第9話

翌朝早くに、目が覚めた。体が妙に重たいけれど、気持ちはスッキリとしていた。まだ空は薄暗いが、カーテンを開ける。明け方の空には、綿菓子のようなふわふわとした雲が浮かんでいる。


今日から、私の生活には彼がいない。昨晩の出来事を思い出す。彼の泣き声を聞いたのは、昨日が初めてだった。私は彼との電話を切った後、1人でこっそり、気が済むまで泣いた。どれだけ泣いても人間は死なないのだろうか、またそんなくだらないことを考えていた。そして好きなだけ泣いた後、床に転がったまま寝てしまった。


彼が最後に言った言葉。私が彼と喧嘩をした時、ずっと言ってほしかった言葉だったのに、昨日聞いたそれは、なんだか少し違っていた。仲直りをするためとか、喧嘩をしてしまったことに対して申し訳ないと思うから、とかそういう理由で言ったわけではないだろうから。彼はただ単純に、自分のしてきた行動にも、それがどうやって私を傷つけていたのかにも、ずっと前から気づいていて、それを謝るタイミングを見つけられずにいたのだと思う。


何か言葉を伝えたい時、それは後で言おうと思えば思うほど言いづらくなるものだ。今じゃなくてもいいかと適当に誤魔化されていくうちに、その言葉たちは忘れられていく。それらが溝となって、人はすれ違っていくのだろう。


1つため息をついて、床に放置されたケータイに手を伸ばす。もう彼からの「おはよう」は貰えない。でも、これで良かったのだと思う。ゆっくりと彼との思い出を消していく。連絡先、LINEのトーク履歴を削除し、他のSNSを開いて彼のフォローを外す。付き合った当初から設定していた待ち受け画面は、彼とのツーショットからなんでもない空の写真に変えた。


「直接言った方が、良かったかな」

そう独り言を言う。電話だけで別れ話を終わらせてしまうのは、もしかしたら彼に対して失礼だったかもしれない。

「ううん、そんなことない」

また独り言。伝えたいと思ったタイミングを逃さなかったこと、それだけでも私にしては十分成長した方だと思う。まだ強くはなりきれていないと思うけれど、もう目の前にいる人と向き合うことを避けたりなんかしない、と自分に誓った。


彼と過ごす日々を幸せだと感じていた始まりから、あの頃は幸せだったと振り返る終わりへ。1年間でその物語は終わってしまったけれど、過去の私も過去の彼も、確かにそこにいたし、それを消し去りたいとは思わない。この物語の中に、当時の私たちをそのまま残しておけばいい。


ケータイのカメラロールを開き、ゆっくりとスクロールする。写真の中で笑う恋人同士だった私たち。その笑顔に嘘はなかった。

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