第3話

両想いだから付き合っているはずなのに、 私の思いだけが一方通行で流されていくだけな気がする。 それでも、「本当に別れる」ということはなかなかできずにいた。 彼に対する気持ちが冷えていくのを感じながらも、 彼の好きなところにどこか依存しているような自分もいた。


私が焼いたクッキーをあげると、美味しいと何回も褒めてくれて喜んでくれたこと。 デートの帰りにお別れをするのが寂しくなってなかなか離れられなかった私を、 最寄り駅まで送ってくれたこと。 私の誕生日にはプレゼントだけではなく、彼が書くのは苦手だと言っていた手紙をくれたこと。 私がバイト終わりに電話をするといつも癒しをくれたし、 何より時間もお金も私のためなら惜しまずに使ってくれた。 お金なんてかけなくてもいいのに、と私は思うけれど、 それが不器用な彼なりの精一杯の私へのアピールだと知っていたから、 素直にそれを受け入れて嬉しく思っていた。 だからそんな彼をどうしても憎めず、 彼のことを考えれば考えるほど別れに踏み切れなくなった。


悩みながらダラダラと関係を続けていた。 不安な気持ちのまま付き合ってもうすぐ1年が経つ頃、私は20になった。 恋愛のことで頭が重たくなっていくのを感じた私は、 蒸し暑い空気が肌にペトリと張り付くような夏の夜、1人で近所の居酒屋に行った。 少し寂しい気もしたけれど、なんだか知っている人には会いたくない気分だったので、 誰も誘わずに行った。


カウンター席で1人でレモンサワーを喉に流し込んでいると、 隣の女性が突然話しかけてきた。 知らない人に話しかけられるのは苦手だが、 酔っ払いのおじさんよりはマシだと思った。


「あんた、今日はなんで飲みに来たの?この店では見かけない顔だけど」

その女性は、私より明らかに年上で落ち着いた雰囲気を纏っていた。 おそらく20代後半くらいだろう。 急に声をかけられただけでもビビっていたが、 その女性の顔を見つめてみるとさらに驚いてしまった。


シャープな顎のラインに薄い唇、 そして真っすぐにこちらを見てくる黒くて大きな瞳と、長く上向きなまつ毛。 どう考えても、美人過ぎる。 痩せているけれど不健康には見えない見た目で、 化粧や服装でカバーしているわけではない内側から出ているような上品さがあった。


しばらく見とれてしまっていた後、質問に答えていなかったことに気づいた。

「あ、えっと…なんとなく1人になりたくて。なんていうか…現実逃避、ですかね」

私は慌てて言った。 なんで私にそんなことを聞いてきたのだろう。 そう思ったけれど声に出さずにいると、再び彼女が口を開いた。

「ふぅん。いくつ?てか何から逃げてんの?」

「今年20歳になったばかりです。逃げてるのは…まあ…恋愛です」

彼女が軽い口調で話しかけてくることに少し動揺しながら、 なんとか返事をする。

「なるほどね。恋人と上手くいってないとか?」

あまりにもズバリと言われたので一瞬ドキッとしたが、 嘘をつく理由も特にないので、戸惑いながらも「そうです」

とだけ答えた。


彼女の顔を見るのはなんだか緊張するので、 わざとグラスに残ったお酒を少しずつ口に運ぶ。 そこから少しずつ、私と彼女は会話を重ねた。 彼女は梓と名乗った。25歳で広告業界で働いているらしい。 彼女もこの店の近所に住んでいるらしく、ここは行きつけなのだという。


「上手くいっていない原因とかはあるの?」

「別れられない理由は?」

「彼のどういうところが好きなの?」

彼女が勢いよく聞いてくる質問に一つずつ答えながら、自分の体に酔いが回っていくのを感じる。 案外知らない人の方が、自分の深い部分を打ち明けやすいものなのだろう。


ある程度私たちが打ち解けた頃、時刻は夜の21時になっていた。 私はだいぶ酔っていたので、1人で帰れなくなるほど飲んでしまわないように、 今日はこのあたりで帰ろうと決めた。


「私、もうそろそろ…」

と言うと、

「じゃああたしも帰るわ」

と梓さんも席を立った。 結局今日は梓さんが奢ってくれた。 初めて会った人に払ってもらうのは抵抗があったので何度か断ったが、最終的には年上の優しさに素直に甘えることにした。


「家、すぐ近くなの?」

と梓さんに聞かれたので、

「はい、ここから10分くらいです」

と答えると、次の瞬間梓さんはまた私を驚かせるようなことを口にした。

「じゃああんたの家少し寄らせてよ。あたしまだあんたの話聞きたいなって思ってんだけど、どう?」



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