第6話
「俺は別れたくないよ」
会った瞬間、私が別れたいと告げるのを阻止するかのように、彼は言った。その発言を聞いただけでも私は少しひるんでしまいそうになったが、せめて自分の意思だけでもここで伝えなければと思った。
「私もすごく悩んだし、別れたくないと思ってた。でももう限界なの」
言いたいことはたくさんあるのに、喉の奥が窮屈で言葉が続かない。 私と彼との間に流れる沈黙が、私たちの心の溝を表しているようで、寂しくなった。黙っている彼を見て、慌てて次の言葉を探す。
「ほら、私たちすごく喧嘩が多かったじゃない。あなたと私では、合わないっていうか」
自分の臆病さと埋められない隙間が、重たい空気となって流れていく。 それからまた沈黙が続いた後、今度は彼の方が口を開いた。
「付き合い始めてから今まで確かに喧嘩は多かったと思うけど、何回も仲直りしてきたじゃん」
仲直り、か。彼が言うその無責任な言葉に、私が何度も謝ってあげてるだけなのに、とつい思ってしまう。でも実際にこの言葉を彼にぶつけられない自分が憎い。
「仲直りはしてきたけど、でもお互い納得いかないことも多かったと思うの」
だめだ。こんな弱い言い方しかできない。
「もう少し一緒にいてよ。それから考えればいいんじゃない?そんな焦ることじゃないよ」
強く言い返すことのできない私に、彼は適当な言葉ばかりを並べる。
「もう1年くらい一緒にいるんだよ。それなのに喧嘩はなくならないままだし。それって私たちが上手く向き合えてないからじゃないのかなって」
私は勇気を出してそう言ったものの、彼にはあまり響かなかったようだった。
彼は話し合いをしている間、私が何を言っても、「別れたくない」の一点張りだった。そもそも、彼は私の言葉にいちいち耳を傾けてくれているだろうか。
「俺はまだ好きだよ。この気持ちは変わらないと思うから。もう1回だけ考え直してくれないかな」
結局その日は彼に適当に話をまとめられてしまい、また別れることができなかった。 彼に話の主導権を握られていることがとても悔しかったけれど、 それに自分が上手に抵抗できなかったことの方がもっと悔しかった。 私にとって、彼は本当に恋人なのだろうか。
こんな調子じゃ梓さんにまたダメ出しされてしまうだろうな、と思いながら帰りの電車で彼女にメールを打つ。
「彼に会いました。でも、今日は負けてしまいました」
そんなしょうもない文章を送り付けられても困らせてしまうだろうとも思ったが、近況報告だけはしておくことにした。
彼との話を終えて帰宅すると、まだ夕方なのに床に倒れてそのまま寝てしまった。 その日の私は、魂を奪われた抜け殻のようだった。 自分の中心にあるものを吸い取られたような、自分の力では立てないような、そんな今の自分は滑稽な生き物に見える気がする。
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