喉を流れる、度数四十パーセントのアルコール。差し出された琥珀色の液体は、色彩豊かなカラーライトを浴びてきらきらと輝き、その正体も知らずに、僕は一気に飲み込んだ。今までに感じたことのない、むず痒いような熱が喉を流れる感覚。その刺激に思わず噎せ込む。すると、何処からか手が伸びてきて、緑色の欠片が口腔内に放り込まれた。反射的に咀嚼すると、爽やかな果汁と共に、じゃりじゃりとした塩味を感じ、僕は顔を歪ませた。刺激物に対する反応に、思考が追い付かない。異なる味が混同しているが、不思議と拮抗している感じがしない。熱を帯びた咽頭に流れた苦味と塩味が、するりとアルコールの刺激を取り除く。これが、大人の味というものかと、空になったショットグラスを見て思った。

「どう? 苦いでしょ?」軽く放心状態にある僕の前に、縮れ髪を銀色に染めた男が現れた。苦笑する僕を見て、男は好奇な物でも見るように、口角を上げた。

「最初にテキーラは、流石にきつかったかな」男は傍のショットグラスを傾け、持っていたライムを荒々しく噛み切った。

「君、まだ若いでしょ? 高校は卒業してるの?」男はカウンターに溢れた果汁を拭き取り、ライムの皮をグラスに放り込んだ。

「まぁ…はい」よろけた僕は、カウンターに肘を付き、無数のカラーライトが蠢く空間を見渡した。カラーライトが集結する部分には、複雑な機材を操る男が、様々な蛍光色に染まりながら、身体を揺らしている。長髪の縮毛激しく靡き、飛び散る唾と汗が、光を浴びながら舞い散る。俯きながら黒い機械を弾く男は、時折ターンレコードを弄り、その度に、軽快なスクラッチ音が鳴り響く。激しくも纏まりのある音が、空間を彩る。男の指先から次々と繰り出される音は、機械を通して音声信号となり、空気を震わせ、この場に集う人々の鼓膜を震わせ、空間全体を飲み込んでいるように見えた。

「踊らないの?」

「いや…僕は…」

「そう…まぁ、楽しんでってよ」そう言って、銀髪の男は、カウンターの奥へ消えた。

 少し前、僕は、いつものように夜の街を彷徨っていた。目的もなく、ただ歩いていた時、建物の隙間に灯る、オレンジ色の光が気になった。視界の端に捉えたそれを、じっと見つめると、バケツのようなゴミ箱の奥に、人影が見えた。人だ。こんなところで、何をしているのだろう? 僕は静かに、影を見つめた。暗闇から、視線を感じる。どうやら影の方も、僕を見つめているようだ。そのまま時間が流れ、影が声を上げた。

「どうした? こんな時間に、家出でもしたか?」影はそう言って、にやりと笑った。唇の間から、真っ白な歯が覗く。微かに、煙草の匂いを感じた。何も言わない僕を見て、影はゆっくり立ち上がった。指先に灯っていたオレンジ色が落下し、男はじゃりじゃりと音を立てながら、それを踏み潰した。

「お前、暇なんだろ? 俺に付いてくるか?」明るみに出た影は、長身な男だった。深く被ったフードから、縮れた髪が見える。男は僕の前を通り過ぎ、歩き出した。僕は、男の言葉に引っ張られるように、その背中を追い掛けた。

「Roi:Yanagi」人気のない路地裏に、赤いネオン管で作られた看板が、ぽつんと置かれている。その横には、地下へ続く階段が伸びていて、微かに音が漏れ出ている。男は吸い込まれるように、階段の奥へ消えた。焦った僕は、興味と不安が混同したような興奮を覚えながら、薄暗い階段をゆっくり降った。最後まで降ると、大きな扉があり、その手前には、青いネオン管が「OPEN」という文字を照らしている。意を決したように、扉に手を掛けると、眩い光と爆音が、僕の視界と聴覚を奪った。反射的に細めた瞼を開くと、そこには、僕の知っている世界とはまるで違う世界が広がっていた。天井に点在するライトが、忙しなく角度を変えながら、空間を立体的に染め上げる。そして、自由自在に動き回るライトの中で、大勢の人々が踊っている。一心不乱に身体を揺らすその姿を見ていると、何だか羨ましく感じた。

 銀髪の男が去った後、僕は暫く、踊り続ける人々を眺めていた。すると、一人の女の子に目が留まった。その子は、セミロングの髪を栗色に染め、音楽に合わせてふわふわと身体を揺らしている。華奢な身体を紺色のTシャツで覆い、短めのハーフパンツからは、白い脚がすらりと伸びている。円な瞳が埋まる顔は、ほんのりと火照っている。彼女は、周囲にいる人々と笑いながら、踊ったり、グラスを傾けたりしている。僕が彼女に目が留まったのは、甘く軽やかなダンスに魅入られたわけでも、白い肌が覗く身体に本能を擽られたわけでもなく、ただ只管に、楽しそうに笑う姿の奥に、ひっそりとした哀愁が漂っているように見えたからだと思う。不意に、彼女の視線が僕を捉えた。僕は視線を逸らさずに、彼女をじっと見つめ、僕達は数秒間見つめ合った。丸い瞳が、驚いたように大きく見開かれている。周囲の人々が、スローモーションのように残像を残しながら動き、耳が詰まったような感覚を覚えた。その時、僕を見つめるその肩に誰かの手が置かれ、彼女は反射的に僕から目を逸らした。彼女は、隣にいる男女と何か話していたが、また僕の方を振り返り、ゆっくりと歩み寄ってきた。踊り狂う人々を避けながら、僕の隣に来た彼女は、その手に持ったグラスをカウンターに置いて、僕の目をじっと見つめた。

「ねぇ、何で私のこと見てたの?」

「え?」

「さっき、見てたでしょ? 私のこと」

「…何となく」

「ふーん。君も飲む?」そう言って、彼女が差し出したショットグラスには、先程と同じ琥珀色の液体が注がれていたが、ねっとりとした重量感があった。グラスに入っている氷が、からからと気持ちの良い音を鳴らし、まるで蜂蜜のような甘い香りが漂ってきた。

「毒は入ってないよ」僕が訝しそうにそれを見ていたせいか、彼女はくすくすと笑った。その笑顔に動揺し、僕は咄嗟に彼女からグラスを奪い取り、一気に喉に流し込んだ。ぐらり。テキーラの苦味に匹敵するほどの濃厚な甘味が押し寄せ、軽く目眩を覚えた。

「ふふ。甘くて美味しいでしょ? 蜂蜜のウィスキーだよ。私のお気に入りなんだ」彼女はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。先程までは、ただ遠くから見つめていただけの彼女が、今、目の前にいて、僕を見て笑っていることが信じられず、思わず視線を逸らした。とろんとした眼差しを、真正面から受け止めることができなかった。

「一人で来てるの?」彼女はくるりと向きを変えて、カウンターに身体を預けた。彼女の声は少し掠れていた。

「酒灼けですか?」

「失礼ね。これが地声なの」彼女はそう言って、紅潮した頬を膨らませた。 

「綺麗な声ですね」

「お世辞はいいよ。それで? 一人?」

「あ、はい」

「へぇ、まだ若いでしょ? よく来るの?」

「いや、初めてです」

「どうやって来たの?」

「外歩いていたら、煙草吸ってる人に声掛けられて」

「何それ? その人がもし人攫いとかだったら、君、誰かに売り飛ばされちゃうよ?」

「このご時世に? それに俺、男ですし」

「でも君、線が細くて肌も白いし。女の子に見えなくもない…かも」

「いや、無理あるでしょ」彼女は、殆ど泥酔に近いほど、酔っていた。顔の火照りが増し、呂律が回らなくなっていく彼女は、意味不明な会話を繰り返し、可笑しそうに笑った。僕も、段々と思考回路が鈍くなり、視界がぐらついてきた。どうやら、僕も酔っているようだ。不思議と、気持ち良い感覚に包まれる。

「いいね。君、酔ってるでしょ?」ふらふらと頭を振る僕を見て、彼女は笑った。酔うというのは、こんな感じなのかと思った。この、何ともいえない快感を味わうために、大人は酒を求めるのだろうか。

「顔赤いよ」

「そっちこそ」酔っ払い同士で言い合っていると、急に、音楽の曲調が変わり、バラードのように滑らかな音を奏で始めた。そして、スローテンポな音楽に同調するように、それまで激しく移動していたカラーライトが、ゆっくりと流れるように旋回し始めた。赤。青。緑。紫。目の前にいる彼女が、様々な色に照らし出される。彼女は、中央でリズムを刻むD Jを眺めながら、ゆったりと身体を揺らしている。少しぽってりとした、艶のある唇を見つめていると、口角の近くに、黒子があることに気付いた。何となく、僕は彼女に夢中になっているような気がした。それは、恋という感情ではなく、何かぞくぞくとした欲望のようなものが、じわじわと僕の中に染み出して、興奮しているような感覚だと思った。彼女の横顔を眺めながら、僕は胸の鼓動が強く波打っていることを自覚した。音楽に聴き入るように、暫く目を瞑っていた彼女は、思い出したように僕の方を振り返り、安心したような表情を見せた。

「なんか暑くない?」

「どっちかというと寒いよ」

「お酒飲んだからかな? ちょっと外出ようよ、酔い冷ましに。きっと、風が気持ちいいよ」本当は、まだ酔いの感覚を味わっていたかったけれど、彼女に言われたら断れないような気がして、僕は従順に頷いた。華奢な背中を追いかけて、出口へ向かう。分厚い扉を重そうに開けていたから、後ろから力を加えると、彼女は「さすが」嬉しそうな顔で振り向いた。扉の外に出た僕達の頭上には、少し欠けた月と、霞んだ星が浮かんでいた。僕達は、何かを話すこともなく、ただ、目の前に伸びる道を歩き始めた。等間隔に並ぶ街灯が、僕達の足元を朧げに照らす。鼻歌を歌いながら、上機嫌に歩く彼女は、まるで少女のように見えた。僕は、その狭い肩幅を眺めながら、彼女に歩調を合わせた。途中、懐中電灯をヘルメットに付けながらプレートコンパクターを操る作業員達の横を通り過ぎた。ふらふらと歩いている彼女の肩を抱き寄せ、赤いコーンから遠ざけようとしたら、じゃりっとした音がした。足元を見ると、靴の下で何かが光を放っていた。

「どうしたの?」急に立ち止まった僕を不思議に思ったのか、彼女は笑いながら首を傾げた。

「ううん、何でもない」僕はそう言って彼女に笑い掛け、横に並んで歩き出した。暫く道なりに沿って歩いていると、錆びたフェンスの奥で線路が途切れていることに気付いた。ここは、電車の最終駅だったのだろうか。いつの間にか街頭は消え、僕達は霞んだ星と朧げな月明かりによってお互いを認識していた。不意に、横を歩いていた彼女が立ち止まった。

「綺麗だね」夜空を見上げながら、彼女は言った。

「そうだね」そう僕は答えたが、実際には、満天の星ではないし、満月でもない月夜を綺麗だとは思わなかった。しかし、未完成のままの姿を綺麗だと感じることができる彼女の感性を、羨ましく思った。

「ねぇ、今何考えてるの?」不意に、彼女が聞いた。突発的で、脈絡もない問いに僕は戸惑った。その時、視界が暗くなり、唇に何かが触れた。驚いた僕は、そのまま身を固まらせた。彼女は、真剣な眼差しを僕に向けて、小さな手を僕の肩に置き、再び顔を近付けた。長い睫毛と、その隙間に覗く瞳を見て、僕は思わず目を瞑る。少し厚い唇と、湿った感触が、キスをしているという実感を際立たせ、僕の心臓を刺激する。僕の鼻息は無意識に荒くなり、それに共鳴するように、彼女から僅かな吐息が漏れる。掠れた声からは想像も付かないような甘い声が、僕の鼓膜を震わせる。お互いの指を絡ませ、彼女をフェンスに押し付けるような状態で強引に重なる。唇を合わせながら目を開けると、身長の低い彼女は、首を痛めないか心配になるほどの角度で僕の方を向いていた。僕は少し屈み、彼女の腰に手を回して抱き寄せた。少し赤みが取れてきた筈の彼女の顔は、最初に会った時よりも紅潮しており、僅かに開いた隙間から、微かな吐息を漏らしている。ぽってりとした唇は柔らかく、その弾力性は、僕が掛ける力に合わせて自由自在に変化する。苦味のある唾液はじんわりと温かく、先程のアルコールを想起させる。唇を離すと、彼女はとろんとした瞳で、まるでアイスを強請る子供のような顔を見せた。僕が微笑むと、彼女は少し恥ずかしそうに俯いた。彼女の胸に手を置くと、ドクドクと波打つ鼓動が、掌の感覚を通して伝わる。彼女の鼓動に刺激され、連鎖するように僕の鼓動が速まる。荒くなる呼吸。息苦しさを感じて、荒い呼吸を繰り返す。血液が、毛細血管の隅々にまで駆け巡るような、ぞくぞくとした感覚。この心地良い感覚は、何だろうか? 欲望のままに、生を貪るような貪欲さが、僕の内側から少しずつ染み出してくるような感覚。自分でもよく分からないが、とにかく、すっきりとした心地良さがあるのは確かだと思った。僕は、左手で彼女の鼓動に触れたまま、丸めた右手の小指を、彼女の胸に強く押し当てた。ちくり。疼痛を感じて訝しんだ彼女は、僕の右手に握られたものを見て、首を傾げた。僕の手の中できらきらと光るそれは、先程、路上工事の脇を通った時に踏みつけた小さな鏡の破片だった。道路に転がっていたせいか、ナイフのように尖る先端部分には僅かに砂が付着しており、彼女のシャツを汚した。僕の突然の奇行に、彼女は怪訝な感情を前面に出した。僕は、僅かに力を入れた右手を、赴くままに振り下ろした。

「痛っ」垂直に切り裂かれた繊維の隙間から、彼女の血液が真っ直ぐな線を引く。

「痛い?」苦痛に顔を歪ませる彼女を見て、僕はそう聞いた。彼女が疼痛を感じるのも、その切れ目から鮮血が溢れ出るのも、目の前の対象物を不審に思うのも、彼女の生命機能と、それに伴う防衛反応が正常に働き、彼女が今、確かに生きている証しであることを、僕は深い実感とともに味わい、嬉しく感じた。

「手、離して。痛いよ」俯きながら、彼女は掠れた声で呟いた。僕はリストカットの経験はないけれど、多分それは、紙で手を切ったような鋭い痛みに近いのだろうなと思った。僕は、右手に持つ鏡の破片を強く握り締め、思い切り振り下ろした。

「うっ」鈍い声が聞こえた。それは、鳩尾に拳を入れられたような、悲鳴のような声だった。きらきらと輝く鏡の破片は、ハーフパンツから覗く白い肌に直角に侵入している。鏡と肉の断面が密着しているせいか、血液は流れない。彼女を見ると、先程までの紅潮した顔から完全に色素が抜けたように、青褪めた表情をしている。

「痛い?」

「…痛い…」

「痛みの秘密を、知ってる?」僕は彼女の瞳を覗き込みながら、優しく語り掛けた。   

「痛みを感じることは、生きていることと同等なんだ。もちろん、例外はあるけどね。だから、今この瞬間、君は僕と同じ空気を吸いながら、生きている。そして、君の中を巡る血液により全身の細胞に酸素が行き渡り、その代わりに不純物を吐き出しながら調和を取り、生命を紡いでいる。それを繰り返して、君の細胞は生き、君は生きているんだ。僕の言っている意味が、分かるかな? 痛みは、生命が危険に晒されていることを知らせる、危険信号なんだ。君が痛みを感じるのは、その皮膚や、血管や、筋肉や、脂肪が傷付いたから。まだ小さい傷だけど、放っておけば孰れは腐り、壊死してしまう。だからその前に、適切な処置をして、傷口を塞がなければならない。痛みがないと、人間は危険を認識せずに、その危険性に気付かずに放置してしまうからね。だから、痛いと感じることは、君の身体が君を守るために、必死に訴えているという証拠なんだよ」自分でも驚くほど饒舌に、僕はどこかの大学教授みたいな口調で、熱く語り掛けていた。彼女は俯き、荒い呼吸を繰り返しながら肩を震わせている。大腿に感じる痛みが余程強いのだろう。長い睫毛が瞳を覆った瞬間、大粒の涙が溢れ、彼女は声を荒げて泣き出した。身体は痛い筈なのに、その行為には、痛みを緩和させる効果でもあるのだろうか。僕は、彼女の胸元に視線を向けた。既に止血しているのか、膨らみのある部分に刻まれた赤い線は乾き、白い肌に不気味に浮き出ているように見えた。

「血、止まったね」瘡蓋になりつつあるそれを優しく撫でると、彼女は瞬時に身体を強張らせた。潤んだ瞳は、まるで底無しの恐怖に囚われているかのような絶望を写していた。その対象となっているのは、目の前にいる僕だけれど、彼女は恐怖から逃れるための逃走手段を持ち合わせていない。人影のない暗闇で、フェンス越しに向き合っている僕から逃れるための力もなく、その足も、僕が奪ってしまったから。そう自覚したのか、かたかたと震え始めた彼女は、まるで睡眠薬を飲んだかのように瞼が重くなった。身体は小刻みに震えているが、その表情は今にも眠ってしまいそうなほどに虚ろだった。僕は、彼女の大腿に埋まる鏡を、右手で優しく包み込んだ。

「この鏡を抜いてしまったら、きっと痛いよね」そう囁くと、彼女の瞳孔が広がり、その瞳に憂懼の色を映した。

「やめてっ…」小さな悲鳴が僕の耳に届く前に、僕は強く握り直した右手に力を入れて、思い切り鏡を引き抜いた。その瞬間、振り上げた鏡を追うようにして、彼女の中から血液が噴き出した。雨粒のように宙を舞うそれは、まるで自身の意志を持っているかのように、形を変えながら空間を這い、力強く、何かを求めるように高く舞い上がった。そして、自身の重力に引っ張られるように落下して、じわじわと地面に吸い込まれていった。白い肌に撒き散らされた朱殷を見て、僕は全身に鳥肌が立ち、思わず身震いした。僕の鼓動は、知らないうちに強く波打っていて、収縮した血管の中を、増量した血液が勢いよく流れていくような感覚を覚えた。僕の心臓は、パンクしそうなほどに強く収縮運動を繰り返していて、どうしようもなく強く、激しく、僕の胸を叩き付けた。彼女は掠れた声で叫び、唇を噛み締めて、声を挙げて泣いている。僕は、瑞々しいほどの興奮を覚えた。それは、夏に、きらきらした海を見てうずうずするような感覚と似ていると思った。荒い鼻息は、誰かに言われないと自分の鼻息だと気付かないほどに荒く、まるで餌を待つ犬のようにぶっていた。

「…たす、け、て…」絞り出したような微かな声が、彼女の口から漏れる。先程までの、甘くて囁くような声は奥に秘められ、尋常ではない痛みと恐怖に押し潰されそうなか細い声が、彼女の声帯を辛うじて震わせる。その荒い息は、僕の鼻息に掻き消されるほどに弱々しく、徐々に衰弱しているようだった。僕は、真っ直ぐに彼女を見つめた。その顔を、その表情を、見ていたかった。生きている彼女を、僕と同じ時間を、空間を生きる彼女を。それが幻とならないように、この目にしっかりと灼き付けておきたかった。少しの沈黙の後、僕の視線を受けた彼女は、その瞳に何かを感じ取ったのか、柔弱な抵抗を試みた。傷のない右足に力を込め、前に、駆け出そうとする。僕の手を振り解き、必死に駆け出そうとする。僕は彼女を抱く手に力を入れるが、後ろへ押されそうになる。強い力だ。こんな華奢な身体で、これほどまでの力を込められるのだろうか。これが、火事場の馬鹿力というものだろうか。叫びながら、僕の腕の中で悶える彼女。彼女の頭の中では、とうに僕の手を摺り抜けて、逃げ出している筈なのだろう。しかし、未だに僕の腕に抱かれている現実を、必死に否定しているように、叫び続けている。恐怖で拘縮した身体。激痛が走る身体。頭では思っている筈なのに。動けと、身体に命じた筈なのに、動きたいのに、尋常ではない痛みに耐えられない。前に、押し切れない。もどかしい。悔しい。痛みと恐怖に支配される。なぜ、動いてくれないのだろう。なぜ、動けないのだろう。動け! 動け! 動け! 動け…動いて、お願いだから…彼女の瞳から、次から次へと涙が滾れ落ちる。強膜に溢れる涙で歪む瞳。夥しいほどの血液が飛び散った大腿に、ぽたぽたと透明な血液が滴る。強く噛んだ下唇の上を、垂れ流される鼻汁が流れる。嗚咽を漏らす。悔しい。怖い。助けて。誰か。彼女の表情からは、そんな思いが、真っ直ぐに伝わってくる。只管に生を渇望する必死な様子を見て、僕は充足感を覚えていた。

「私を、どうする気? 私を…ねぇ! ねぇ…助け…」最後の言葉は、彼女自身の嗚咽で掻き消されてしまったようだ。まるで窮鼠が猫を前にして身を固めるように、彼女はじっと動かなくなった。涙が溜まった瞳を僕に向けて、ただ、必死に、懇願する。生きたいと。殺さないでほしいと。生への渇望。死への恐怖。彼女はまさに、死を目の前にして、生を実感しているのではないだろうか。そして、僕もまたそんな彼女を見て、堪らなく生を実感している。この感覚だ。その瞬間、僕は思った。この感覚。僕がずっと、求めていたもの。僕が、生きているという実感。この感動と、快感。僕は生きている。僕は、生きている! 僕は堪らなく嬉しくなり、誰かにこの気持ちを伝え、この高まりを共有したいと思った。その瞬間、僕は刹那に、あの時の、あの男の笑みを思い出した。青年が生きたいと懇願した時、男は笑みを浮かべたのだ。あの時と同じだ。あの時、あの人は、今僕が感じているものと同じ感情を得ていたのではないだろうか。そして、その感動に歓喜し、笑ったのではないだろうか。この、壮大な感動を。生きているという、堪らない実感を。そうだったのか。僕は目を瞑り、息を大きく吸い込んだ。肺が破裂してしまうのではないと思うほどに。そして、彼女の首筋に軽く曲げた指の背を這わせた。白い肌は震え、その振動が、指を通して伝わってくる。彼女は目を瞑り、強く、唇を噛み締めている。

「生きたい?」僕は微笑みながら、彼女にそう問い掛けた。労わるように、ゆっくりと囁くような声に、彼女は不意に、緊張感から解放され、安堵したような表情を浮かべた。彼女の瞳に希望の色が映り、その首がゆっくりと縦に揺れた瞬間、僕は思い切り右手を振り上げた。細かな血液の粒子が、圧力から解き放たれたように勢い良く噴き出していく。それと同時に、彼女はがくんと項垂れたように首を傾けた。僕を見つめていた瞳。何かを言い出しそうに開けたままの口。彼女は力なく、後ろのフェンスに凭れ掛かった。からん。僕の手から離れた鏡の破片が、美しい朱殷を絡ませながら地面に落ちた。僕は、俯いた彼女の前に跪き、その瞳をじっと見つめた。縋るように僕を見つめていた瞳には、もうこの世界の色など映っていないようだった。自らの生命が絶たれようとした時、彼女は僕に怒りの感情を抱いていないように思った。ただ、海のように広がる恐怖と、微かな希望を抱いているような瞳を僕に向けていた。僕が最後の最後で、彼女に同情し、肩を抱き寄せて『ごめんね』と、泣き崩れるとでも思ったのだろうか。若しくは、鏡の破片を道端に投げ捨て『冗談だよ』と狂ったように笑うと思ったのだろうか。僕が彼女の首筋を切り裂いた瞬間、彼女が自らの血潮をその瞳に映した瞬間、彼女の瞳には初めて、僕に対する敵意や、憎悪などの感情が混同した色を映し、僕を強く睨み付けたような気がした。その凄まじい威厳に僕は一瞬どきりとしたが、鋭い眼光は軈て消失し、彼女はそのまま視線を外した。

 彼女の吐息が途切れた時、暗闇には、荒ぶった僕の呼吸音だけが響いていた。まるで長距離走をしている時のように、酸素を欲する身体は、呼吸に伴い肩を大きく揺らし、乾いた音をたてながら、貪るように空気を吸い込む。ばくばくと胸を打ち鳴らす鼓動が、僕の興奮を更に掻き立てる。すっと頭に血が上ったような感覚と軽い目眩を感じた僕は、額に手を当てて蹌踉めいた。その時、どこからか、息を吐くような音が聞こえてきた。耳を澄ませると、それはくすくすと悪戯に笑うような声だった。不意に聞こえたそれは、最初は遠慮がちに声を抑えていたが、少しずつ大きく、引き笑いのようになり、軈て声を荒げて、高々と笑い始めた。誰が、笑っているのだろう? 小刻みに震える肩と、それに従い揺れる腹筋に触れた時、それが、僕の声であることに気付いた。僕は額を押さえたまま、細々と輝く星々を見上げ、笑っていた。耐え切れなくなった笑いを、どこまでも広がる宇宙へ吐き出すように。こんなにも腹を抱えて堪えきれなくなった笑いを吐き出していた。こんなにも腹を抱えて笑ったのは、いつぶりだろうか。僕は久々に、心の底から笑ったような気がして嬉しくなった。忘れていた感情、生きている楽しさや心地良さを、実感したような気がする。これが、生きているということなのだろうか。目の前に項垂れる彼女を見て、僕は穏やかな息を吐いた。あれほどまでに高鳴っていた胸の鼓動は、少しずつ落ち着きを取り戻していて、今は静かに、収縮運動を繰り返している。彼女の顔を覗き込む。穏やかな寝息を立てているような彼女。僕を見つめているようで、見つめていない瞳。目尻に溜まる涙を、人差し指で掬い上げる。半口を開けたまま、力無く引き伸ばされる下唇。少し厚くて、艶とグラデーションが施された唇は、彼女自身の色素を失い、少し赤みが薄れたように見える。僕は手の甲で彼女の頰に触れ、優しく撫でた。そして、彼女に精一杯の微笑みを向けた。地面に滴る朱殷は、まるでペンキが入ったバケツを倒してしまったかのように、激しく、生々しく、地面を這っている。その芸術的な色と筆使いの美しさに、僕はまた、蕩けるような感動に包まれる。そして、彼女から漂う芳醇な香りに酔い痴れる。この香りを味わっているのは、僕だけ。なんて、魅力的な香りなのだろう。僕にとって、何百年も熟成された年代物の高級ワインやブランデーよりも、彼女の中で生まれ、熟成され、全身の細胞を流れ、軈て破壊される儚い血液の方が遥かに魅惑的で、悪魔的だと思った。彼女の生命を保っていた、まさに生命の源ともいえるそれは、どんなアルコールよりも、僕を惹き付け、陶酔させてくれる。この香り、そして、この感覚。心地良い。只管に、心地良い。

 どれくらい、そこにいただろうか。ずっと彼女の前に屈み込んでいたからか、足が重く、疲労を感じる。僕はふらふらと立ち上がり、明るみの灯る街灯がある方へ歩き始めた。その途中、僕が彼女を振り返ることはなかった。彼女の姿は、僕の網膜に焼き付き、鮮明な像を映し続けていたから。生と死を経験した彼女は、もう、動くことも、呼吸をすることも、声を出すことも、笑顔を見せることもなく、ただ静かに、朱殷の中に座り込んでいる。夜空を見上げると、きらきらと輝く星と、少し欠けた月が見えた。

「綺麗だね」不完全な月を見たら、先程彼女が言った言葉を思い出した。東京のネオンに掻き消された星しか、僕は知らないけど、本来、星はもっと綺麗に見えるものであると、彼女は呟いた。今、僕の頭上に散らばっているのは、人工的な光に燦々と照らされた星。しかし、この瞬間、僕には掠れた星が、これ以上にないほどに美しく見えた。ここは、深淵の闇。あの時、あの男が消えていった闇に、僕は今、立っている。あの時、僕が夜空を見上げていたら、こんなにも美しい星と出会うことができただろうか。あの時、あの男は僕と同じように、夜空を見上げたのだろうか。やっと、辿り着いた。掠れた星を美しいと思える感性が、僕にも備わっていた。夜空を見上げ、僕は微笑んだ。そして、興奮の冷め切らないまま、すっかり疲弊した足を引き摺りながら、僕は帰路に着いた。漠然と歩を進めていると、橙色の灯が見えてきた。それは、僕の前に伸びる道を暖かく照らしている。僕の、帰る場所へと、導いてくれる光。暖かな光に誘われるように、僕の足は自然に前へと進む。疲弊と睡魔に襲われ、意識がぼんやりとしてきた僕は、ただ、足の赴くままに、照らされた光に従うように、ゆっくりと歩みを進めた。

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