第10話
後日別れた報告をまわりの友達や家族にすると、残念だという顔をされたが、皆私のした選択を責めることはせず、優しく声をかけてくれた。梓さんにも連絡をすると、別れたことに対しては何も触れず、「じゃあ、日曜日、あんたの家で」とだけメッセージが返ってきた。
約束通り、日曜日の夕方に梓さんは私の住むアパートにやってきた。
「お邪魔するわ。はい、これ」
梓さんはそう言って、手に持っていたコンビニのビニール袋を私の手に握らせる。中にはレモンサワーが2缶とおつまみが入っていた。
「でも梓さん、明日仕事じゃないんですか?」
「レモンサワーくらいじゃ酔わないから、大丈夫。夜になったらすぐ帰るから」
おつまみをテーブルの上に広げ缶を開けると、なぜだか梓さんと初めて会った夜のことを思い出した。私とは何の共通点も持たない彼女にこんなに心を許せてしまう、とても不思議なことだ。
「まずは、とりあえずお疲れ様」
梓さんは変に私を心配し過ぎることなく、それだけ言って乾杯をした。彼女とは数回しか会っていないが、常に冷静で、熱く語ったり感情を大げさに表現したりするタイプではないことはなんとなく分かる。わざわざ他人に同情されるのは疲れてしまうので、これくらいの対応が自分にとってはありがたい。友達のことは好きだけれど、友達だからという理由で行き過ぎた保護をされるのは好きではない。
「梓さん、私少しは大人になれたんでしょうか」
炭酸が口の中で弾けるのを感じながら、私は言った。すると、彼女は一瞬曇った表情になったが、真っすぐこちらを見つめてきた。
「知らないわよ、何が大人かなんて。でもね、全てを受け入れるのが大人だとは限らないわ」
彼女はいつもと変わらず落ち着いた声で続ける。
「よく、大人になることを我慢することだと勘違いしている人がいるわ。確かにね、我慢しなきゃならないことも多いの。会いたくない人に会ったり、やりたくない仕事もやったり、そういうことだってもちろんあるのよ。だけど…」
そこで彼女は深く息を吐いて、言った。
「そんな毎日の中でも、自分の幸せは自分で守らなきゃいけないの。埋もれる前にちゃんと見つけ出してあげなきゃいけない。あなたには、我慢するだけの大人になってほしくないわ」
そう話す梓さんの目が少し潤んでいるように見えたのは、きっと見間違いではないだろう。彼女の言い方から、過去に彼女が何か辛い経験をしてきたことがぼんやりと見えてくる気がした。その内容を具体的には掴むことはできないが、彼女の言葉には経験者としての説得力があるように感じた。
私は彼との付き合いの中でたくさんの我慢を経験してきた。それが必要だと考えていたから。でももう今の私には分かる。他人を優先してばかりでは、人は生きていけないということ。しかし、これからどう前を向いていけばいいのかは、まだはっきりとは分からないままだった。
それに、私にはずっと梓さんに聞きたかったことがあった。
「あの、初めて居酒屋で会った時、なんで私に声をかけたんですか?」
居酒屋に行かなければ一生知り合うこともなかったような私に、なぜ。初めて会った時からなんとなく彼女を信用し頼りにしてきたが、彼女は私をどんな存在だと認識しているのだろうか。
私がそう尋ねると、
「あんたの表情が、昔のあたしに似てたのよ。だからかな、まあ特に深い理由なんてないわ」
梓さんはそう答えながら軽やかに笑った。昔の、梓さん。私の知らない人。彼女の過去。私が理解に苦しんでいると、梓さんはそれを察したように続けた。
「昔のあたしもね、自分の選択に自信がなかったの。家族も友達も恋人も信用できなかった時期があってね、中がいいのはフリだけで、みんなどこかであたしのことを嫌ってるんじゃないかって思ってた。そう思うようになったきっかけは色々あるけど、それはまた機会があれば話すわ。そう、それで、死んだ魚みたいな目して外を歩いてた頃があったのよ、ちょうどあんたくらいの年の頃ね。当時たまに行ってた場所があの居酒屋なの」
梓さんは彼女の過去をすらすらと話している。細かい事情までは省略されてしまったが、強く自立しきった女性に見える彼女にも、そんな時期があったことを知った。酔っているわけではなさそうだが、梓さんは普段より饒舌になって続ける。
「あの時あんたに声をかけたのは、お節介だったかもしれないわ。あんたの表情を見て助けてあげたい、ってなんだか本能的に思ったから話しかけてみたけど、別に知らない人からの助けなんて求めてなかったわよね、ごめんなさいね。でも人助けってどうしても自己満足の世界の中にあると思ってるの。だから、放っておけなくて」
謝られると思っていなかった私は戸惑いながら首を横に振った。梓さんの良心を迷惑だとは思わなかったし、実際彼女の助言により彼と別れることを決断できたわけで、私にとっての梓さんの存在は知らぬ間にとても大きくなっていたことに気づかされる。
「私は梓さんに救ってもらったと思ってます。梓さんと出会えて嬉しいとも思ってます」
私は本心をそのまま口に出した。その言葉を口にしながら、梓さんは「ただの強い女性」なんかじゃないと私は確信した。彼女は何者なのか、そう問うてみれば答えはものすごく複雑なものになるだろう。どんな道を歩んで大人になっていったのか、それを正確には理解していないし、知るべきでもないと思う。彼女に干渉し過ぎるつもりはないし、もしかしたら今後はもう関わらなくなっていくのかもしれない。
しかしそんな中でも改めて分かったのは、彼女も私と同じ人間であるという、本当に当たり前のこと。そして彼女も私と同じような20という年齢を過ごしたこと。誰にでも困難を乗り越えた経験があるとは言い切れないだろうけれど、誰もが20という壁を越えながら大人になっていくのだろう。そんな人生の途中が今だと考えるなら、それは儚くも尊いものであるといえる。
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