川辺だから、湿気も防げない。正気なホームレスでも野良犬でも絶対に選ばない場所だ。

 まさか、逆に誰も来ないからここを選んだか?

「柱と柱の狭間に、小屋がある。コンクリート製だから、結構丈夫。でも夜は寒くなるでしょうね」

 宙野は近付きながら、スマホのフラッシュライト機能をオンにする。照らされて現れたのは、確かにコンクリートの小屋があった。しかし高さはたった1.5メートルで、広さは2畳ぐらいだった。昔の作業員が建てた物置き場にしか見えない。

「洸太君――姉ちゃん来たよ〜。あとワンチャンも。ご飯は食べたか?」

 彼女は積極的に優しい言葉を掛け続けるも、洸太っていう子供はただデカい犬と抱き合って、互いの体を温めるように見える。こっちの到来に警戒そうな目付きを一瞬で見せたが、宙野だと気付いた途端また気が緩んだ。

「食べてないね。これ、ハンバーガー。どう?ワンチャンは肉だよ。さあ、暖かいうちに」

 道がてらコンビニに寄って適当に買った安い肉だが、洸太や犬には至福の極みかも知れない。

 匂いに反応したように、二人は猛然と体を起こし、眼を光らせ、コンクリートを潜り出た。それから彼女の手に持つ肉に目を付け、首を伸ばして仰ぎ見る。如何にも給食待ちのペットたちだった。

 宙野はゆっくりと食物を買い物用のビニール袋の上に置いてから、一歩下がった。この女、犬が苦手かと思いきや、二人の反応が俺をも驚かせた。それで彼女の行動も少し理解した。

 野生動物のように急に突っ走り、彼女の用意した餌に襲い掛かる。二人が巻き起こした砂や埃が食物に入り混じってるにも関わらず、素手で肉を食い始める。その上、食べっぷりはあまりにも乱暴で、爪(手)で必要以上に肉をめちゃくちゃに引き裂き、ちゃんと咀嚼もせずに胃袋に送る。鶏肉とかハンバーガーとか関係なく、食べられるものは漏れなくぎっちり口の中に運ぶ。

 間違いない。野生動物だ。

「そりゃあ、喋れないわけだ」

 俺はようやく状況を理解した。

 つまりオオカミ少年ってことだな。

 見た目から12歳ぐらいの洸太という子供は、ロクな服は着ず、パジャマのような布に身体を包まれる。その布にはいろんな色がついていて、泥水の色がベースで、ケチャップの赤、砂の黄、葉っぱの緑が飾っている。

 風が吹くと、その布も風のまにまに漂い、彼の栄養不良みたいな細い体つきを見せる。ちょっと強めの風であれば、彼を川に吹き込むのが容易いと思えるくらいに、危なっかしい身体だ。そして元気のない顔は真っ青。唇は亀裂して真っ白。

「可哀想でしょう。助けたくなったか」

「どうだろうな。確かに今は悲惨だ。でもそれを一種の自由と捉えられないか。トギが言ってた俺と同じ能力を持つ人間が本当にいるとしたら、かけられた催眠は『過去の悲しみを忘れろ』とかであれば、それもまた救いじゃねえか」

「あの屋台に行けば分かる。もし本当に本人の意思でそうなったなら、私は……諦める」

 宙野は珍しく俺と同意見だ。昔の彼女だったら、「そんなの現実逃避だ。真実じゃない!」とかを言って憚らないだろうが、今になって少しは融通が効き、逃避の重要性も理解してくれたな。

「そうだ。俺の目を見てみろ。何色だ?」

 俺の質問を聞くと、彼女もふと気付き、スマホのフラッシュライトを俺の目に向けた。速やか過ぎて、心の準備もさせず、光を直接俺の眼球にぶつける。そんな理不尽で乱暴なことをされたのは、去年歯医者にあって以来だった。その光がまた歯医者の恐怖を思い出させて、俺の可哀想な虫歯はもう居なくなったのに、彼らの悲鳴がまた口腔で響き始めるようだった。

 反射的に頬を擦る俺が強い光に直面するも目を必死に開く。

「早く見ろ!!」

 呑気な宙野を見ると腹が立つ。つい吠えてしまって促した。それが貪るように晩餐を食べている二人を驚かせて、動きが一瞬止まった。頭を上げ、茫然として俺の光っている頭に注視して、ちょっと可愛く見えた。

 彼らと比べたら、宙野はまさに野蛮の代名詞だ。でも荒々しい真似より、もっと人を傷つけるのは言葉である。

「べつに何もないよ。いつもの泥の色ね」

 気遣いなく宙野は言い放つ。

「茶色という言い方を知らないか、バカめ!」

 彼女は俺と同じようにちゃんと教育を受けなかったことを改めて思い知った。

 でもお陰で分かったこともある。俺は犯人じゃないことを。

 催眠を受けた人間が俺と目が合うと、俺の目の色は赤色に変わる。それは変えられないルールだ。彼女もそれを十分知っているはずだ。

「なるほど。無実ですね」

「そう言っているから。動機がないって話だ」

「まさか本当に新しい能力者がいたの?今までどうやって隠し切れたか」

「さあな。新参者かもしれない。ほら最近、ベルショックやらを聞きにいろんなよそ者が来たじゃないか。もしかすると……すでに俺らの存在に気付いたかも。姿を現したのは、何かの企みがあるじゃないかな。そう思わないか?」

「そうね。わざと私たちの注意を引くような……」

「だろう?このガキはいつ現れた?」

 本当は盗聴器の有無を確認したいところだが、狂犬のような二人に触れるのは御免だ。

「三日前、ここにホームレスがいるかどうかを確かめに来た時に犬のすすり泣き声が聞こえて、辿ってきたの」

「ホームレス探しってどういう趣味だ……で、なんでガキを置きっぱなし?ホテルに隠さないのか?」

「それは……金の問題もあって……でも何よりこの子達はまだ気を許していないよ。へたに触ると噛まれたり怒られたりする。もうちょっと懐いてから手配するつもりです」

「そうか。でも金ね――。それが宙野楓を困らせるような問題であるべきじゃない。安定な収入源確保した方がいいじゃない。簡単だろ?」

「簡単ではない。合法的で合理的な手段はあまりないから。時々バーでの演出を頼まれたのがあった。全部断ったけど……」

「っは!バーで!?そりゃ、如何にも売れない歌手のようだな!」

 白目で見られても俺は笑いを止めない。まさか過去最強のアイドル女王が今やこんな惨状とは。嘆かわしい限りだ。

「だからやりたくないの」

「そこは理解した。じゃあれは?昔みたいに指名手配の奴ら捕まえて、賞金稼ぎとか」

「そっちも辞めた。もう正義の味方ではない。今は1人でも多く助けたいだけ」

 正義感を持て余し方を変えたってわけか。

 ちょっと不思議な余談だけど、宙野はかつて、秘密とされた警察隊に編入されたことがある。それは彼女がメイクさんの雫ちゃんと悪者を処刑するより前のことだった。まだ15歳の頃だったかな。

 その秘密のチームは歳を問わず、ただ有能者を集わせ、主に怪奇事件と少年犯罪の解決を任されていた。

 とはいえ、メンバーはたったの3人だった。当時そのチームは中心である翔という17歳の少年と、15歳の宙野、そして1人の本物の刑事が隊長として2人を指導していた。

 彼女は能力を用いて、偵察や逮捕の役割を担いだ。ほかには歌を歌ったり、メンバーの士気を上げるぐらいだっただろう。まあ、詳細は俺には分かるはずがない。秘密警察だから。

 でもそこそこ実績を出してたのに、そのチームが何故か解散の羽目になった。

 聞いた話だと、翔が隣町の大学に行くからだ。それだけの理由で解散した。それはそうだ。頭脳がないと、そのチームは長くやってられない。

 刑事の方は転任させられ、元のポジションに戻った。

 そして宙野が彼らの意志を継ぎ、アイドルをやりながら独自で犯罪者を裁き始めた。

 そういう経緯があったから、宙野はそこまで正義心を持ち、人を助けたがる性格になった。けれども、そんな彼女が正義の味方を辞めたって言った。

「この子、どうしてこうなっちゃったんでしょう」

 宙野は俯いて、素手で犬と子供の頭を撫でるのを試みた。

 その汚さを厭わず、心底から感情を寄せる姿は、人格上では眩しく尊敬すべきで、私情では愛しく思う。

 上位の人間が下位の人間をいじめ、搾取し、あるいは踏み台にするのがよく見える光景だけど、こんな世の中、彼女のような人間もいる。

 彼女を讃えるつもりはない。でも認める。

「おやすみ」

 宙野は優しく囁いた。

 俺が考えてる途中で、いつしか2人は小屋に戻った。また抱き合いながら眠ようとしている。舐められたら舐め返すのが流儀らしく、互いに舌で清潔している。それが終わると、2人は子供らしく、眠りに落ちるのも早い。

 食物を食べて体も温まっただろうか、ガキと犬はさっきよりずっと良い顔している。

「ここにエアコンつけたら?」

「名案ですね。でも……いいよ。他に考えがあるの」

 どんな考えか分からないが、彼女がそういうならそれでいい。

「そろそろうちに行こうか」

 うちに行こうか……

 なんて美しい言葉だ。

 

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