第8話

「うん」

電話の向こうから小さな返事が聞こえる。これから私が何を伝えようとしているか、彼は気づいているだろう。

「別れよう、私たち。これでちゃんと、最後にしよう」

私がついにその言葉を口にした時、彼はもう何も言わなかった。2人ともずっとこの瞬間が来るのを知っていたかのように、ただ言葉にできない気持ちが時間の中に溶けていく。


「私、このままあなたといると、自分を失って見つけられなくなりそうなの。一緒にいて幸せだって、素直にそう思えなくなった。私は自分を大切にしてくれる人、私が大切にしたいと思う人と恋愛がしたい。でも、あなたといると、それが叶わないの」


本当に楽しい瞬間も、本当に悲しい瞬間も、全て彼と付き合っている自分のままでは味わえない気がした。いや、正確にいうと、彼とは共有することができない気がした、のだ。彼といると、自分がどんどんボロボロになって、自信が持てなくなっていく。そんな自分の気持ちを無視して、見て見ぬふりをしてきた。それももう、終わりにしよう。


1度泣いてしまえば、止められない気がする。だからなるべく泣かないように話したいのに、言葉を吐く度に息が苦しくなっていく。何も答えられずにいる彼に私は話し続けた。ずっと私の中だけで抱えてきた感情を、1つ1つ解放していく。


「自分のことを本当に可愛がってくれて、幸せにしてくれる人を探そうと思う。私の言葉に耳を傾けてくれる人をね。自分をなくしてしまう前に、私はあなたと別れなきゃいけない」

考えていたことは山ほどあったはずなのに、大事な場面でそれを表現する言葉がなかなか見つからない。伝えたいのに伝えきれていない感じが、喉の奥に残っている。それが悔しくも感じられたが、全部を言葉に変換できるわけではないことは分かっていた。


彼は何も言わなかったけれど、言葉で表現する代わりに、泣いていた。その声が本当に苦しそうで、自分から振っておきながら胸が痛む。それでももう私は引き下がれなかった。

「今までありがとう、私の恋人でいてくれて。お互いに好きだった頃は、とっても楽しかったよ。嬉しかった、幸せだった。ありがとう」

何よりも苦しいのは、2人で一緒に幸せになれないことだ。あなたには、私じゃなかったみたい。ごめんね。


彼の顔は見えない。彼が今どんな表情をしているか、彼の心の中にどんな渦があるのか。怒りか、悲しみか、執着か、諦めか。そのどれか、あるいは全部か分からないけれど、もう何でもよかった。彼が今何を想っていても、私の気持ちが変わることはないのだから。


なんとなく窓の外に目をやると、空はもう暗くなっていた。遠くに三日月が見える。細く尖った形をしているように見えても、内側には光を宿している。私たちにも、たまには尖って見せなければいけない時があるのだろうか。


長かった沈黙の後、彼は優しい声で言った。

「分かった。ずっとずっと、ごめんね」

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